第55話 少女呪師


 薄明りに閃く朱色の衣。

 振り返った肩越しにそれを目にした瞬間、とてつもなく嫌な予感がした。

 夏乃は素早く体をひねり後ろを向こうとした。が、その寸前、右脇腹に激痛が走った。衝撃などなかったのに、ズブリと脇腹に何かが差し込まれた。


「ううっ……」


 炎で焙られるような痛みに嫌な汗が滴る。

 脇腹を見下ろせば、銀色に光る細長い何かが脇腹に突き刺さっている。

 ゆらゆらと揺れる銀色のものは、剣ではなかった。太い紐のように見える。


(なんで紐が────や、違う!)


 夏乃の右わき腹に突き刺さっていたのは、銀色に光る紐ではなく、銀の鱗を持つ蛇のような生き物だった。刺さっているのではなく、喰らいついているのだ。

 ブルブル震える手を伸ばし、銀色の蛇をつかんで引き抜く。

 自分の血潮が飛び散るのを感じたが、何かが変だった。


 ぐらりと視界が歪み、眩暈がした。

 つかんでいたはずの銀色の蛇は、どういう訳か手の中から塵となって消えてしまった。

 耳に聞こえるのは、ドクドクと血潮が巡る音だけだ。

 夏乃は頭を上げて、朱色の衣を纏った女に視線を向けた。


(間違いない。王太后の侍女だ……)


 苦悶の表情を浮かべる夏乃を見て、珠里しゅりが口端を吊り上げて笑った。


「おまえの命はあと僅か。魔物の毒が、今おまえの血潮を巡っている。毒が心の臓に到達すれば命はない」

「魔物の……毒?」


 銀色の蛇は消えたが、脇腹の傷は脈打つ痛みを訴えている。けれど、周りの様子が変だった。薄闇の空間には夏乃と珠里の二人しかいないのだ。


(これは、現実だろうか? それとも、精神攻撃?)


 異界人はこの世界の呪詛にはかからないかも知れないと、あかつきは言っていなかっただろうか。それとも毒は本物で、今まさにこの体を毒が巡っているのだろうか。

 冬だというのに珠のような汗が吹き出し、頭の先から冷たくなってくる。

 左手に握っていた槍の柄が、力を失くした手の中からスルリと滑り落ちそうになる。慌ててぎゅっと握りしめ、夏乃は深呼吸を一つする。


(毒が本物なら、時間が経つほど動けなくなる。なら……せめて、動けるうちに!)


 夏乃は痛みを無視することにした。

 両手で槍の柄を握り、そのまま縦に構えた。視界は悪いが、相手はそれほど遠くにいる訳ではない。

 もう一度深呼吸をして、体の脇に構えていた槍の柄を、前に出ながら下から上へと突き出した。


「やぁーっ!」


 突き上げた柄が珠里の身体を突く。それでも咄嗟に逃れようとしたのか、サッと後ろに身を翻した珠里は、手の平を突き出した。

 そこから飛び出す銀色の光。


(また蛇か?)


 夏乃は銀色の光を横に薙いだ。途端に銀色の光はキラキラと霧散した。


「おのれっ!」


 珠里は再び銀色の光の光を放ったが、夏乃の槍の柄が全てを薙ぎ払った。


「おまえは何なの? なぜ私の呪詛が効かない? この前、毒茶を持たせた時だってそうだった! ほんの少しでも王太后様のことを漏らせば、紅羽くれはと同じ呪がおまえを殺すはずだったのに!」

「紅羽と……同じ呪い?」


 夏乃は紅羽の最期を思い出した。月人を呪う呪物の在処を口にした途端、彼女は血を吐いて倒れた。あれもまた呪いだったのだ。王太后を裏切った途端に呪詛が発動する仕組みになっていたのだ。


「じゃあ……あんたが紅羽を殺したのね?」


 夏乃は沸きあがった怒りを止められず、闇雲に槍の柄を突き出した。

 珠里の身体を横に薙いで倒し、横にした槍の柄を床に倒れた珠里の首元に押しつける。


「あたしに呪詛は効かないから、別の方法で殺せと王太后に命じられたの?」

「まさか。自分の不首尾を主に言うものですか! あの侍女はとうに死んでいるの。ここにいるのはただの兵士見習いの少年でしょう?」


 槍の柄で床に押さえつけられているというのに、珠里は平然と悪態をつく。

 怒りに任せて倒したものの、夏乃に出来るのはここまでだった。これ以上彼女を痛めつけることも、もちろん殺すことも出来ない。ならば、どうしたら良いのだろう。

 夏乃の心に迷いが生じた時だった。


「────後ろっ!」


 闇を斬り裂くような大声が、夏乃の背後から聞こえてきた。

 同時に、ゾワリと背筋を駆け上る殺気を感じた。

 夏乃は珠里の上から飛び退きながら、見えない敵に向かって闇雲に槍の柄を薙いだ。


 ガンッ!


 槍の柄に刃が食い込んだ。

 力ずくで押して来る相手を何とか防いでいると、薄闇が霧のように散り始め、目の前の男の顔が見えた。

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