地上を歩く影

 身体を大きく揺すられて、レイトは目を覚ました。


 少し懐かしい匂いが漂う暗闇の中、横方向に四角く切り取られた星空が見える。屋内にいるのだとすぐに直感した。


 硬い床で寝ていたためだろう、上体を起こすと背骨が軋む。血が下がり、目の前が一瞬紫色の砂嵐のようなノイズに覆われた。平衡感覚が安定するのを待って、反対側に首を向ける。


 同じく上体を起こしたハルキが、レイトの腰に手を置いたまま入り口を睨みつけていた。差し込んだ光に照らされ、力の籠った瞳はまるで自ら発光しているかのように鋭い。


 それは、自分や仲間に危険を及ぼしかねない『何か』が接近した時にだけ、ハルキが見せる表情だった。


「……ハルキ、外に何か――ングッ」

「気配だ。人か獣かは分からない」


 腰に置いていた手でレイトの口を押さえ、ハルキは小声でそう呟く。顔は動かさないまま、ちらりと一瞬だけ視線がレイトの方を向いた。


 レイトが頷いて理解の意を示すと、口から手が離れていく。真似して気配を探ってはみたものの、戸口の外からは何も感じられなかった。ついでに足音も呼吸音も、何一つ聞こえてはこない。


 ハルキが間違うとも思えないし、自分の耳に何かが詰まっているのでもなければ気配の主がまだ遠くにいるということだろう。そう結論づけたレイトは、現状把握に努めようとハルキの耳に口を寄せて質問を投げかける。


「気配の主は?」

「単独。殺意ピリピリって感じじゃねぇな」

「距離は?」

「二つ隣の建物……くらいか。今は止まってる」


 ハルキが大きく息を吐き、ゆっくりと一度瞬きをする。壁に背をもたせかけて、少し緊張が和らいだように見えた。


 打ちっぱなしのコンクリートの壁、床の上で小さな山を成している崩れた天井の欠片。暗闇に目が慣れ、徐々に建物内部の様子が見えてくる。家具の一つもない部屋の四隅からはツタやらシダ類やらが顔を出し、これを廃墟と言わずに何を廃墟と言うのかという様相だった。


「……ここは、廃墟エリアのどの辺りなの?」

「いや、分かんねぇんだよそれが」

「わ、分からない……?」

「おまえが寝ちまった後、陸地に辿り着いたまでは良かったんだけどな。どこもかしこも似たような瓦礫ばっかで、デカい道は意味分かんねぇくらい塞がれててよ。通れるところを探して進んでる内に、まあ……見事に遭難したってワケで」


 バツが悪そうに口を尖らせ、ハルキは後頭部を掻く。視線は入口の方を向いたままだった。


「と、動きだしたな……反対側の建物に入ったか」


 今度は、レイトにもはっきりと音が聞こえた。小さな岩のようなものを転がして……硬い何かにぶつかった。壁だろうか。


「何か、探してるのかな……まさか、僕たちじゃないよね?」

「さぁな。動物の嗅覚なら、俺たちの体臭くらい嗅ぎつけても不思議じゃないだろ」


 不安を煽るハルキの返答に、生唾を呑んだレイトは口を閉ざす。硬直した二人の周囲を再び緊張感が取り巻いた。


 二人の住んでいた地下都市郊外には野犬も暴徒もいたが、ハルキはその大半と喧嘩し、殴り合い、追い払った実績がある。犬と喧嘩するのは人間としてどうなのか、という話は置いておいて……今までであれば、この状況はそこまで怯えるようなことでもなかったはずだ。


 しかしここが勝手知ったる場所でない以上、ただじっと未知の脅威を待つのはどう考えても得策じゃない。

 レイトは音がしないよう最大限の注意を払いながら、近くの床に転がっていた鞄を引き寄せる。中から取り出したのは、十メートル程度の細いロープだった。


「おまえ、そんなもん持ってたのな」

「出発前に家の中を大捜索してたら出てきたんだよね。束ねたりすれば崖とか降りられるかと思って、持って来たんだけど……」

「でも、道具も足りねぇし生け捕りにするのは難しくないか?」

「あ、いや、これは縛るんじゃなくて」


 言いながら、レイトは忍び足で入り口に近付く。手招きしてハルキを呼ぶと、ハルキは懐疑的な顔を隠しもせずにレイトの近くまで寄ってきた。


「で、どうすんだよ。建物がデカいから回り込むのに時間がかかってるけど、アイツ、もうこっちに向かって来てるぞ」

「分かった、急ぐから」


 元々は扉があっただろう戸口の両側には、何に使われたのか分からない釘がいくつも打ってあった。レイトは解いたロープの片端を足元の釘に結び、反対側を対岸の釘に引っ掛ける。次は十五センチ上、対岸に渡してそのまた十五センチ上……と、あみだくじのようにロープを引っ掛けていった。急造なので、ロープの張りは所々で甘い。


