第二十九幕 今孔明

 そんな話をしている間にも勿論周囲への警戒は怠らずに、一定の速度を維持したまま走り続ける三人の女達。彼女らは農地を抜けて森に入り、道三軍やその斥候の注意を引かないように注意しながら戦場を迂回しきる事に成功した。


 ここまで来ると長良川で戦う両軍の戦音が遠くに聞こえてくる程だ。やはり既に戦端が開いていたらしい。


「見ろ、道三軍の本陣だ。迂回は成功だ」


「……!」


 雫の指し示した方角には、いくつもの垂れ幕や天幕などで構成された陣地が確認できた。同じ美濃斎藤家の家紋なのでややこしいが、18000の義龍軍の本陣にしては規模が小さい。間違いなくあれが道三の本陣だ。それを確信した紅牙が鼻を鳴らす。


「しかし戦を避けて敵に見つからないように迂回して敵本陣の後背を突くなんて、意外とやりゃ出来るもんだね」


「普通ならここまで上手くはいかん。義龍様が奮闘して奴等を引き付けて下さっているお陰だ」


 義龍に心酔する雫らしい言い方だが、ただ恐らく間違ってはいない。無論義龍だけでなく麾下の武将や兵士たちの尽力あっての賜物であろうが、彼らを統率しその力を十全に引き出せているのは義龍だからこそであろう。


「でも戦が長引けばそれだけ人外による被害は増えていきます。この上は迅速に道三を討伐してしまいましょう」


 結果的にはそれがより多くの人命を救う事にも繋がる。勿論雫も異論はなく頷いた。


「その通りだ。とても日没まで待つ余裕はない。今から敵陣に潜入を開始するぞ」


「ふぅ……ま、仕方ないね。それに夜まで待つと、あちらさんも夜襲を警戒して警備が増えるかも知れないしね」 


 紅牙も反対せずに肩をすくめる。今まさに激戦の最中にあるからこそ敵本陣の守りも薄くなっているのだ。潜入に最も適しているのはまさに今この時であった。


 合意を得た三人はそれでも最大限に周囲を警戒しながら、道三の本陣へと忍び寄っていく。


「邪気の気配はどうだ? 陣内から何か感じるか?」


 雫が声だけで妙玖尼に確認するが、彼女はかぶりを振る。


「戦場全体に邪気の気配が溢れていて細かい位置などは確認できません。ただ陣内にも邪気が広がっているのは確かなようです」


 やはり道三は既に公然と邪気の力を用いているようだ。いかに六倍の兵力がある義龍でもこの人外の軍勢と戦い続けるのは厳しいはずだ。


「……行くぞ。道三を討つ!」


「ええ、これで終わりにしましょう!」「は! 任せときな!」


 三人は覚悟を決めて戦闘態勢を整えると、道三の本陣に潜入していった。




「……!」


 そしてすぐに異常に気づいた。彼女らが踏み込んだ陣屋には真っ黒い球体『瘴気石』が置かれた床机があるだけで、他には誰も武将や兵士の姿がなかったのだ。


「これは……ち! 私とした事が……!」

「私も瘴気の気配に気を取られすぎたようです」

「マズいね。すぐに脱出するよ!」


 すぐに事態を悟った三人が外に出ようとするが……



「逃さんぞ、義龍の刺客共め!」



「……!!」


 若々しい少年・・の声と共に、周囲に身を潜めていたと思われる兵士たちが一斉に出現し、こちらに対して弓を引き絞る。彼女たちが侵入してきた後方にまで兵士がおり、完全に退路を絶たれた形だ。


