第二章 越後の龍

第一幕 二重の再会

 東山道、信濃国。美濃や飛騨と並んで日本の内陸部に位置する領国であり、美濃と比べて盆地が少なく標高も高い事から通年過ごしやすい涼やかな気候であり、平安時代から貴族達の避暑地として有名な地域であった。


 しかしその風光明媚な避暑地もやはり戦乱の世の影響は免れなかった。いや、今現在に限定するなら信濃は日本全体でも有数の激戦地・・・の舞台として混乱の渦中にあると言えた。それは何故か。


 野心的な戦国大名である『甲斐の虎』武田晴信が、信濃全土を制圧せんと侵攻を続けている真っ最中だからだ。麾下に優秀な将兵を揃え、彼等を統制し、また自身も優れた戦略家である晴信は、信濃の有力な豪族である諏訪氏や仁科氏を滅ぼして、守護大名たる小笠原長時や村上義清らも圧迫し、南信濃をほぼ手中に収めてしまっていた。


 武田氏の攻勢に耐えかねた長時や義清らは、北の越後国を治める大名である『越後の龍』長尾景虎に救援を求め、要請に応えた景虎は北信濃を舞台に晴信の軍勢と一進一退の攻防を繰り広げる事となった。


 互いに才覚あふれる武将たる晴信と景虎の戦は決着がつかずに泥沼化し、川中島を中心に幾度も小競り合いや睨み合いを繰り返しているというのが、現在の北信濃の状況であった。 



「……と、まあ、ざっくりと今の信濃の状況を掻い摘むとそんな所だねぇ。武田長尾両軍も今のところ決定的な大戦には至ってないみたいだけど」


 北信濃の山道を歩きながら女盗賊の紅牙べにきばが信濃の状況を説明している。盗賊団を率いていた身として周辺諸国の情勢には詳しいようだ。それを聞いた妙玖尼みょうきゅうには思案顔になる。


「何年も対峙していながら未だ大規模な合戦には発展していないという事ですか? それは何故?」


「聞いた話じゃ晴信の方が景虎を警戒して全面衝突を避けてる感じみたいだね。景虎は相当な戦上手って評判だし、下手に正面から当たりたくないって気持ちはまあ分かるけどね」


 紅牙は肩をすくめる。因みに今は街中や大きな街道沿いではない為か、外套も羽織っておらずいつもの露出甲冑姿を晒していた。


「合戦を避ける事で却って戦が長引き、結果としてこの地に多くの邪気を呼び込んでいます。ただお互い軍隊がぶつかり合うだけの単純な戦が全てであればまだ良かったのでしょうが……」


 妙玖尼は嘆息した。仮にも戦に『良かった』などというのも不謹慎ではあるが、彼女ら退魔師の立場からするとそれが正直な気持ちであった。


「まあ戦が長引けばそれで得をする連中がいるのも確かだけどねぇ。行商人や傭兵、アタシらみたいな盗賊や乱取りの類いもまあその範疇に入るかもね」


 紅牙が苦笑する。人とは逞しく、強かなものだ。戦乱の世で利しているのは妖魔の類いだけではない。情勢に適応していく人間というのは少なからず存在している。



「おっと、そうこうしてる内に安曇野が見えてきたよ。今夜の宿はあそこで決まりだね」


 山道のやや視界の開けた場所から紅牙の言う通り、細長い川とその周辺にへばりつくように点在する集落が眼下に一望できた。彼女らの当面の目的地である長野の街との中継地点である安曇野だ。犀川という大きな河といくつかの小さな川が寄り集まった合流地点に、その肥沃な水量を当て込んだ人々が築いた農村と田畑が河川周辺に広がっている。


「農業だけじゃなくてあの川で穫れるニジマスは絶品らしいよ。ワサビも作ってるからそれと合わせた『寿司』でも有名だね」


「寿司、ですか? 塩と米で発酵させたれ寿司なら食した事がありますが……臭いがキツくてお世辞にも美味とは言えませんでした。あんな物が特産品になるとは思えないのですが……」


 一種の保存食のようなものだ。奈良や平安の時代には珍味として貴族にも愛好されたらしいが、妙玖尼には理解できなかった。魚が穫れるならそのまま焼くか煮るかして食べた方が絶対美味しいに決まっている。


「はは、尼さん。そりゃちょっと情報が古いよ。今は浅く漬けこんで素材の風味を活かした『なまなれ』の方が主流になってきてるのさ。炊いた米と一緒に食べるのがこれまた良く合うらしいんだ」


