第41話 First Quarter Moon-2

恵の頭の中では、抱き留めた愛果と山尾が意味深な視線を交わし合うところまでワンセットだった。


優しく愛果の肩を叩いて見せた山尾の仕草に、じくりと胸が痛む。


あの夜、彼は恵の反応を確かめるようにそっと肩を撫でた。


キスは息苦しくて心地よくて、甘くて切なくて、ハイボールとビールの味が綺麗に混ざり合って喉の奥に消えて行った。


座り心地がいいソファーは寝心地まで最高なんだと、こちらを見下ろす山尾を見上げながら、そんな事を思って、彼の手のひらがだんだん熱を帯びて来ても少しも怖くは無かった。


もう半分以上、その気だったと思う。


潤んでいく身体と思考はそう簡単には止められなくて、恵が難しいことを考えそうになるたびに優しいキスが降って来る。


唇を食まれればくすぐったくて、啄まれればもっとと強請りたくなる。


舌先は逃げた恵を器用に絡め取って、彼のこと以外考えられなくしてしまう。


山尾は、恵が自分をどこまで赦すのかを確かめているようだった。


気持ち良さに飲み込まれては駄目だ。


彼は多分、一線を越えてしまえば恵が悩む必要は無くなると思っているのだろうけれど、それは違う。


何の覚悟も無いのに雰囲気にのまれた自分を死ぬほど後悔するに決まっているのだ。


だから駄目、何か言わなきゃ。


10年先も、このソファーで並んで腰かけているために、ちゃんとしなきゃ。


蕩けていく思考で必死に言葉を考えているうちに、瞼が重たくなって、気づいたら朝だった。


寝心地抜群のソファーでブランケットに包まって熟睡していた恵の足元には、ソファーに凭れて眠り込んでいる山尾が居た。


あの瞬間胸を焼いた感情。


ああ、私はあれを手放そうとしていたのか。


愛果が、何度も頭を下げて、恵から受け取った紙袋を山尾へと差し出す。


ひょいとそれを覗き込んで、山尾が目を丸くした。


「こんな沢山貰っていいの?」


後ろめたさ皆無のその表情こそが、彼の心境を物語っているのに、湧き上がってくるモヤモヤは増えて行く一方だ。


伸ばした手を掴む勇気もないくせに、拒まれるのも誰かに譲るのもいやだなんて。


本当にどこまでも意気地なしで自分勝手だ。


「みなさんでどうぞ」


山尾から視線を逸らして短く告げる。


「じゃあ、遠慮なく頂くよ。ありがとう。すぐ帰る?時間あるならコーヒーくらい出すけど?」


午後診療が始まって一時間ほどすると、患者の波が途切れることが多いらしい。


気を利かせた愛果が、お茶淹れますよと再び受付から立ち上がるのを慌てて止めた。


「うちも診療時間中だから」


これ以上ここに居たら、ますます自分が惨めで情けなくなることは必須だ。


「ああ、そっか。じゃあそこまで送る」


そう言って待合室に出て来た彼が、視線を合わせて来る前に背中を向けた。


「若先生、診療時間中でしょ」


「いまは患者さんいないよ」


要らないと言ったのに、山尾は結局医院の外までついて来た。


この調子だと、今夜も彼の家にお夕飯を食べに行くことになってしまう。


「・・・・・・あの」


「うん?ああ、昼にね、岩谷酒店の女将さんが卯の花届けてくれたよ。華南のよりも美味しいって胸張ってた」


「先輩!」


勢いでよく振り向けば、伸びて来た指の背で目尻をそっと拭われる。


視界が潤んでいた理由がやっと分かった。


「・・・・・・なんで涙目になってるの?」


困ったような呆れたような、何もかも見透かしたような声音が落ちて来て、胸の奥がぎゅうっと苦しくなる。


何とかして形勢を建て直さないといけない。


「あの、私、きゅ、急に忙しくなって・・・だから」


「恵、嘘はもうちょっと上手に吐こうな?」


「み、見逃してください」


逃亡犯よろしく訴えれば、空っぽの手のひらを掴んで引き寄せられる。


反対の手が耳の後ろを撫でて、指の腹が項を擽って離れて行く。


ぶわりと頬に熱が走ると同時に、彼の唇が熱を宿したそこに触れた。


「来ないなら迎えに行くよ。ついでにご両親に挨拶してもいい?」


「・・・・・・・・・!?」


まさか彼がそんなワイルドカードを出して来るとは夢にも思っていなかった。


ぎょっとなって山尾を見上げると、彼が目を細めて首を傾げる。


「そんな驚くようなこと言った?」


「な、なにを考えて・・・」


「なにってこの四か月ずっと同じことしか考えてないよ。恵が焦れるから待ってるだけ」


「・・・・・・焦れてるわけじゃ」


踏ん切りがつかないから・・・・・・それはなんの?


なにが駄目だから、彼のプロポーズをあり得ないと突っぱねたの?


最初から終始一貫して彼の態度は変わっていない。


だってさっきの愛果にだって見向きもしなかった。


それはどうして?


恵を好きだからだ。


長谷愛果に敵うなにかを何一つ持っていない涼川恵を、彼が選んでしまっているからだ。


「あとどれくらい背中押せばいい?」


ぽんと宥めるように恵の背中を叩いた山尾が、隣に並んでこちらを覗き込んで来る。


あと一押しか、二押しか、考えてしまいそうになった自分を必死に押し留める。


「・・・お、押さないで!」


詰るように彼を睨みつければ。


「・・・・・・俺のこと嫌いじゃないくせに」


溜息と共に勝ち誇ったような笑みが返って来た。


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