三章 脅威と希望と
原生回帰の森
廃虚街を出発してから三時間ほど経過しただろうか。幸い三人は未だ犬にも他の獣にも出会うことなく、順調に歩を進めていた。
先日森の境目付近に入った時ですら随分と木々の密度の高さを感じたものだが、いざ奥に入ってみればそれが微々たるものだったと悟らされるばかりである。幾重にも折り重なった葉の隙間から僅かばかりの陽が差して、風に合わせて揺れ遊ぶ光の粒を地面に描き出していた。
ギャア、というけたたましい声がどこからか聞こえて、レイトは思わず首をすくめる。鳥が鳴いているだけなのだと頭では理解していても、今にも木々の隙間から異形の怪物が飛び出してきそうな気がしてならない。
「ったく、どうせ鳴くんならもっと綺麗な声で鳴いてほしいもんだよな」
目の前に垂れ下がるツタをナイフで切り払いながらハルキが言った。そのうちの数本が絡み太くなった部分で刃が止まったかと思うと、すぐに空いている方の手でそのツタをブチブチと引きちぎってしまう。
「ねぇハルキ、それできるんだったらナイフ要らなくない?」
「いや、案外これ手のひらにくるんだよ。全部やってたら今頃俺の手は厚さ二ミリくらいになってる」
「なにその摩擦力怖い」
ハルキが残ったツタと格闘しているのを横目に、レイトは背後のニタに視線を送る。
進む速度はそこまで速くないが、なにしろ足場が悪い。泥だろうが木の根だろうがお構いなしにピンヒールで蹴散らしていくハルキは論外として、レイト自身そろそろ足首にガタがきていた。二人よりも身体が脆いニタならば、既に相当無理をしているに違いない。
「ごめんね、全然休憩も無しで……どこもかしこも視界が悪すぎて、せめて崩れた廃墟の壁一つでもあればいいんだけど」
「ん、まだ、大丈夫……ケガも、してないし。あ、でもお水ちょうだい」
レイトは頷き、ハルキの背負った袋からペットボトルを抜き取ってニタに手渡す。既に二本目も半分の量を切っていて、この分だと予定より早く、ともすれば今日中に全て無くなってしまいそうだった。
「んくっ、んくっ……ぷはぁ。うん、これであと一時間は頑張れそう!」
「そう? じゃ僕もちょっと飲もうかな……節水は分かってるんだけど……」
「おい、ズルいぞおまえら! これ終わったら俺も飲むから、ああもうやけにしつこいなこのツタ」
複数の低木をからげ、執拗にからまったツタのかたまりをハルキが思い切り踏みつける。その下からピチャリ、と水が跳ねる音がした。
「また水たまり? この辺多いね、土の上でも雨が残るなんて聞いたことないんだけど」
「いや、これは水たまりっつーより……んー?」
ハルキはその場にしゃがみ込んで地面をじっと観察している。レイトとニタは顔を見合わせるとペットボトルを袋に戻し、切れたツタに足を取られないよう気を付けながらハルキの正面に回り込んだ。
「水たまりじゃないの? 血だまりだった、とかはやめてよ」
「いや俺に言われても知らねぇよ。でも、まあ臭いがしないからその可能性はゼロだな。じゃなくてこの水、草に覆われまくってんだけど無駄に細長くて……これどういう状態なんだ?」
「あー! これ、川だよ! ちっちゃい川!」
ニタが少し離れた場所を指さして声を上げる。見ると、そこには同じく草に埋もれるようにして光を反射する水面があった。小川は三人のいる方向へ流れてきており、前を通り過ぎて更に奥の方へと続いているらしい。
「ほんとだ。でも、さすがにこれじゃ水源にはならないね」
そう言ってレイトは小川に手を入れる。川幅は十センチほど、深さもせいぜいが二センチ。それでも、冷たい水の流れは体内に溜まった熱を少しだけ連れ去っていってくれた。