「待ち伏せかい! やってくれるねぇ!」


 紅牙が舌打ちして刀を構えるが、流石の彼女も全方位から一斉に矢を射られたら対処しきれない。雫にしても同様だ。


「完全に囲まれていますね。『瘴気石』を囮にしていた事といい、この鮮やかな包囲ぶりといい、付け焼き刃の作戦ではないようです」


 妙玖尼も油断なく弥勒を構えながら周囲を窺う。この罠を仕掛けた者はかなりの切れ者だ。あるいは海乱鬼(光秀)の仕業だろうかと一瞬思ったが……


「ふふん、道三さまの暗殺を狙う卑劣な刺客を仕留めたとなれば僕の大手柄、に……」


 弓兵達の後ろから一人の甲冑姿の武将が進み出てきた。それはかなり若い……というより幼い・・とすら言える容姿の少年であった。まだ元服を済ませて間もないくらいの年齢ではないかと思えた。立派な甲冑が不釣り合いで、鎧に着られている感がある。


 その声は最初に聞こえた掛け声と同じ物であった。とすると信じられないがこの少年が……


「じょ、女性……? 尼僧まで? 何故戦場に尼僧が? 道三さまの暗殺を狙う刺客じゃなかったのか?」


 だがその指揮官と思しき少年は、妙玖尼たちの姿を見て目を丸くしている。


「あのガキ、誰だい? 知ってる奴か?」



「……恐らくだが道三方の武将竹中重元の嫡男、竹中重治・・・・……のはずだ」



 元服したばかりで恐らくこの戦が初陣であろう人物の情報となると、流石に雫もやや自信がないようだ。


「迷い込んででも来られたのか? ここは戦場だ! 危険だからすぐに離れるんだ!」


「はあ? 何言ってんだ坊や。アタシ達の格好が迷い込んできた農民の女にでも見えんのかい?」


 少年武者……重治しげはるが妙玖尼たちに退避を促すと、こんな場合ながら紅牙が呆れたように鼻を鳴らす。恐らく女性というだけで無条件に非戦闘員と捉えたようだ。それは如何にも武家で育ってきた男子の価値観、物の見方であった。


 この鮮やかな用兵や初陣にしては堂に入った指揮ぶりからかなり才気に溢れる人物と思われるが、武家の子供故のある意味世間知らずな純粋さではあった。



「格好? 格好って…………ッ!!? な、なな……な、何という……!」


 重治が改めてこちらの姿を目視したかと思うと、その大きな目が限界まで見開かれ顔を朱に染めて絶句する。その視線は主に紅牙に注がれているようだ。彼女は敵陣での戦いを想定して既に外套を脱ぎ捨てており、いつもの露出鎧姿であった。


(……なるほど。これは武家で由緒正しく育てられた若君には少々刺激が強かったかも知れませんね)


 紅牙のような格好をした女性がいる事自体、重治の想像の埒外だろう。ましてやそれが男という男の目を惹かずにはいられない妖艶な美女ときている。周囲を囲っている兵士たちの中にすら目を奪われている者達がいるくらいだ。初心な少年など抗う術はないだろう。


「おや、どうしたんだい坊や? 人の事ばっかりジロジロ見てさ。可愛い顔が真っ赤だよ?」


「……っ!」


 当然ながら男の視線に敏感な紅牙は即座に重治の様子に気づいて、人の悪そうな笑みを浮かべると隠すどころか寧ろ自分の身体を見せつけるように胸を反らせて、生脚も非常に際どい付け根の所まで露出させる。それを見せられた重治は息を呑み、紅牙から視線を逸らせなくなってしまう。



「竹中重治殿ですね? 私は金剛峯寺の妙玖尼と申します。彼女は仲間の紅牙。鬼や妖怪を滅する退魔業・・・を生業としている者です」


「……! た、退魔師……?」


 重治の様子を見た妙玖尼は、彼が紅牙によって気勢を削がれた隙を見逃さず強引に名乗って対話に持ち込む。それに彼が紅牙に動揺している様子を見るだけでも、まだ外法には染まっていない事が分かった。ならば説得・・の余地はあるはずだ。


