第50話 Last Quarter Moon-2
「ほんとに、もう行って」
あと10分で受付開始時間になってしまう。
「行ってらっしゃいもなしに?」
「~~っ最近、ずっとギリギリだから」
「みんな理解してくれてるよ。急患が来たらすぐに分かるし」
医院の真裏が自宅なので、入り口が開いて居なければ、住民のほとんどは裏の山尾家を尋ねて来る。
医院の鍵はスタッフ全員が持っていて、早番のスタッフが先に来てレジ金と器具の準備をしておくのが決まりになっていた。
が、これまでの山尾は受付開始時間の30分前には医院に向かっており、早番のスタッフより先に鍵を開けていたのだ。
それが、結婚した途端一番最後に出勤するようになった。
徒歩一分ほどの最短通勤距離の院長が、だ。
枕元に置きっぱなしの山尾のスマホに気づいて、医院に届けに行った時の愛果の照れたような表情と、森井の生温い笑顔を思い出すだけで顔から火が出る。
狙ったかのように玲子の第二子妊娠が報告されて、歓喜に沸いた涼川家は、おめでとうを言い合った後、視線を恵へと移して、そんでどうすんの?と尋ねて来た。
『若先生はいつ頃正式なご挨拶に来て下さるのかしら?』
母親の口から飛び出した爆弾発言に目を剥いた恵は、すでに彼が両親に結婚の意向を伝えている事を知って軽いパニック状態に陥った。
そんな恵に追い打ちをかけるように、玲子から新居の設計図を差し出されて、こっちに引っ越して来ること、二世帯住宅を建築予定であることを聞かされて、今後の身の振り方をそろそろ決めろと詰められた。
結果、山尾を頼ることになり、最終的に彼のプロポーズを受け入れて山尾恵になったのだが、朝長と愛果なみのスピード婚だったため、しばらくは医院のスタッフには黙っておいて欲しいと頼んでいたのだ。
山尾は訝しげにしながらも、それを了承してくれた矢先の、スマホ忘れ物事件。
明らかに寝起きの恵が慌てて山尾医院に飛び込んできた時点で、すべてはバレた。
正式な紹介と挨拶の前に、何もかもが筒抜けになってしまったことが居た堪れなさ過ぎて、その後のことはほとんど記憶にない。
それ以降、恵は夫の仕事場には近づいていなかった。
「みんなから理解されたくないんですっ」
「勝手な推測で誤解されるよりはよくない?」
「せ・・・宗介さんがいつも通り医院に行ってくれるのが一番いいです!」
そうすれば、不用意に詮索されることも色んな想像をされることも無いのだから。
学生時代を知る愛果に、色々と察したような眼差しを向けられたり、森井からこれ見よがしな笑みを向けられることが、どれだけ羞恥心を煽られるか山尾には絶対に分かりっこない。
だって彼はあの日からずっと毎日上機嫌だから。
そして、愛果と森井の想像はほとんど間違っていないから余計に困るのだ。
本当に時間が迫って来た彼が、ベッドから降りて着替え始める。
やれやれと息を吐いた恵の真後ろで、山尾が小さく笑った。
「俺にこれまで通りでいて欲しいなら、恵のほうも譲歩してくれないと」
「・・・・・・」
結婚前から文句なしの満点を叩き出していた山尾はともかく、恵のほうは、結婚生活が始まってからこちら、及第点にすら届かない出来損ないの奥様だ。
食事は相変わらず毎日の差し入れがメインだし、家事は山尾のほうが数倍丁寧で手際が良い。
恵の今のところの仕事は食器洗いとお風呂掃除くらいのものだ。
それでも何も考えていないわけではなかった。
「あ、そうだ。長谷さんの通ってる料理教室に連れてってもらう事にしました」
朝長と愛果の結婚を機に少しずつ会話をするようになって、最近ID交換もした二人はお友達を始めたばかりだ。
恵のほうは相変わらず愛果を前にすると色んな妄想やらときめきやらが止まらなくなるけれど、一応一般的な女友達の関係は成立している。
「え、そうなの?料理やりたくなった?」
シャツに袖を通した山尾が意外そうな顔でこちらを振り向く。
「最低限のことだけは・・・覚えたいなって」
「恵が好きでやりたいなら賛成だけど、義務感で行かなきゃって思ってるなら無理しなくていいよ?この二年、俺は一度も食べる物に困った事無いし」
「・・・・・・奥さんらしいこと、やってみたいなって・・・駄目ですか?」
これはかなり愛果に感化されたせいなのだが、山尾は嬉しそうに目を細めた。
「それは俺も嬉しい」
「・・・良かった」
旦那様の賛同が得られたなら、さらにやる気も増すというものだ。
頷いた恵に、山尾が笑顔のままで付け加える。
「でも、譲歩ってそういうことじゃないよ。俺は別に恵に家事をさせたい訳じゃないから」
世間一般的には、結婚した以上は妻が家事や料理に勤しむのが普通とされている。
が、山尾は恵の手を借りずとも一通りの家事は人並み以上にこなせる人なのだ。
むしろ手際の悪い恵が手を出すことのほうが仕事を増やすことになってしまう。
「・・・・・・ほかにも足りないことあり過ぎるんですけど」
花嫁の遺伝子を持っていないはずのモブの自分がヒーローを射止めたのだから、それはもうとんでもない大逆転劇だ。
自分でも自分の出来を重々理解している恵である。
「足りないんじゃなくて、譲歩してってお願い」
「・・・・・・なにを?」
枕に散った髪をそっと撫でた彼が、僅かに屈みこむ。
耳元で聞こえたセリフが脳まで届くより早く、彼が身体を離した。
穏やかな声で、行ってきますと告げた彼がベッドルームから出て行く。
ゆっくりとドアが閉められると同時に、恵は静かに息を吐いた。
「俺が早く起きれるように、恵が早くベッドに入って」
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