近くの地面に、手のひらサイズの見たことのないキノコが群生している。白いイボのついた灰褐色の肉厚な丸い傘は、いかにも食べ応えがありそうだった。
「……ダメだからね?」
「え、なにが?」
「レイちゃん今、そのキノコ食べたそうな顔してたでしょ」
ニタに睨まれ、レイトは伸ばしかけていた手を素早く引っ込める。この前の真っ白なキノコもそうだったが、毒キノコというのはどれも派手で見付けやすい色をしているものだとばかり思っていた。地味であれば食べられる、というのは大きな誤解だったらしい。
「そうか、これもなんだ……知識がないと、不味いじゃ済まされないのが自然食材の怖いところだね。いやあ危ない、ニタちゃんがいなかったら僕たちキノコに殺されてたな」
「キノコに⁉ なんだよ、地上じゃこんな奴らまで手足生やして襲ってくんのか⁉」
ハルキが実に奇抜な解釈で驚きの声を上げる。そういえば、食料集めの時にハルキは同行していなかったか。だったら勘違いも仕方ない……いやいや。
「襲ってくるんじゃなくて、毒キノコなんだってさ」今さっき食べようとしていた自分のことはすっかり棚に上げ、レイトは笑う。「普通に食べられるものの中に、一本食べただけで死ぬような種類が混ざってるんだ」
「これは絶対に死んじゃうってわけじゃないけど、毒の種類は一番多いの」
発汗、めまい、痙攣、呼吸困難……ニタが指折り数える症状を聞いて、ハルキはさりげなくキノコから距離をとる。
症状からすると、内臓にダメージというよりは神経系。あのハルキを怯ませるだなんてこのキノコ、人畜無害そうな顔をして案外やるじゃないか。
ややずれた方向に感心するレイトだった。
と。少し話がそれたが、今は水源の問題だ。気を取り直して、レイトはハルキに話を振る。
「この川ってどこに続いてるんだろう。都市じゃ、最後は下水道に流れ込んでたよね?」
「だったな。地上だと……やっぱりあのでっかい海じゃねぇのか?」
「山に降った雨が川になって海に流れる、って私は教わったよ」
レイトは立ち上がって来た方向を眺めてみたが、当然海の姿はおろか、波の音さえ聞こえてはこなかった。木と草と土と少しばかりの空、どこかで鳴く鳥の声と葉のこすれ合うざわめきが周囲にある全てだ。
続いて、風車のあった丘から見た山のことを思い出してみる。あくまで遠近法からの推測ではあるが、相当遠くにあったはずだ。少なくとも、足場の悪い道を三時間歩いた程度で近付けるような距離ではない。
で、あれば。そんな途方もない距離を、果たしてこんな整備もされていない小さな川が何にも邪魔されず、途切れることなく流れ続けられるものなのだろうか。
「……ふむ。僕が思うに、この川は直接山や海に続いてるってわけじゃないんじゃないかな」
「どういうことだ? ずっと同じところをグルグル回り続けてるってことか?」
「いやいや、ポンプなしでそれは高低差の関係上不可能でしょ。そうじゃなくて」レイトはもう一度腰を落とし、小川の上流、下流方面にそれぞれ目を凝らす。「もしかしたらだけど……この先に、池とかもっと大きな川とかがあるんじゃないかなって」
やはり、現在地から見た限りでは池も川も見当たらない。どちらも同じような景色の中に紛れていっているが、上流側には遠くに街道の光が見える。道を横切っているとは考えづらい、きっとその手前で曲がっているかもしくはどこかに行きついていることだろう。
「どうする? 僕としてはこの川沿いに進んだ方が水源は見付けやすくなるかなと思うんだけど。持ってる水の量も思ったより余裕がないみたいだから、急いだほうがいいかなって」
「でも、それだと街道沿いからは離れちゃうよね」しゃがみっぱなしが辛くなったのか、ニタが立ち上がって膝を伸ばす。「これ以上街道に近付くと、犬に会う危険も増えるし……あんまり遠くまで行くと、今度は拠点になる場所が見つからなくなっちゃう」
