雨の神

「——雨の神には、昔から多くの『人柱』が捧げられてきた」


 旭の部屋のフローリングの上に美しい佇まいで正座し、須佐は静かに話し始めた。

 一応客人として扱うべくクッションを勧めたのだが、彼は訝しげに旭の手にしたクッションを見つめ、美しく微笑んでやんわり辞退した。確かに、このあまりに重厚かつ絢爛な和装ではクッションなどには座れないだろう。その空気になんとなく釣られて旭も彼の向かい側に正座し、姿勢を正した。


「……人柱……」

 ひと言目から何やら物騒な単語が混じるその話に、旭は膝に拳を握って耳を傾ける。


「そう。長い期間雨が止まないなどの悪天候が続くと、人々はそれを神の怒りと捉え、その怒りを鎮めるために若く美しい女や男を生贄として神に捧げた。

 私たちは人の命を求めてなどいない。そんなものを捧げられても、私たちには人々の願いを叶えることなどできないのだ。私たち神もまた、我々よりもはるかに強大な『星の気』に操られているのだから」

「『星の気』……」

 旭は、改めて目の前の男を見つめた。

 『星の気』とは、地球や宇宙の巨大な活動のようなものを指しているのだろうか。それとも、神々を統べる更に上位の神が存在するのだろうか?

 この上なく艶やかなオーラを放ちながらも透き通るように静謐なその佇まいは、やはりこの世のものではない。 

 目の前にいるのは紛れもなく神なのだと、全身の皮膚や神経がそう感じている。

「だが、古の人間達がそのようなことを知るはずもない。願いを神へ届けるためには、自分たちにとって最も大切な命こそが神への供物に相応しいと思うのはやむを得ない。

 だから、私たち雨の神の一族は、そうして捧げられた人柱を神の世へ召し上げ、我々の身の回りの仕事などを任せてきた。そして、そんな人間たちとの結びつきを通して、我々神もまた彼らの持つ温もりに深く心を癒された。

 神とは、とてつもなく冷ややかな存在だ。そうでなければ、この世を未来へと動かしていくことはできない。『星の気』に従って動き、自らの感情を殺し——時には人の世の幸福をも躊躇なく突き崩す。それができなければ、神の任務は務まらない。神の世とはそういう場所だ。

 一方で、自らの残酷な運命を受け入れ、人柱として人の世から神の世へやってきた者は誰もが忠実で礼儀正しく、心根の優しい者たちだった。そして、小さいことにも泣いて、怒って、笑って……神々の持ち得ないそんな柔らかな心を持った人間たちが、神に愛でられるようになるのは当然だ。

 そのようにして、主である神に深く愛されるようになった人間たちは、同時に周囲の神々から激しい嫉妬を向けられることも少なくなかった。

 旭の祖先——遥か遠く遡った先祖のひとりである『さよ』という娘もまた、そういう人間の一人だった」

「俺の先祖の、『さよ』……」


 冷蔵庫のペットボトルからグラスに注いだだけのお茶をひと口飲み、ふっと小さく息をついてから、須佐は言葉を続けた。


「彼女は、長雨の被害に悩まされたその小さな村の中で一番美しい娘だった。

 雨の神に人柱として捧げられることが決まった時、彼女は悲しみに暮れたが、取り乱して抵抗したりすることもなく、静かに村長むらおさの言葉に従った。

 その当時、雨を司っていた私の二代前の雨神——人間で言えば私の祖父という立場になるのか——は、雨天を鎮める儀式の後に山奥の小さな祠に白装束でひとり置き去りにされたさよの元へ即座に舞い降り、彼女を神の世へ召し上げた。

 さよは最初こそ激しく怯え、恐れ慄いたが、雨神が自分を生贄として扱おうとしているわけではないことを知り、感謝に涙を流したという。

 やがて、彼女は自分を気遣い大切に扱ってくれる主のために、細やかに立ち働くようになった。

 当時の雨神——須佐 初穂はつほは、さよの温かい心と美しさにやがて抗いようもなく惹かれるようになった。さよもまた、主への想いが深まることを止められなかったのだろう。お互いに強く惹き合う彼らの想いは次第に周囲さえも気づくところとなり、さよはだんだんと嫉妬深い女神達から陰湿な嫌がらせを受けるようになった。

 それでも、さよは初穂には一切告げ口をするようなこともせず、ひとりきりで耐え忍んでいたらしい。

 ある夜、初穂が不在の間にさよの元を訪れた女神に注がれた酒を断れず、彼女はそれを飲み干して息絶えたという。

 ——神の世には、神は神を滅ぼしてはならぬという定めがある。

 何よりも愛おしい存在を失い、初穂はただ涙を流すことしかできなかった」


 どんな時も温かな笑みを絶やさない、優しく美しい女性の姿が旭の瞼に浮かんだ。

 温もりを分け合うことなどない冷酷な神の世界で、そんな愛おしい唯一の存在を失った雨神は、一体どれほどの悲しみを味わったか。その悔しさを何かにぶつけ、吐き出すことさえできないまま。

