海の深み

「いやー、それにしても背徳感あるよな。こう、真昼間にでっかい道路のど真ん中を歩くのってさ」


 中央線の上を綱渡りのように歩くハルキがそう言って両腕を大きく広げた。左手に、もげたドアノブがまだしっかりと握られている。


「うん、そう……そっ、ハルキそれどうすんの?」


 一度は目を逸らしたものの、気になったものを無視できないレイトの習性はキラリと光る負のトロフィーを看過することができなかった。


 握る力を強弱させれば、多少は握力を鍛えられるのだろうか。いやそもそも、錆びているとはいえ扉からドアノブを引きちぎる握力に、これ以上の進歩は必要なさそうだが。


「ん? ああ、これか? いやー、なーんか捨てるに捨てられなくってさ。握った時のフィット感というか、感触? が癖になっちまって。ほら」


 弧を描いて飛んできたドアノブを、レイトは両手で受け止める。ずっと握られていたせいだろう、妙に生温かった。


「まあ、分からないこともないけど……とりあえず、鞄にでも入れとく? それとも海に放り込んでみる?」

「おっ、海! いいじゃん、やるやる!」


 冗談のつもりだったのだが、レイトの予想に反してハルキはとても乗り気だった。足元の注意もおろそかに、レイトの手からドアノブを取ると軽い足取りで道路の端へ向かう。


「あ、ちょっと危ないってば、ぁ、あっ⁉」


 足を踏み外したのは、ハルキを引き留めようと咄嗟に一歩踏み出したレイトの方だった。


 穴は開いていなかったが、きっとひびが入っていたのだろう。レイトがそこに足を乗せ、体重を移動した瞬間に崩れ落ちたのだ。


 なんとか堪えようと穴の縁に手を掛ければ、そこもボロリと豆腐のように抵抗なく。みるみるうちに穴は連鎖して広がり、レイトの身体がすっぽり通り抜けてしまうほどの大きさになった。


 伸ばした手が宙を掻いて、視界が残像を残す速さで上に逃げていく。


 一瞬だけ目の前が真っ暗になったかと思えば、また開けて、影に満ちる。


 自分の周りにだけ光のフィルターがかかったようだ。薄白にぼやける景色にそんな感想を抱いてから、レイトは身体が中空で静止していることに気がついた。


 何度も瞬きを繰り返しながら、顔を上に向ける。逆光で真っ黒になったハルキの顔と、その手に掴まれた自分の腕が見えた。


 そこまで把握してから、遅れて圧迫感と痛みがやってくる。自分の腕なのに、なんだか俯瞰しているような気分だ。


「……すごく、納得がいかない」

「落ちたかったのかよ」

「そうじゃないけどさ」


 心臓は早鐘を打っているのに、頭はむしろ冷静で。


 ハルキにゆっくりと引き上げられながら下を見れば、やはりどこまでも海一色だった。ただそれは、太陽のもとで見たようなキラキラと光に満ちる海面ではない。

 揺らぐ濃紺はハイウェイを支える何本もの太い柱を呑み込み、咀嚼しているようにも見えた。もしかして海というのは、触れたものをなんでも溶かしてしまう得体のしれない巨大な不定形生物なんじゃないか。そう思ってしまうほどだった。


 真下に、自分の影が光に囲まれて落ちている。あの深みに今にも食べられてしまいそうだ。波に呑まれて消えていく自分を思うと、嫌な悪寒が背筋をぞわりと走り抜ける。


 きっと、今の自分を横から見れば、スポットライトを浴びているように見えるのだろう。上から腕一本で吊り下げられた、ろくに動けない操り人形だ。


 頭が、ハイウェイの上に出る。再び明るい景色が戻って来て、足元の怪物をなおさら引き立てる。


「海って……地下都市みたいだね」


 自力で這い上がりながら、レイトはそう呟いた。そうかね、と実感の湧かない様子のハルキは穴のふちで片膝をついている。まだドアノブは握ったままだ。


「上から見ると光が当たってて、輝く素晴らしいものに見える。下から見ると暗くて不気味で、無闇に近づいてはいけないものに見える。中枢部と郊外の関係っぽいかなって」

「……まあ、少しはそうなのかもな。光と影って辺りとかは特に、郊外は裏側を覗き込んでるようなもんだし」


 穴から一メートルほど離れて、レイトは地面に座り込んだ。今になって、さっき麻痺していた分の恐怖が襲い掛かってきている。全身が脱力して動かなかった。やっと持ち上げた両手は小刻みに震えていて、これでは鉛筆の一本も持てない。


 ああ、今更ながら鞄を落とさずに済んで良かった。落ちる役と引き上げる役が反対になっていなくて、良かった。


「じゃ、俺は作業に戻るぜ。これ、投げ込んでやらねぇとな!」

「え、あ、待ってちょっとまだやるの⁉」


 レイトの制止も無視し、ハルキは再び柵のギリギリまで歩いていく。一歩ごとに膝から崩れ落ちそうになりながら、無理矢理立ち上がったレイトはその後を追う。


 そして当然、ハルキの性格を熟知するレイトが、直前で一時停止なんていう上品な動作を期待するはずもなかった。


「――っらぁ‼」


 太陽光の反射が無ければ、ものの数秒で見失ってしまっていただろう。握りこぶし大の銀色の塊は瞬く間に砂粒のようになって、眼下の海へ落ちていく。


 ハルキには追い付けなかったが、小さな水しぶきが上がる瞬間にはどうにか間に合った。二分の一秒ほどの間を開けて、レイトの耳になんとも形容しがたい『ドゥッポォン……』という音が届く。やっていることはほぼ同じでも、池に小石を放り込むのとはまるで音色が違った。


 やはり、海の底というのは相当深いところにあるらしい。もしいつか、必要に迫られて自分たちも海に飛び込むことになったら……安全性については、どうしても気になってしまう部分だ。波も無い淡水のため池では二人とも泳げていたが、液体であるということ以外の条件が違いすぎる。おそらくハルキでも足がつかないだろうし、これだけ広ければ泳げたところで体力の問題になってくるだろうし、地上に生息する魚の種類も定かではないし……。


 海面に広がっていく同心円を眺めながら微動だにしないレイト。ズブズブと思考の泥に潜り込んだ意識を、ハルキの大声が引き戻した。見ると、左の手のひらの匂いをしきりに嗅いでは顔をしかめている。


「うっわぁ、臭っせ‼ うっわ!」

「あー、メッキ剥がれてたんだねぇ……」


 ほんの数秒しか触れていなかったはずなのに、レイトの手のひらからもうっすらと金属の臭いがした。この程度なら、廃墟エリアに辿り着く頃には消えているだろうが……そうでなかった場合、臭い消しの方法を考えておくべきかもしれない。


「あ、そういえば。石鹸持ってくるの忘れたな」

「俺も風呂持ってくるの忘れた」

「え、いや、ハルキのお風呂ってさ……あの拾って来た培養槽のことでしょ……?」

「風呂は風呂だよ、なんだっていいだろ」


 ハルキがやや食い気味に反論し、レイトに顔を寄せる。

 このままでは不毛な論争が始まりかねない。危機を察知したレイトは、ほらほら行くよ、と強引にハルキの背を押した。


 今度は、足元が突然抜けてもすぐ手が伸ばせるように。時折互いに視線を送りながら、つかず離れずの距離を保って歩く。

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