「だけど、このまままっすぐ進んでも水源が見つかる可能性は低いと思うよ。実際、ここまで水たまり以外に小さな池すら見当たらなかったんだから」
そうだよね、とニタは両手で口を塞ぐようにして考え込んでしまった。レイトも再び腰を上げ、近くの木にもたれかかる。
とはいえ、ニタの言うことも至極当然だった。ここは似たような景色が続く場所だし、周辺地理の正確な情報もない。水の確保に躍起になるあまり迷子にでもなったら遭難は確実、本末転倒である。
「なぁ、そもそも、池はダメって話じゃなかったか? 水が腐って飲めないとか、レイトおまえ言ってなかったっけ」
ふと、小川の水を指で弾いて遊んでいたハルキが顔を上げて言った。濡れた手を振って水を飛ばし、レイトの隣に移動すると木の側面に横向きで体重を預ける。
「ああ、それはこの場合大丈夫なんだ。飲めないのは池の水じゃなくて流れのない水ってことだから……あっ、そうか」
レイトはまだ悩んでいる様子のニタの肩に触れる。ニタは一瞬だけ驚いたように身を跳ねさせたが、手の主がレイトであることに気付くとすぐに笑顔になった。
「わぁびっくりした……レイちゃん、どうしたの?」
「いきなりごめん。もし川沿いに行くなら上流方向にしようって言おうと思って。下流にあるのが川ならともかく、池だったら水が澱んじゃってて飲めない可能性が高いんだ」
「上流方向……ってことは、街道の方か……距離はそんなにないから川沿いに戻ってくれば迷う心配はない、よね」
ニタは街道に顔を向けた。動くものはどこにも見当たらないが、確実に何かがいるであろう不穏な気配が漂っている。何を考えているかは一目瞭然だった。
「……どうしても犬が怖いなら、無理強いはしないよ」
「うん、ありがと。私もね、ほんとは迷わないのなら川沿いに行った方がいいとは思ってるんだけど、でも、やっぱり」
「んだよ、煮え切らねぇなぁ!」
と、我慢の限界を迎えたらしいハルキの声が飛んだ。荒い足取りで二人の所まで歩いてくると、ニタの腕を掴んで街道の方へ引っ張る。
「行った方がいいなら行く、でいいだろうが。この期に及んで犬がどうとか、おまえ頑張るって決めたんじゃねぇのかよ」
「え、あ、やだやだ、待って――」
「ハルキ‼」
咄嗟にレイトは大きい声でハルキを制止する。全身に苛立ちを滲ませた様子で振り返ったハルキは、しかしレイトの突き刺すような視線に息を呑んで押し黙った。
「……なんだよ。分かった悪かった、俺は行くからもう勝手にしろよ」
そしてハルキは、掴んでいたニタの腕を離すと先へ歩いて行ってしまう。心臓の辺りを抑えてその場にへたり込んだニタの傍らに、レイトは膝をついて顔を覗き込んだ。
「大丈夫? ほんとにごめん、ハルキに悪気はないとはいえ今のはさすがに暴挙がすぎるよね」
「ううん。いいの、ハルちゃんの言った通り、頑張るって言ってついてきたのは私なんだから。大丈夫……うん、大丈夫。私は大丈夫だから」
大丈夫、と何度も繰り返すのは、おそらく自分にそう言い聞かせているのだろう。レイトの肩を支えにして、ニタはゆっくりと立ち上がる。
「行こう、レイちゃん。ハルちゃんに置いて行かれたらもっと危ないもんね!」
無理矢理元気を作り出したようにそう言い切って、ハルキの背中を小走りで追いかけるニタの手は首元のヘッドホンを強く握りしめている。
レイトは少しの間だけ放心してその姿を眺めていたが、やがて気を取り直すと急いでニタに追い付き、その隣に並んだ。
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