やんごとなき姫君

「ここが、これからそなたの過ごす部屋だ」

「………すごい」

 目の前に広がる光景に、旭は簡単には言葉が出ない。欄干の外に目をやれば、城を囲む木々を取り巻くように薄白い雲海が広がり、城内を向けば驚くほどの畳数の広間が青々と目の前に広がっている。これまでの世界では何をどうやっても手に入らないであろうその壮大なスケールに、自ずと心が弾む。

 好奇心を抑えきれない旭の表情を、瑞穂は嬉しそうに見つめたが、すぐに声音を引き締めて鴉に向き直った。

「鴉。私の不在の間に、何か変わったことなどはないか」

「はい、特段変わったことはございません」

「そうか。公務開始まではまだしばし時間があるな。では旭の城内の案内と今後のことについてなどの話は私から……」

「いいえ旦那様、旭様のお世話は全て私が承ります。今朝も旦那様宛に数多の文や書状が届いております。星の守様よりの厳封の書状もございますし……公務前に目を通していただかないと、日々のあれこれが甚だ滞りますゆえ」

「いつものことだが厳しいな、鴉。旭の到着した初日くらい、朝の半刻(約1時間)分の仕事を省いても……」

「なりませぬ」

 瑞穂の呟きに、鴉は何とも明快な笑みでそう答える。

 主人の表情に一瞬雷雲が湧きかけた気がして、旭は思わず青ざめた。

 しかしそんな不穏な空気をすいと切り替え、瑞穂は浅く微笑んだ。

「はは。優秀な家臣には敵わぬな。

 では、ここからは鴉に任せる。今後に関する重要事項はそなたから旭に漏れなく申し伝えよ。では旭、また後ほどな」

 そう旭へ柔らかに微笑むと、瑞穂は歯切れ良く踵を返して艶やかな木目の回廊を遠ざかった。朝の陽射しと静かな風に、彼の白銀の長髪が広い羽織の背を包むようにキラキラと纏わる。今までの世界とは全く違う場所へやってきたのだというこの状況を、旭は改めて噛み締めた。

「あんな駄々っ子のような瑞穂様を見るのは、初めてです」

 旭同様に主人の背を見送りつつ、鴉がクスッと笑う。

「え、駄々っ子? な、なんか一瞬雷が落ちそうな気配が漂って焦ったんですが?」

「ええ。そこがもう駄々っ子ですよね。これまでは、堅苦しいほどに生真面目な顔しかお見せになりませんでしたから……先程の瑞穂様の可愛らしい様子には、内心私もびっくりしました。言うなればきゅん、と申しましょうか」


「……」

 あの恐ろしい気配を可愛いとかきゅんとか言ってのける鴉を、旭はまじまじと見つめる。こういう男でなければ神の側近は務まらないのかもしれない。

 などと思う間に、鴉はすいと立ち上がり、旭へ気さくな笑みを向けた。立ち上がってみると、その均整の取れたしなやかな体軀は改めて見事である。文武両道、という鴉についての瑞穂の言葉が思い出された。

「では旭様、こちらへ。このお部屋は、旭様専用にございます。どうぞご自由にお使いください。それから、本日のお召し物が別室にご用意してございます。毎日のお召替え等は私やその他信頼できる従者がお手伝い致しますので、どうぞお任せくださいませ」

「あの、鴉さん……やっぱり、和装じゃなきゃダメですか?」

「ふふ、敬語はおやめください。鴉とお呼びくださいませ」

「ええっと……じゃ、鴉。俺も和装じゃなきゃダメ?」

 モジモジと恥ずかしげに言い直す旭の様子に、鴉はますます楽しげにクスクス口元を押さえ、表情を改めて旭に向き直った。

「はい。旭様にご用意したお召し物は、人の世で言えば制服と同じようなものでございますので。服装や髪型も、今後は貴人に相応しい装いでお過ごしいただくことになります」

「貴人……って、まじで言ってる?」

「当然にございます。そういうお立場であることをくれぐれもお忘れなきよう。

 あなた様は、この城の者にとって瑞穂様同様にお仕えすべき大切なお方でございます。天守の最上階のこのお部屋は、城の者とて容易に近づける場所ではございません。ここに住まわれる段階で、どれほど特別な存在か誰の目にも明らかにございます」