 自身も今まで山賊暮らしでありながら通ぶる紅牙。どうやら周辺勢力の情勢を注視している中で、そういう類いの世俗的な情報も一緒に集まっていたらしい。


「まあ私達は旅行をしている訳ではありません。食事の良し悪しは二の次です。重要なのは邪気が蔓延し妖魔の類いが出没していないかどうかです」


 それが事実だが、旅中でのささやかな楽しみまで否定するつもりはない。妙玖尼はあまり期待していなかったが、紅牙がそこまで勧めるなら駄目元で食べてみるくらいは良いかも知れない。そう結論づけて安曇野まで山道を降っていく。だが……



「……!」


 妙玖尼は眉を吊り上げた。邪気・・を感知したのだ。発生源は……今自分達が向かっている安曇野の集落と思われる。耳を澄ますと微かだが悲鳴や怒号などの喧騒が伝わってきた。


「尼さん、どうしたんだい? 腹が減ってご機嫌斜めかい?」


 邪気を感知できない紅牙はまだ気づいておらず呑気に問いかけてくる。妙玖尼は背中に背負っていた錫杖『弥勒』を抜き放った。


「信濃に入ってしばらく経ちますが、やはり戦場が近くなるにつれて邪気が発生しやすくなる傾向があるようですね。安曇野の街が妖魔に襲われている可能性があります。急いで下りますよ!」


「妖魔だって? こんな真っ昼間から!?」


 紅牙も目を剥いて慌てて自身の刀である『蜥蜴丸』を抜き放つ。通常鬼や妖怪の類いが活動するのは夜である事が殆どだ。邪気に依存する彼等はある意味では脆弱な存在でもあり、なるべく人目に付かない形で悪事を為す事を好むのだ。だから古来より草木も眠る丑三つ時などと、夜は人外のモノが活動する領域とされてきた。


 だが日本が始まって以来最長、そして最大規模とも言える今の戦国時代の影響は日本の至る場所に邪気や瘴気を生み出し、その古来よりの常識を覆しつつあった。


 武器を構えた二人は急いで安曇野に続く山道を駆け下りていく。ここまで来ると異常な喧騒が紅牙にも聞こえるようになってきた。彼女の妖艶な美貌も厳しい表情に引き締められる。


「こりゃ一刻の猶予もなさそうだね……!」



 だが安曇野が近くなるにつれて妙玖尼は異変・・に気づいた。集落を襲っている邪気の発生源……即ち妖魔の気配がどんどん少なくなって・・・・・・いくのだ。自然に減っている訳では無い。考えられるのは……


(これは、まさか……誰かが妖魔を倒している・・・・・・・・!?)


 それも相当な勢いだ。妖魔の数はそれなりにいたはずだ。自分と紅牙でもここまで鮮やかに敵の数を減らせるのか、という程の勢いだ。


「こりゃ一体……何が起きてるんだい!?」


 安曇野に到着した二人。そこまで来ると紅牙もこの状況に気づく。そこら中に餓鬼や蝕鬼などの妖魔の死骸が転がっていた。中には鉄鼠や河熊などそれなりに強力な妖魔の姿もある。それらは妙玖尼達の見ている前で溶けるように崩れて消滅していく。この妖魔達は斃されたばかりなのだ。


「……! あちらです!」


 集落の奥の方からまだ喧騒が聞こえてくる。二人は急ぎそちらへと駆け向かう。そこは村の広場のような開けた場所であった。そこで彼女達が見た光景は……



「ぬう……りゃぁぁぁぁぁっ!!」


 力強い気合いと共に二振りの太刀・・・・・・を変幻自在に操り、襲いくる妖魔共を次々と斬り倒していく剣士の姿。それは妙玖尼達にとって見覚えのある・・・・・・姿でもあった。


「おお、おいおい……。この広い信濃に入ってそう日も経ってないってのに、まさかいきなり再会・・するとはねぇ」


 紅牙が納得したような、それでいて少し面白そうな表情になる。妙玖尼も確かに『彼』の事にはすぐに気づいた。しかしそれ以上に目を引かれたものがあった。


 『彼』は襲いかかってきた鉄鼠の攻撃を躱し、鮮やかな反撃で一刀のもとに妖魔を斬り伏せる。だが餓鬼とは違って鉄鼠は如何に技量があろうとも一撃で斬り殺せるような存在ではない。……紅牙のように法術・・の力を借りれば別であるが。