 膝に置いた旭の拳は、気づけば痛いほどきつく握られていた。


「幼少の頃から、その話を初穂から幾度となく聞かされた私にとって、さよの血を受け継ぐ雨宮家は特別な存在だった。そして、百年ほど前に私が雨神を継いで以来ずっと、私はそなたの一族を見守ってきた」

「……百年……。

 どおりで、俺の赤ん坊の頃も知ってるわけだ……」

「まあ、神の一歳は人間の10年分程であり、しかも神の命は千年は当たり前だから、私にとってはそなたはついこの間までオムツをつけてぴいぴい泣いていた赤子という感覚だな」


「…………ふふっ」


 これほどに長い時間、この雨神の一族は、一人の人間への慕わしい思いを引き継いできたのか。

 あまりにも摩訶不思議で、たまらなく切ない須佐の昔語りに、そんな奇妙な感情が揺さぶられる。

 気づけば旭は、思わず小さな笑みを漏らしていた。


「……やっと笑ってくれたな、旭」

 そんな旭の様子に、須佐が淡く微笑む。


「えっ……こ、これはまあちょっとうっかりというか……す、須佐さん……?の話になんかきゅんときちゃってつい……!」

「須佐などと呼ぶな。瑞穂と呼べ」

「……っっ!!?」

 超絶美形な雨神に何とも甘い微笑と眼差しを向けられ、旭は再び警戒度満点なドギマギモードに逆戻りせざるを得ない。待て待て、なんか俺めちくちゃ振り回されてるし乱されてる! 自分のペース見失うな俺っっ!!


「あ、あのっ!! 本題に戻りたいんすけどいいすかね!?

 その、さよさんの件と、今あんたがここで俺にこの話をしていることは、いったいどうつながるのかな、というか……」

「うむ、そこなのだ」

 須佐……もとい瑞穂は、眉間を微かに寄せてそう呟く。


「初穂は、神としての齢を終える時に我々にこう言い遺した。『今後雨宮家に、さよのように美しく気立ての良い者が再び現れた際は、何としても神の世へ召し上げるように』と。『そして、今度こそその尊い命を守り抜き、数多の幸せを与えてやるように』とな。

 ——ああいう形でさよを失った後悔が、ずっと初穂を苦しめ続けていたのだろう」


「……」

「——そなたは、さよによく似ておる」

「いやいやいやご冗談を!!?」

「ならば、見るが良い」

 瑞穂は懐から大切そうに美しく輝く玉を取り出した。

 限りなく透明に澄んだ、水晶玉のようなもの。

 彼はその珠を愛おしげに両手の掌に包み込み、ふうっと優しく息を吹きかける。


「中を、覗いてみよ」

「——……」


 言われるままに、旭は珠へ顔を寄せる。

 すると、透明だった珠の中に煙のような色が湧き出し、それが少しづつ形を成していく。

 やがて、艶やかな黒髪を紅色の布で後ろに束ねた美しい女性がくっきりと浮かび上がり、優しくこちらを向いて微笑んだ。


「……あ……」


 旭は、思わず息を呑んだ。

 ……もしかして……この人、本当に、俺に少し似てる……?


「これまで雨宮家の子孫をずっと見守ってきたが、そなたはこれまでの誰よりさよと似ておるのだ。

 顔貌かおかたちもそうだが——何よりも、そなたの瞳が醸す気配が、さよと瓜二つだ」


 瞳が、醸す気配——?


 先ほど、瑞穂の瞳を見つめた時に訪れた奇妙な感覚が、再び旭の脳に戻ってくる。

 穏やかに、どこまでも深く澄んだ、水の色。

 その瞳に感じた不思議な懐かしさも……もしかしたら、さよの記憶が俺の脳内に一瞬蘇った、とか……そういうやつか?


「……えっ……

 じゃ、じゃあつまり、俺が今回その神の世に召し上げられる対象者に選定された、ってこと?……で、今日はあんたが俺を迎えに天界から降りて来た……とか、そういう話だったりするのか?」

「そういうことだ。

 そなたが今日私を呼んだのは、やっと我々の世へやってくる決心がついたのだろうと思ったのだ」

「……ええっと……あんま確認したくない話だけど……

 俺のデートのたびに大雨降らせてたのは、つまりあんたの仕業か? ぶっちゃけガチで俺の恋の成就を妨害するためだったのか!?」

「当然だ。こちらでそなたが恋を実らせては、初穂の遺言はどうなるのだ?

 というか、初穂は自分の遺言を当時の雨宮家当主の夢枕にも立って告げたそうだから、雨宮家にも当然この話は語り継がれておるものとばかり思っておったのだがな」

「いやだから一ミリも知らないって!! たった今初耳!!! ってかあんた思ったよりやり方が強引だな!?」

「強引も何も、私は初穂の遺言を守るべく必要な策を講じたまでだ」


 瑞穂の冷静に落ち着いた口調と眼差しは、これがふざけた冗談などではないのだということを物語っており——旭は自室の壁に背中を擦り付けるほどに後ずさって青ざめた。


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