第43話 Waxing Gibbous-1
7分。
これは、山尾家の玄関に立ってから、お邪魔しましたを言ってドアを開けるまでに要した時間だ。
お馴染みのサンダルに足を入れるだけで3秒、上り口から玄関のドアまで約5秒。
どれだけ手間取っても30秒足らずでお暇出来るはずなのに。
当たり前のように隣に並んだ彼が指を掴んで来たら、伏せた瞼にキスが落ちるのはもうすぐだと予感出来るくらいに、慣れて、しまった。
馴染んだ唇の熱は心地よい。
程よい酩酊感と相まってさらに気持ち良くなる。
そうなったら面倒な問答が不要になる事を彼も分かっているから、おやすみを言う前にいつもキスを仕掛ける。
そして、自宅に戻ってベッドにもぐりこんで意識を手放すまで、そのキスを反芻して恵が右往左往することも、彼は誰より理解しているのだ。
どれくらいこちらが初心でいい歳こいて何も知らずに生きて来たのか、完全に彼に見抜かれている。
だから適当な嘘や見栄でごまかすわけにはいかない。
どうせ無駄なあがきだから。
・・・・・・・・・
「偉かったね、大晴くん」
恵の膝の上に抱かれた大晴の頭を、山尾の手が優しく撫でる。
遠ざかっていくその手を視線で追いながら、違うなぁ、とぼんやり思った。
これまでも十分優しい人だと思っていた彼の手のひらが、より一層優しくなることを知ってしまった。
今のこれは、完全に仕事用の若先生モードの彼だ。
恵専用のそれではない。
自分に向けられた視線に気づいた山尾が、一瞬だけ恵を見て目を細めた。
完全にこちらの感情は筒抜けだ。
悔しい。
違うんです、今は叔母として純粋に甥っ子を心配しているんです、決して恋愛モードじゃないんです。
だからそこで勝手に甘ったるい空気出すのほんとにやめて!!!!
「注射、泣かなかったよって明日葵先生にお話しようねー」
予防接種を怖がっていた大晴は、ちゃんと泣かずに注射を終えた。
去年の今頃はぎゃんぎゃん泣いて恵の服を涙と鼻水まみれにしてくれたのに。
大人は退化していく一方なのに、子供はどんどん進化を遂げていくのだ。
まっさらな未来に向かって。
「僕すごい!?」
「うん、すごいよ!葵先生もきっと褒めてくれるね」
お気に入りの先生の名前を出せば、誇らしげな顔でこちらを見つめ返して来る。
こうやって膝の上に抱き上げて予防接種に付き合うのもあと数年になるだろう。
そのうち抱きしめさせてもらうことも出来なくなるのだ。
何年か経って反抗期が訪れて、くそババアとか言われたら本気で号泣しそうだ。
さっきまで強張っていた顔は今や満面の笑みでいっぱいだ。
ぴょんと恵の膝の上から飛び降りた大晴が、元気に山尾にお礼を伝える。
「大晴ほんとえらいね!花丸だね!」
先生に会ったらちゃんとご挨拶して、お礼も言おうね、と言ったことを全てやり遂げて見せた。
待合室に駆け出していく背中を見送って、叔母馬鹿全開で拍手をしていると、山尾が困ったように笑い声を上げた。
「そろそろ甥っ子離れしてよ」
「無理ですよ。大晴ほんとに可愛いもん。先輩も一緒に可愛がってくださいよ」
生まれた時から見ているので、もはや我が子同然の甥っ子である。
「うん・・・・・・可愛がるけどね」
下がり眉のままで零した山尾が、次は恵の番ねと言って大人用の注射器を手に取った。
毎年大晴を連れて来る時に、一緒に恵も予防接種を受けるのが恒例になっていた。
去年は、泣きじゃくる大晴をあやしながら気もそぞろで打って貰ったのだ。
あんなに泣かせるくらいなら、いっそ私に二本打ってください!とわけのわからない事を口走りそうになったくらい、大晴の注射イヤイヤ期はすごかった。
「大晴ー!おもちゃのところに居て!まだ靴履かないで!」
アルコール綿が腕に触れて、あああの痛みが来るときゅっと両目を閉じる。
と、目の前で山尾が小さく笑った。
「大晴くんと同じ顔してる。痛くないよ」
「・・・・・・注射が痛くなかったことないです・・・っ」
きゅっと唇を引き結んで、注射針の痛みを堪える。
大晴も恵も、絶対に注射針が肌に突き刺さる瞬間を見ないようにしていた。
じっくり見て確かめるのは玲子だけだ。
「はい終わり」
注射器と共に山尾が離れて行く。
森井が保護ガーゼを貼ったところで、受付から愛果の声が聞こえた。
もう受付時間は終了なのに誰かがやって来たようだ。
「・・・・・・ありがとうございました・・・・・・えっと若先生今日は」
「飲んでもいいけど薄めでね」
「はーい」
様子を伺おうと森井が受付に続く引き戸の目隠しカーテンを僅かに持ち上げる。
と、大晴の声が聞こえた。
「わあ!」
「ごめんね、大丈夫かな?」
どうやら今来たばかりの男性患者にぶつかったらしい。
慌てて診察室を飛び出して待合室に向かう。
予想通りチャイルドスペースからおもちゃを持ち出した大晴が、しっかりプラレールを握ったまま尻餅をついていた。
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