「こんなもん、大した強度にはならねぇぞ」ハルキが指でロープをたわませる。「俺なら二秒で引きちぎる」

「足止めだし二秒もあれば十分だよ。で、これを……」

「ん……ああ、ロック解除に使ってたスタンガンか」


 つまり、敵が一瞬でも引っ掛かった隙に仕留めてしまおうという作戦だ。とはいえあくまで作業用のスタンガン、何秒か痺れさせることはできても殺傷能力と言えるほどの威力はない。そこはハルキの物理力にかかっている。


「んで、もしこの隙間をすり抜けるくらいのヤツだったら?」

「そっ、その場合は……ハルキ。正々堂々拳でどうにかしてください」

「……結局俺なんじゃねぇか。毒とか持ってたら一生恨むから覚えてろよ」


 いよいよ足音が近付いてきた。二人はそれぞれ、戸口の両側に身を隠す。足音を聞いたハルキが無音で口を動かした。


『人間だ』


 レイトは頷いて同意する。自然とスタンガンを握る両手に力がこもった。


 人間であるなら、ロープの隙間をすり抜けてくることはまず有り得ない。でも、二メートルを超える筋骨隆々の大男である可能性は、ある。あるいは二足歩行の、ヒトのような未知の何か、かもしれない。


 足音はレイトのいる方向から聞こえてきていた。それなら戸口に辿り着く前に、まずハルキの視界に入ってくるはずだ。レイトはハルキの顔を見て反応を待つ。


 と、瞬間。外を窺っていたハルキの瞳が驚愕の色に満たされるのが見えた。


 数秒の間をおいて、突然現れた白い小さな手がロープの一本を掴み、強く引っ張る。一瞬遅れて、その先の細い腕をハルキがしっかりと捕まえた。


「ひゃっ⁉」


 腕を掴まれた何かが、小さい悲鳴を上げる。高い声だった。


「レイト、スタンガンは降ろせ。こいつは俺一人で大丈夫だ」


 そうハルキに言われ、レイトは反射的にスタンガンを背後の地面に投げ落とす。ハルキが空いている手でロープの幾本かを乱暴にむしり取り、掴んだ腕を引いて人影を廃墟の中へ引きずり込んだ。地面に転がったそれは、一見すると白い塊にしか見えない。


 レイトは戸口の陰から出て、出口を塞ぐ。


 人影の正体は、一人の少女だった。

 ツインテールの髪も着ているワンピースもむき出しの肌も、何もかもが白い。地面にうずくまったまま、逃げようとするどころか起き上がる気配すら一切感じられなかった。


 人間。地下都市から出てきた自分たちの同胞ではないだろう。だとすれば、地上に住んでいる住民ということになる。


 予想していたのは、怪物みたいな人間だ。文明のない地上にたった一人で放り出されても何故か生きていけるような……でも、彼女は違う。地下都市の女性と比べても明らかに華奢で、着ている服も野性的な生活から生み出されるものではない。まさしく、人間だった。


「ハルキ、ちょっと……いくら知らない相手だからって女の子相手に手加減なしってさぁ」

「なわけねぇだろ! 掴むのも引っ張るのも、全然力なんて入れてねぇって!」

「そうだとしても、まず自分の力量ってのを――」

「ううぅ。痛ったぁあ……」


 ようやく少女が動きだし、二人は口論をやめる。途端にそっぽを向いてしまったハルキを一瞥し、レイトは恐る恐る少女に近付いて声をかけた。


「あ、その、ごめん。そんなに傷つけるつもりはなかったんだけど、あの、大丈夫……?」


 少女は答えない。両手をついてゆっくりと身を起こし、床にぺたりと座り込んだ。俯いたまま、片手で額を抑えている。


「あの、えーっと……」

「ん。誰……?」


 少女が顔を上げる。


 薄桃色の大きな瞳が、レイトをまっすぐ見つめていた。

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