ふゆのはじまり
大隅 スミヲ
1.
その日、高橋佐智子が目を覚ましたのは、寒さのせいだった。
掛けていたはずの布団は、どこかに蹴とばしてしまっており、見当たらなかった。
部屋は暗かった。カーテンの向こう側に日の光は見えていない。
いま、何時だろうか。佐智子は壁掛け時計へ目をむける。
まだ午前4時だった。あと2時間は眠れるじゃないか。
佐智子はベッドの下に落ちてしまっていた布団を見つけると拾い上げ、その布団に包まるようにして、再び眠りについた。
スマートフォンで設定しておいた目覚ましアラームが鳴っていた。
なにか夢を見ていたことは覚えているが、どんな夢だったかは思い出せなかった。
寒い。寒すぎる。
この寒さが、布団から抜け出そうという佐智子の決断を鈍らせていた。
もう少し布団の中にいたいという本音はあるが、のんびりしていると遅刻してしまうという現実が、佐智子にのしかかってくる。
「よし!」
佐智子は気合を一発入れると、勢いよく布団から飛び出した。
朝の支度は、時間との勝負だ。
コーヒーメーカーのスイッチを入れて、食パンをトーストする。
朝食は簡単に済ませる。といっても、この家でまともな自炊をしたことは一度もないのだが。
テレビをつけると、ニュース番組をはしごする。
特に大きな事件や事故は起きていないらしく、芸能人の不倫についてどこの局も報道していた。きょうも、この国は平和なようだ。
食事を終えると、佐智子は着替えを済ませて、出かける支度をはじめる。
「きょうの気温は、今シーズン一番の寒さとなるでしょう」
テレビ画面の中でイケメン気象予報士がいう。屋外から中継をしているイケメン気象予報士はダッフルコートを着て、首にはマフラーを巻いており、若干寒さで震えているようにも見えた。
「なるほど、きょうは寒いのか」
独り言をつぶやきながら、佐智子はクローゼットの中に頭を突っ込む。たしかこの辺りにダウンジャケットがしまってあったはずだ。
クローゼットの中から出て来たのは、クリーニングから戻ったあと、そのままとなっていたダウンジャケットだった。
クリーニングのビニール袋を破り捨てると、タグを外してから袖を通した。
「うん、暖かい」
ひさしぶりに着たダウンジャケットの暖かさに佐智子は感動を覚える。
ふと、カレンダーに目を向けた。今年も残り一か月とちょっととなっていた。
一年があっという間に終わってしまうと感じるようになったのは、いつ頃からだっただろうか。
この冬一番の寒さというだけあって、外の空気は冷たかった。
コンビニエンスストアでは、おでんと書かれたのぼりが立っており、それを見ただけでも冬を感じてしまう。
おでんと熱燗で一杯というのもいいかもしれないな。
まだ朝だというのに、佐智子は夜の食事を想像しながら道を急いだ。
満員電車の中は、人々の頭から湯気が上がるのではないかと思えるぐらいに暑かった。
ダウンジャケットは脱いで手に持ち、シャツ姿で電車内を過ごした。もし、ダウンジャケットを着たままだったら、いまごろ汗まみれになっていたかもしれない。
そんなことを思いながら、電車を降りると、再びダウンジャケットを着て職場へと向かった。
職場である警視庁新宿中央署に着くと、半袖のポロシャツを着ている人とすれ違った。こういう季節感が全くない人が、たまにいるのだ。本人は寒くないのかもしれないが、見ているこっちが寒くなってしまうと、佐智子は思った。
刑事課の事務室の隅にあるロッカーにダウンジャケットをしまい、自分の席につくとパソコンの電源を入れ、仕事の準備をはじめた。
「おはよう」
上司である強行犯捜査係長の織田警部補が、眠たそうな声を出しながら出勤してきた。
また昨夜も遅くまで残っていたのだろうか。
織田係長が終電ギリギリまで残業をしている姿を佐智子は何度か見かけたことがあった。
織田係長は自分の席に、自宅から持ってきたと思われる缶コーヒーを並べていく。全部で3本。
自動販売機で買うよりも安いからという理由でスーパーで箱買いして、毎日出勤する時に持ってくるのだという話を聞いたことがある。
しばらくして、佐智子の隣の席に背の高い男が現れた。
出勤時間ギリギリの到着。
寝ぐせなのか、寝ぐせ風のセットなのかわからないが、髪の毛がぐしゃぐしゃと盛り上がっている。いつもと違う髪型なのでたぶん前者の方だろう。
「おはよう」
「おはようございます、富永さん」
佐智子は一つ年上の先輩刑事である富永巡査部長に挨拶を返した。
背負っていたビジネスリュックを机の上に下ろした富永は、席には着かずにどこかへと行ってしまった。
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