第5話

 海岸沿いの遊歩道を歩いていた。

 あたりは既に薄暗くて、ほぼほぼ夜になっていた。

 学校がある八ヶ浜はちがはまから俺の住んでいる六ヶ峰ろくがみねの海岸沿いには、遊歩道が備え付けられている。遊歩道の階段を降りると浜辺に直結していて、そこには相模湾が広がっていた。

 遊歩道は大体距離にして二駅分で、ゆっくり歩けば三十分くらいだろうか。犬の散歩をしているお爺ちゃんや、ランニングをしている男女など、利用方法は様々である。

 学生ではあまり利用者はいないが、俺達の様なカップルが青春を謳歌する為に一緒に歩いたり──そして電車の中からそれを羨ましげに見られる──動画SNSネタを作りたい女子が浜辺でダッシュしたり飛んだりしている。今はもう時間も遅いので、人は少なかった。


「大分暖かくなってきたね」


 祈織いのりは目を細めて、夕闇に染まる水平線を眺めた。

 俺は立ち止まって、彼女と同じ方向を見る。

 潮風が心地良くて、春の麗らかさもある。でも、ちょっとだけ肌寒い。


「そうだな……これくらいが過ごしやすいな」

「うん」


 そんな何ともないやり取りをして、俺達はどちらともなく手を繋いで、歩き出した。


「ねえ、砂浜の方歩かない?」

「ええ? いいけど、靴の中に砂入るぞ」


 祈織は「私は別にいいよ?」と言って、にこりと微笑んだ。

 彼女が良いと言うなら、俺も反対する必要性がない。ただ、余計に帰る時間が遅くなってしまいそうなのだけれど……それは大丈夫なのだろうか。

 祈織の両親は、うちのテキトー過ぎる両親とは異なって、結構しっかりしている。両親が共働きな事もあって、門限等は結構緩いらしいが、一応は十時くらい、とされているそうだ。


 ──まあ、十時までまだまだあるし、大丈夫かな。


 スマートフォンをちらりと見て、時間を確認する。まだ六時を過ぎたところだ。

 俺達は手を繋いだまま、砂浜に降りた。この時間になると、浜辺には殆ど人がいない。ほぼほぼ無人だ。


「私ね、ちょっと最近腹が立ってる事があるの」


 祈織が唐突に話し出した。

 ちょっと顔も怒っている。どうしたのだろうか。


「何に腹立ってるの? 俺?」

「そうだよ」

「え、ほんとに⁉ 俺なんかした⁉」


 適当に言ってみたら、まさかの俺の事で驚いた。全く身に覚えがない。

 すると、祈織は顔を綻ばせて、くすくす笑った。


麻貴あさきくんの事だけど、麻貴くんに怒ってるわけじゃないってば」

「どういう事?」

「えっとね……」


 俺が訊き返すと、祈織は乾いた流木をローファーの先でちょんと蹴った。


「なんだかね、クラスの女の子とか、他のクラスの子とかもだけど、『汐凪しおなぎくんって結構かっこいいよね』って最近言い始めてて。これまで全然何も言ってなかったくせに、私達が付き合い出してから言い出すんだよ? 何だかそれ聞いてたら、腹立ってきちゃって」


 ふんす、と少し憤った様な表情を作って祈織は言った。


「何で怒るんだよ」

「だって、私は最初からかっこいいって気付いてたもん。後出しじゃんけんみたいでずるくない?」

「あー、えっと……それは、俺としては、コメントに迷うところなんだけど」


 喜んでいいのか、祈織と一緒に怒ればいいのか、判断が難しいところだった。どちらかと言うと『私は最初からかっこいいって気付いてた』のところが何よりも喜ばしいのだけれど、それを言うのも恥ずかしい。

 ただ、彼女が言いたい事はわからなくもなかった。俺と良太がああして嘆いていた様に、俺は決して人気がある男子ではなかった。どちらかというと、おちゃらけていて面白い良太の方が──見世物としての意味合いが強そうだが──人気はあった。

 俺はと言えば、そんなバカをやっている良太の隣にいて笑っていただけだ。彼のオマケみたいな存在だったと言っても過言ではない。

 その良太のオマケだった俺が、この二か月で劇的に変わったかと言われたら、そんなに変わっていないと思う。天枷祈織あまかせみおりという最高過ぎる彼女ができた、という面に於いては変わったのだけれど、俺自身がそれで大きく変わったとか、顔がいきなりよくなっただとかは全然ない。もちろんわけでもない。

 ただ、変わったとすれば──少しだけ、自分に自信が持てる様になった、というのはあるかもしれない。

 俺のそんな自信が、他の女子に見える様になったのだろうか。


「なあに? 他の子から褒められて嬉しいの?」


 むっとした表情で、祈織が俺を見上げてくる。

 でも、しっかりと手は繋がれたままだ。


「いや、まあ嬉しくないって言ったら嘘になるけど」

「あー、やっぱり嬉しいんだ?」

「待て、誤解だ。嬉しいんだけど、それは祈織が思ってる様な下心的な嬉しさじゃなくて」

「……? どんな嬉しさなの?」


 祈織が首を傾げた。


「えっと……祈織の彼氏として分不相応に見られてないなら、嬉しいかなって意味」


 言ってから、顔から火が出るかと思った。

 言われた祈織も恥ずかしかったのか、慌てて視線を地面の砂浜に向けている。

 ただ、俺としてはこの劣等感はずっとあった。

 天枷祈織は超がつくほどの美少女で、あらゆる男子から憧れられる存在だ。運動部で人気のある男子連中が告白してはこの相模湾に散っているという噂もよく聞いている。

 一方、今の俺は何も頑張っていなくて、ただ惰性に生きているだけだ。その運動部の連中の様に輝いているわけでもなければ、クラスの中心で皆をまとめてリーダーシップを発揮する様なタイプでもない。

 そんなモテ子な彼女がどうして俺の事を好きでいてくれるのか──しかもこれだけデレデレに──それがよくわからないのだった。


「私は……麻貴くんが分不相応だなんて思った事、ないけど?」


 もじもじと恥ずかしそうに祈織が言った。

 波の音で掻き消されてしまいそうな、小さな声だった。


「えっと、それは、ありがとう……」


 まだ春なのに、自棄に顔が熱かった。

 若干の気まずさを覚えながらも、そのまま砂浜を歩いていると、「きゃっ」と隣で小さな声が聞こえた。それと同時に、ぐっと体が彼女の方に持って行かれる。

 どうやら彼女が砂に足を奪われて、体勢を崩したらしい。俺は咄嗟に彼女の手を引いて、自分の方に体を引き寄せた。


「大丈夫か?」

「うん、ありがとう」


 恥ずかしそうに笑って、祈織は俺を見上げた。

 思ったより、顔の距離が近かった。そのままお互い、視線を逸らさない。

 彼女のぱっちりとした大きな瞳が目の前にあって、まるで夢でも見ているかの様に、その瞳は潤んでいた。

 俺の視線は、自然とその下の唇へと移っていった。瑞々しくて、とても柔らかい彼女の唇がそこにはあった。

 俺の視線に気付いたのか、彼女が口を少しだけ上に向けて──そのまま瞳を閉じた。俺も同じ様に目を閉じて、顔を寄せる。

 誰もいない夜の砂浜でするキス──それはあまりにロマンチックで、心を満たしてくれた。

 何気ない日常で何気ない帰り道を、これだけ彩ってくれる。それだけで、祈織は凄いなと思うのだった。

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