 妙玖尼の名乗りを聞いた重治は、正気・・を取り戻したように目を瞬かせる。だが問い返した時点で対話は継続できるという事だ。妙玖尼は頷いた。


「ええ、その通りです。妖怪退治を生業とする私達がこの場に踏み込んだ理由……。重治殿にも心当たりがお有りのはずです。その『瘴気石』を囮に使ったという事は」


「……!!」


「道三や光秀が何と言ってあなたにそれを渡したか存じませんが、それは人が触れてはならない禁忌の力です。既にあなた方の軍勢にも人ではない者達・・・・・・・が蔓延っているのではありませんか?」


「……っ!」


 重治がその童顔を強張らせる。その表情が彼の答えと言っていいだろう。


「それを見て尚、あなたは道三に大義・・があると思いますか? 道三が勝てば美濃は滅び、この国は鬼や妖怪が闊歩する地獄のような様相と化してしまうでしょう。それがあなた方の望みなのですか!?」


 重治だけでなくその麾下の兵士たちにも動揺が広がる。恐らく重治達も心の何処かではそれを分かっているのだろう。だが武士としての忠節と義理がそれに見て見ぬ振りをさせているのだ。


「ぼ、僕は……」


「今ならまだ間に合います! 私達に道三を討たせて下さい。道三と光秀さえ排除出来れば、美濃は義龍公のもと安寧を取り戻せます。義龍公の目的はただ美濃から人外の存在を排除する事だけ。人外に加担さえしなければ、徒に美濃の国士を処断したりなどしません」


 妙玖尼は確認を求めるように雫を振り返る。彼女は大きく首肯した。


「まさにその通りだ。外法に染まっておらず、これ以上奴等に加担さえしなければ何も問題はない。義龍様は必ずや事情を汲んで下さるだろう」


 これは別にその場しのぎの口から出任せという訳ではなかった。あの義龍なら感情に任せて判断を誤るような事はしないはずだ。



「……父上に言われて参陣はしたものの、これは正直僕の思い描いていた戦場とは違った。その父上の様子もおかしくなっていた。あれはやはり道三様や光秀様が絡んでいたのか」


 重治は憂鬱そうな表情で嘆息した。そして兵士たちに合図すると弓を降ろさせた。


ここ戦場にいるのは道三様の影武者・・・で、実際の指揮は光秀様が執っている。本物の道三様は大桑城にいる。……僕から言える事はそれだけだ」


「……!! 重治様……感謝いたします」


 ここにいるのは影武者で、本物は大桑城にいる。その情報だけでも非常にありがたかった。重治と会っていなかったら、余計な戦いを強いられていた所だ。それだけ時間も無駄になっていた。しかも道三より先に光秀……海乱鬼と出くわしていたかも知れない。



「してやられたな。すぐに大桑城に向かうぞ!」


 同じ思いだったらしい雫がすぐに踵を返して二人を促す。妙玖尼は頷きつつ、改めて重治にも頭を下げる。


「重治様、ありがとうございました。それでは失礼致します」


「ああ。……美濃を頼む」


「はい、必ず」


 妙玖尼はしっかり請け負うと、雫について踵を返していく。最後に残った紅牙は重治に向かって片目を瞑る。


「ふふ、坊や、あと数年したらいい男になりそうだねぇ。今回のお礼に、筆おろし・・・・をしたくなったらいつでも請け負ってあげるよ」


「……っ! ば、馬鹿者! 早く行くんだ!」


 動揺した重治は顔を真っ赤にして怒鳴る。紅牙は笑いながら妙玖尼達の後を追って走り去っていった。重治はそんな女達の背中を見送りながらため息を吐いた。


「……あんな女達もいたんだな。彼女たちなら道三様を止められるかも知れないな。僕も変な先入観は捨てて精進しないとな」


 彼は嘆息しながらも、どことなく迷いが吹っ切れたような顔で苦笑するのだった。これが後に「半兵衛」の名で知られる事になる竹中重治の、幻の初陣であった……

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