普通に生きられなかった私への鎮魂歌

植田伊織

第1話 はじめに

 私は齢三十六にして、何者かになりたかった。

しかし、その願いは叶いそうにない。


 小説投稿サイトを利用して早三か月。私は、人生を変えたくて小説を書くことにした。


 誤解を招かないためにも冒頭で書き留めておきたい事がある。

ありがたいことに私の作品は、誰からも読まれなかった訳では無い。ほんの少数だが、私の話を評価してくれる方、感想をくださった方に恵まれ、心から感謝している事は初めに記しておきたい。


 その上で、改めて見つめなおしておこうと考えたのだ。


「私が何者にもなれない可能性」を。


 私には、書き溜めていた自作の小説が数本あった。若い頃、それを脚本に漫画を描いてデビューしたいという夢があったけれど、その夢は私の実力不足という土俵にも立てないレベルの場所で、あっけなく破れてしまった。


 その後も二次創作の動画を作ってみたものの、とても万人受けする作品が作れたとは言えない。その時もまたありがたいことに、熱狂的なファンが応援してくれた。しかし、ごく少数の人にしか認知されなかった。


 作る事が好きだった私はあがきにあがいたが、どうも創作者としての自分の才能は、平凡だという事が判った。

 もしかしたらそれ以下かもしれないが、そうすると私を応援してくださった方々になんだか申し訳ないので、ここではあえて“並み”であると定義させて欲しい。


 コロナ禍で突然、仕事と育児以外の時間がとれるようになったため、昔書いていた小説をもう一度自分なりに再構築して、公募にチャレンジしたりネット上で公表したり、とにかく何か創作活動を再開しようと考えた。それまで、どの物語も私の頭の中にしか存在せず、十年前につたない作品を友人読んでもらったきり、頑なに人に見せるのを――否、人から評価されるのを――拒んでいた。渾身の一撃である漫画が箸にも棒にも引っかからなかった経験が、私を臆病にしていた。そうでなくとも私は極端に傷つきやすく、理想を手に入れるために踏ん張るような真似が出来ないという自覚はある。

 しかし例えばコロナで私が命を落としてしまったとして、どこにも公表する当てのない物語が机の奥からわんさか出てきたとしたら……? それはあまりに、人生に対して消極的すぎやしないだろうか。そう思ったのだ。


 私は、機能不全家庭のサバイバーである。


 母は統合失調症だし、父は診断こそないものの典型的なASD(旧、アスペルガー症候群)かつ、自己愛性障害を患っているとしか思えないほど、人格的に偏った人だ。

私自身adhd傾向にあり、息子は知的障害を伴う自閉症(ASD)である。


 とても、「普通」に生きてはいられなかった。


 もしかしたら私は、辛い事から逃れるために物語を作ったのかもしれない。幼少期から作家になりたいといって、でたらめな物語を作っていたそうだから、何かを作ることは私の一番の相棒だったように思える。


 精神的におかしくなった母の攻撃から身を守りながら、大学生活を送った。就職に失敗するわけにはゆかないと、遊ばず、ろくにサークル活動すらしなかった。表面上仲の良い友人はたくさんいたが、自分の居場所は無かった。


 そこで掴んだ大手企業の就職先では、適応障害を起こしている。発達障害に対する認知が今ほどなかった時代の事である、その仕事に向いていないと知るすべはなかったし、どんな仕事も三年は辞めるなといわれていた時代の話だ。


 追い打ちをかけるように、体のある臓器に、将来的に癌化する腫瘍がみつかった。癌化したら、致死率九十%の大病である。手術以外に選択肢は無く、長い闘病生活も経験した。わかりにくい病気で診断名が二転三転し、ただでさえ仕事上の不注意で信頼を失いがちな私の居場所は、どんどん無くなっていった。社会は儲けを出さない人間に優しくする云われは無いと、わかっていても、辛かった。


 そんな涙がちぎれるような経験をしたにもかかわらず、当時二十代後半だっただけで大きな病気をしたというのを信じてもらえず、悔しい思いもした。


 「母親」ならうまくやれるかも知れないと期待した結果、待っていたのは障害児育児。

 息子はかわいいし愛してはいるけれど、「母親としてうまくやっている」と判るのは何十年の先の事である。ましてや、障害児育児は普通のこどもに比べて、その答えが出るのが遅い。もしかしたら、一生答えはでないままかもしれない。


 さらに言えば私は、「母親である」ことに満たされるタイプの人間ではないことがわかってしまった。


 私には、どこにも居場所がないように思っている。そう思う事すら高慢であるのは百も承知だけれど、どれもこれもうまくいかない人生であった事だけは、確かなのだ。


 夢をあきらめる代わりに堅実に働こうと思った仕事では失敗ばかり、結婚してもいばらの道を歩んでいる。かといって、他に生きる道があるわけでもない。自分に合った道を選べなかったのか、そんな道など端から存在しないのかはわからない。


 そんな情けない自分を変えたかったけれど、どうやら高望みだったようだ。

私は皆が颯爽と大理石の道を歩くのを横目に、地を這って泥水をすするしか能のない人間なのかもしれない。


 そうであるならば、これからはそれも、受け入れなければならないだろう。そう思って、このエッセイとも日記ともつかぬ駄文を書こうと思い至った。

 巷では、考え方を変えればそこに幸せが見えるらしいし、私の願う目標は、私には高すぎたようだから。


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