 その地位も実は全力で辞退したい、と喉から出かかるが、そこはぐっと堪える。この状況を受け入れたのは自分だ。こうなれば開き直って全てを受け入れていくしかない。

「……わかった」

「ここでの旭様の暮らしが心地よいものになるよう、私どもは力を尽くしてまいります。邪魔者の侵入は針一本ほども許さぬ心積もりでおりますので、どうか旭様も瑞穂様にお心を添わせ、睦まじくお過ごしくださいませ」

「……」

 ん?

 ここも、「わかった」で良いのだろうか?

 ここで過ごすからには、当然瑞穂とも良好な関係を築いていかなければならない。そして彼は充分に尊敬できる存在であることも間違いない。だが……今の鴉の言い回しには、なんだか違和感がない気がしないでもない。邪魔者の侵入? 心を添わせて、睦まじく……?

 まあ、いずれにせよとにかくこの新たな世界で良好な人間関係を築くべきなのは間違いないのだ。おかしなところで側近の言葉に盾をつく必要もない。

「わかった」

 旭は鴉を見つめ、素直に頷いた。

 鴉は満足げに大きく頷くと、恭しく頭を垂れた。

「では早速、本日のお召替えを。衣替えの間へご案内いたします」







 美しい意匠の凝らされた襖を静かに開けて案内された隣室には、まさに絢爛たる装束が準備されていた。部屋の中央の大きな衣紋掛けに整えられた着物は、なんとも美しい光沢のある濃紺の生地だ。その両袖には、純白の大きな牡丹の花が見事に染め上げられている。こういう和服を間近で見るのは初めての旭にも、その贅沢さがありありと伝わってくる。

「本日は夕刻より、城の者達の旭様への御目見おめみえの儀がございます。この装束は、その儀式用にご用意いたしました」

「……びっくりすくるくらい豪華だな……っていうか、よく見ると、これってどっちかというと女性用の着物っぽいデザインじゃないか? 男もこんなに華やかな柄の着たりするんだっけ?」

「人の世とこちらでは、いろいろな部分で相違する点がございます。

 まず第一に、こちらの世では何につけても男や女やということに特段拘りませぬ。ましてや、初穂様とさよ様の件は神の世の多くの者が存じ上げていることでございます。その御遺言を受けてお越しになった旭様については、『姫君』と同様にとらえる者がほとんどでございましょう」

「は? 姫君……!??」

「ですので、検討を重ねた末、姫ではなくいかつい漢でもない、その合間を揺蕩うような趣を装束に取り入れた次第にございます」

「…………」


 もはやいちいち反論しても仕方がない。郷に入れば郷に従えということわざを無理やり当てはめ、旭は必死に心を落ち着ける。

「そしてこれは、ただの趣味趣向のお話ではございませぬ」

 鴉の静かな言葉に、旭は顔を上げてその忠実な従者を見つめた。

「人の世より招かれたお方として、旭様は神の世のさまざまな者たちから注目を集めるお立場でございます。不信を招くような服装や立ち居振る舞いが、ともすれば命取りにならぬとも限りませぬ。故に一層、衣装や言動、表情のひとつひとつさえも大切なのです。貴方様の身の安全を保つ為にも、ゆめゆめ下に見られてはなりませぬ。常に凛とした佇まいを醸すことが肝要でございます、旭様」

「…………命取り……」

 旭の呟きに、鴉が深く頷いた。

「そのための勉学や身を守る武術等の講義も、今後しっかりお受けいただく予定にございます」


 ……学校はないんだろうと思い込んでいたが、どうやら家庭教師がつくタイプらしい。

 もはやキャパオーバー気味な思考回路で、旭はそんなことをなんとなく考えた。  

 ってか、ゆるりと日々を過ごすどころの話じゃねーじゃんかこれ!?


「前置きが長くなり、申し訳ございませぬ。

 では、お召替えと化粧を始めさせていただきます」

「苦しゅうない」

 鴉の爽やかな笑みに、破れかぶれに微笑み返す旭だった。





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