第12話 Strawberry Moon-1
「こないだは拓が悪かったなぁ」
リナリアのカウンター席でマスターが丁寧に淹れてくれた晴ブレンドを一口飲んで、ガンが父親らしい表情で軽く頭を下げた。
これは拓が物心ついた頃から何度も繰り返されてきたやり取りである。
山尾のほうも、ガンのほうも慣れたものだ。
「なに、拓また怪我したの?」
皺と白髪の増えたマスターが丸眼鏡の奥で心配そうに目を細める。
「ほら、西の小さいグラウンドってほとんど野ざらしだから、転んだ時に大きめの石でざっくり切ったんだよ」
未だに趣味人たちが集まって草野球を続けているが、それとは別に父親の背中を見て野球に興味を持った子供たちがちびっ子草野球チームを作っていた。
「次の草野球の時にあっちの石拾いするかなぁ・・・ほかの子も怪我すると危ねぇしなぁ」
「そのほうがいいねぇ・・・草引きはほら、定期的に自治会でやってるけどさすがに石拾いまではなぁ・・・このへん公園も多いし」
マスターの言葉に、山尾とガンが頷く。
地元を離れている大と、マンションで暮らしている友世を除いた4人は、月に二回は揃ってリナリアに顔を出す。
早苗は、那千の幼稚園のお迎えまでリナリアで過ごすことが多いし、夕方を過ぎれば、早苗の父親や、ガンの父親が入れ替わりで店にやって来るので、マスターが一人になる事はほとんどなかった。
晴がいなくなった後、悲しいかな幼馴染たちの結束はさらに強くなって、いつも誰かがリナリアに、マスターの側についていることが普通になった。
そのおかげで、ある意味自宅よりもこの店の方が愛着が湧いてしまう。
高校三年間はとくに、学校から帰るとリナリアで集まって過ごしていたので、あの時恵に返した言葉には嘘も偽りも混ざってはいない。
本当に、恋愛どころではなかったのだ。
だから、誰かからの好意や視線を意識することもほとんどなかった。
あれだけ思い合っていた二人が真っ二つに引き裂かれる姿を目の当たりにした思春期の山尾にとって、恋愛は確実に忌避するべき存在だったのだ。
だから、意図的にそういう視線は見ない振りをして過ごして来た。
そんな中で、恵から向けられる視線は、好意でも好奇心でもなかった。
ただただ山尾の仕草や視線を確かめて、一線を画した場所から観察を続けている不思議な存在。
彼女の視線が忙しなくなるのは、決まって定例会の時で、その中に好きな相手でもいるんだろうと腑に落ちた瞬間なんだかモヤモヤしたのも一度きり。
自分のことに目を向けるより先に、どん底まで突き落とされた早苗を引っ張り上げることと、早苗の側で終始寄り添ってサポートを続けている、同じ女子高に進学した友世のことが気掛かりだった。
晴の事故死で真っ先に泣いたのは華南で、一番泣いたのはガンだった。
抜け殻のように立ち尽くす早苗を抱きしめて泣きじゃくる華南と、必死に早苗に呼びかける友世。
泣き崩れたガンを支えようとしゃがみ込んだ大がボロボロ涙を流すのを見た次の瞬間、同じように泣き崩れていた。
霊安室から引きずり出されるまで晴の側で泣き続けて、帰って来いと叫び続けて、子供たちが必死に現実逃避している間に、大人たちはマスターに代わって葬儀の準備を進めていた。
あの時晴の父親がどんな顔で、どんなふうに痛みを堪えて息子を見送ったのか、何も覚えていない。
三日三晩泣き続ける華南と、泣く事すら出来ずに呼吸だけを繰り返す早苗と、震える手で華南と早苗を抱きしめる友世のそばにいることで、精一杯だったのだ。
ほのかに友世に向けて育っていた恋心はあの事故で動かなくなって、早苗が中心になった生活のなかで次第に薄れて行った。
医大生になってから勤務医になるまでの数年は、ひたすら研鑽の毎日で、誰かに寄り添って貰いたいと思う事はあっても、誰かに寄り添いたいと思える余裕なんて持てなかった。
だから、彼女から別れを突き付けられた時に、自分には当分恋愛は必要ないと割り切った。
二つのものを抱えて生きていける程器用ではないのだ。
悲しいかな、どれだけ彼女に心を砕いても、早苗たちに何かあれば真っ先にそちらに駆けつけてしまう自分が居て、その優先順位はきっと永遠に変わらないと思ってしまったから、他のものは望まない事にした。
そうやって自分に理由付けすれば、悩む必要は無くなって、父親の跡を継いでこのまま町の若先生で居続けられたらそれで十分だろうとすら考えていた。
そうやって目の前のことだけ見続けていたから、いざ未来を願えと言われた瞬間、あんなとんでもない行動に出てしまったのだ。
重たい溜息を吐いた山尾を、マスターとガンが顔を揃えて見つめる。
「んで、なんか悩んでんだろ?お前が急に誘ってくるの珍しいもんな」
今や立派な二児の父親であるガンを、独身の自分の都合に合わせて夜にしょっちゅう呼び出すのは気が引けるし、華南の手前もある。
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