「んん? 尼さん、あいつの刀……アレ・・が掛かってないかい?」


 紅牙もその事に気づいたらしく目を細める。そう……『彼』の振るう二刀には明らかに妙玖尼が使うものと同じ『破魔纏光』の法術が付与されていたのである。それが鉄鼠も鮮やかに斬り倒す切れ味を『彼』の刀に与えているのだった。


 だが当然それを掛けたのは妙玖尼ではない。となると考えられる事実は一つだけ……



「ふぅ……ようやく打ち止めか? 全く……日も沈まん内から堂々と物の怪共が村を襲うとは、まさに世も末――」


 襲ってきた妖魔を全滅させた事を確認すると男は息を吐いて二刀を収める。そしてこちらに気づいたらしく振り向いた。その目がすぐに大きく見開かれる。


「お、おお? お前さん達は、もしや美濃で会った……?」


 『彼』……雷蔵・・はすぐに思い出したらしく、手を叩いた。まあ特に紅牙は一度会ったらそうそう忘れないだろうという、色々な意味で個性的・・・な人物なので、思い出すのにそう苦労はしないだろう。その紅牙が応えるように手を挙げた。


「はは、アンタも相変わらずのようだね。妖魔にやられてくたばってなかったようで何よりさね」


「ふ、それはこちらの台詞だな。しかし美濃に向かったはずのお前さん方が何故ここ信濃に? もしや俺の事が忘れがたくて追ってきた、とかだと男冥利に尽きるのだがな」


 優れた剣士でありながらその軽妙さも相変わらずのようだ。彼の軽口を流して妙玖尼はお辞儀した。


「またお会いしましたね。信濃に参ったのは武田と長尾の戦が新たな邪気を呼び込む事を懸念しての理由にございます。して、ご健勝で何よりでございますが……あなたの刀には真言密教の法術・・が掛かっていますね?」


 挨拶もそこそこに気になっている事を尋ねる。特に隠す事でもない様子で雷蔵は肩をすくめた。


「ああ、やはり同門・・には分かるのか。こいつは――」


「――ギヒャァァァァッ!!」


 彼がそこまで言いかけた時、近くの納屋の陰に潜んでいたと思われる妖魔が飛び出してきた。やはり鉄鼠だ。まだ生き残りがいたらしい。鉄鼠は奇声を上げながら雷蔵に飛びかかる。咄嗟の事で妙玖尼も紅牙も対処が間に合わなかった。背後から奇襲された形になった雷蔵自身も同様だ。


 そのまま妖魔の鉤爪が雷蔵の背中に振り下ろされ――


『オン・マイタレイヤ・ソワカ!』


 ――る前に、どこからか飛んできた一条の光球・・が鉄鼠の身体に衝突し、妖魔を断末魔さえ許さず跡形もなく消滅させてしまった。


「な……!?」


 紅牙がその光景に目を剥いた。今のは妙玖尼が使うものと同じ『破魔光矢』の術だ。それも相当な威力、精度であった。最早間違いようがない。妙玖尼は光球が飛んできた方向に視線を向ける。彼女の予想通りそこには、錫杖・・を携えた禿頭の僧侶・・が立っていた。



「お前らしくもない油断だな、雷蔵。女と話していて気が緩んだか?」



「いや、面目ない。その通りで言い訳のしようもないな。助かったぞ、戎錬かいれん


 雷蔵は苦笑しつつ素直に礼を言う。そのやり取りから既にこの二人が知己であり、ある程度の期間行動を共にしている事が窺えた。その僧侶……戎錬の目がこちらを向いた。僧侶という印象からはかけ離れた怜悧そのものな研ぎ澄まされた面貌。そしてそれは妙玖尼がよく知る・・・・ものであった。戎錬の眉がピクッと上がる。


「何だ、誰かと思えば……『泣き虫』徳子・・ではないか。退魔師にはなれたようだが、あれから少しは強くなったのか?」


「……っ。あなたも……相変わらずのようですね、戎錬師兄・・。それと、私の名前は妙玖尼です。お間違えなきよう」


 孤児として高野山に引き取られる前からの元々の俗名・・・・・と、修行時代の不名誉な渾名で呼ばわれた妙玖尼は眉を顰めた。同門がいるとは予想していたが、よりによってこの人物とは。


「……尼さん、知り合いかい?」


「え、ええ、まあ……。一応・・私の『師』に当たる人物の一人、ではありますね」


 紅牙に問われた妙玖尼は渋々認めた。同時に高野山での修行時代にこの男から受けてきた、虐待・・と言っても過言ではない程の情け容赦ない『修行』の日々を思い出して、口が乾き心臓の動悸が早くなり呼吸が浅くなるのを自覚した。


 

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