四十二年の午前零時

 塵のように舞い上がった水と氷の欠片が、蜂飼いの頬をさあっと撫ぜて通り抜けてゆきます。


「おや、八十四年の半分が経過したのだろうか」


 はたと巣箱を手入れする手をとめて顔を上げれば、放射状の光がさわさわと水と氷の欠片を追うようにして通り抜けていきました。

 蜂飼いの周りには鍵蜂たちがぶんぶん、ぷんぷんと飛んでいて、早く巣箱に戻らせろと云わんばかりです。そこで蜂飼いはスッとその鍵穴のような巣箱の中央に、真鍮色の鍵をひとつさしてはくるりと回してみせます。蜂たちがそれにあわせてくるりと回ると、巣からこぼれた蜜が光りかがやき、ぽろんからんと音を立ててはブリキの缶の中で飴玉へと変わってゆきました。

 その飴をひとつひとつ手にとって透かして眺め、ひとつも曇りのないことを蜂飼いが確認していると、鍵蜂たちはどうやら誇らしげにぶぅうん、ぶぅううんと羽ばたいておりました。


 振り返るとそこには、氷の結晶ででき上がったかのような見目をした、小さな男の子が立っております。まだようやく立ち上がったばかり……の歳だったのでしょう、どうにも言葉がわかるようではありません。

 蜂飼いの姿を見つけると、男の子は嬉しそうに浅い川をバシャバシャと渡ってきます。けれども、その距離がもう触れるくらいになるとぴたりと止まってしまったのでした。

 蜂飼いは「そうか、」とひと言呟くと、先ほど出来上がったばかりの飴を男の子に差し出します。男の子は戸惑う様子を見せておりましたが、「ほらごらんよ」と蜂飼いが自身も飴玉を口に含んでみせると、思いきったようにぱくりとそれを口に入れたのでした。

 冷たくてしゃりしゃりとした感触と、大海に揺蕩うかのような少しの塩味とぼんやりした甘さにそれは感じられました。

 男の子はその表情を嬉しそうに綻ばせては、口の中で溶けゆく飴の味を楽しむのでした。


「アンブリエル、いるんだろう? 実にまぁ四十二年ぶりと云ったところじゃないか」

「おれからすればこんなもの半年ばかりという感じだね、蜂飼い」

「こんな夜さ、不思議な出逢いもあったものじゃないだろうかとぼくは想うんだけれどね」


 何を云うのさと、冷たい風と共に皮膚がひび割れたような、それでいて薄青の光を纏った不思議な姿の男が答えます。氷と、水と、放射線の風はどうやら彼から漂ってきていたようでした。


「迎えにきたんじゃないのかと、ぼくは思ったのだけど」

「あゝ、それもまたいいのかもしれないな、けれども」

「軌道共鳴ならば、その子はもう十分に素質を持っているよ」


 はあ、とアンブリエルと呼ばれた男は、薄暗闇色の外套から薄青く光る手を差し出だしました。ふっと、少し怯えるように男の子は目を瞑りましたが、どうしたことか恐る恐るその差し出された指先にそっと触れてみたのです。

 すると、氷のような男の子の頬に、ほのかに黄みがかった輝きが差し込みました。初めて繋いだ手の温かさに男の子は幸せでたまらないと云うような表情をしたのです。

 それを見て、少しばかり氷のようなアンブリエルの目元が驚きを孕んだように見開かれておりました。


「この子の名前はなんだろうか……?」

「名前は、きみがつけておあげよアンブリエル。その子は生まれて間も無く、氷の湖に眠ってしまった子だそうでね」

「……ひとの愛は冷たすぎておれには理解ができないよ」


 近づきすぎると凍えてしまうアンブリエル。誰とも軌道共鳴を起こさずに、回り続けるアンブリエル。近づきすぎてしまえば砕けてしまうアンブリエル。

 彼は四十二年の真夜中を、たったひとりで飛ばなければならないさだめの中におりました。その、彼にとってはたった半年の長い長い夜が、今度は四十二年の長い昼に切り替わる——今日はそんな夜でした。


「おいで、プヴェル」


 繋がれた小さな手のひらに、ほんの少しの震えが伝わらないように……。

 アンブリエルは氷の息を吐きながら、男の子に夜空の道を教え共に歩いていくのでした。

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