放棄世界のフロントランナー

秋月 菊花

プロローグ

『人類の皆さん』

『宙間航行船、出発時刻まで残り一時間です』

『ご搭乗の際は慌てずに』

『お忘れ物のないようにご注意ください』


 分厚い鉄製の扉の向こうから、かすかに機械音声が聞こえた。ヘッドホンを外し、パソコンの画面から視線を逸らしたレイトは壁面に投影されたデジタル時計を見る。


 午前十一時三十一分四十二秒。


 都市への電気の安定供給はまだ続いているようだ。それが一時間後にプッツリ切れるのか、それとも一週間くらいかけて徐々に予備電力を使い切るのか、詳しいことは何も聞かされていないが。


 お偉い方のおわすあの煌びやかな中枢部も、レイトの住むこの寂れた郊外も、例外なく。今日だけはこの街の全てが、宇宙へ飛び立つ船の出発ロビーだ。


 キーボードの隙間を指でなぞり、大きく息を吐いてパソコンの電源を落とす。途端、真っ黒になった画面に自分の顔がぼんやりと反射した。


 立つ鳥跡を濁さずの思いで始めた、連日の情報処理作業で疲れ切った表情……とは言っても、茶色の塊を乗せた白い円に緑の点が二つ浮かぶだけ。男であることすら判然としないこの解像度では、冠詞に『おそらく』を付けざるを得ない。


 ネジの足りない椅子から腰を上げ、重たい扉を押し開ける。吸い込んだ空気はいつも通りコンクリートの匂いがして、巨大エンジンの排気のせいか妙に生暖かい。


 先程の無機質な声が、今度ははっきりと頭上から降り注いできた。つられて視線を上げる。巨大な真空砲を備えた銀色の流線形、ヒーロー志望の少年が狂喜乱舞しそうなフォルムの宇宙船が、乱立する灰色の構造物の奥で無数のサーチライトを浴びて輝いていた。


 先の戦争で地上のほとんどが汚染されてから四百年余り。現在人間が住む三つの地下都市はいずれも、偽天球ぎてんきゅうと呼ばれる半球状のドームで覆われている。都市管理機能の多くを担っているだけでなく、地上から見られる『空』を連動して映し出すことのできる高度科学の結晶だ。

 なんでも、宇宙から飛来する電磁波や宇宙線すら再現されているらしい。本来は地上の種である人間や動植物に与える影響を維持するためだと、小難しい話を小学校で聞かされた。


 そんな偽天球に広がる青空が、強い光に照らされた宇宙船の上空部分だけ薄灰色になっている。レイトが頭上三百メートルの高さにあるそれの真の姿を見たのは、十六年の人生の中で初めてだった。


「……なるほど、この放送はあそこから聞こえてきてたんだ。道理でどこにいても同じ音量だと思った」


 障害物を無視してまっすぐ歩けば、三十分足らずで直径を横断できてしまう地下都市。なるべく多くの人々を生活させるため、その空間はひしめき合う建物と空中を走る幾本もの道路でひどく複雑だ。


 そんな地下空間に効率よく情報を届けるため、偽天球にはスピーカーケーブルが張り巡らされている……とは聞いていたが。しかし実際に目に映った黒い網目模様は、説明された高度文明のイメージとは程遠い。


 まるで引っかき傷のようだ、とレイトは思った。



 扉の鍵を閉め、歩いて数分の裏通りへと向かう。普段であれば違法な賭博者やら中毒者やらが詰まっているが、今はすっかり閑散としてしまっていた。怒声の一つ、コインの音一つ聞こえてこない。


 そこにはたった一人だけ、道端の瓦礫に腰掛けた人物がいた。


 歳は二十代であるらしいが、本人も正確には覚えていないという。暗がりでも艶めく金色の髪は襟足だけが長く、コンピューターグラフィックスのように端正な横顔は東洋系の血を色濃く引いているとはとても思えない。その中性的な顔立ちには、可愛い、格好いい、というよりも美人という表現が真に相応しいだろう。


 近付く足音に気づいたのか、切れ長の青い目がレイトの方を向いた。組まれていた足がほどかれ、立ち上がった身体の正面が見える。


 オフショルダーのロングニットに黒タイツ、膝下丈のブーツには七センチのピンヒール。素の身長が百八十三センチもあるくせに何故そこから更に伸ばそうとするのか、レイトにはそれがどうしても理解できない。

 とはいえ、日々の九割をパーカーと長ズボンで生活している自分におしゃれ意識などと説かれたところで、馬の耳に念仏もいいところなのだが。


 約一メートルの距離まで近付いたところで、レイトの鼻を独特の匂いがくすぐった。見ると、細く長い指に挟まれた紙巻きタバコからゆらゆらと煙が立ち上っている。


「あれハルキ、いつもの電子タバコじゃないんだ? それ高いヤツじゃん」

「ここ二年くらい面倒見てたヤツが、世話んなった礼にってくれたんだよ。それもカートンでだぜ? 人助けもしてみるもんだよな」

「その人って、いつものみんなとは別の?」

「ああ、まぁでも今頃は、宇宙船の中であいつらとも仲良くやってるだろうさ」


 ふうん、と曖昧な返事をしながらレイトは近くのドアに手を伸ばした。

 果たして他人から大金を脅し取るのも人助けと言えるのだろうか、などと考えながらドアノブをひねり、引っ張る。

 ドアはすんなりと開いた。治安に見合わず、ちゃんと整備されていたらしい。


「あと一時間……だってよ」


 タバコの火を踏み消しながら、ハルキが声をかける。振り返らずに足を止め、レイトは軽く頷いた。


「ん。聞こえてた」

「心変わりは? 今ならまだ間に合うぜ?」

「勘弁してよ。あんなのについて行くなんて冗談じゃない……ハルキだって知ってるはずでしょ?」

「ああ。おまえの両親を誅殺した犯人が、取り仕切ってんだもんな」


 そうだよ、と僅かに俯いて。戸口付近の壁をまさぐり、つるりとした感触の板を探し当てて押し込む。カチリと音がして、真っ暗だった室内が暖色系のライトに照らされた。

 ほこり一つ落ちていないモザイクタイルの床、ワックスで綺麗に磨かれたバーカウンター、ガラス製の安価なシャンデリアがぶらさがる天井……。


「っはー、綺麗なもんだ。初めて来る店みたいだな」


 レイトの肩越しにハルキが感嘆の息を漏らす。


「マスター、この店とは三十年以上の付き合いだって言ってたもんね。なんか使わせてもらうのもったいないなぁ」


 いつも賭博成金が占拠しているソファーの席が、今日は空いていた。そちらにちらちらと視線を送るレイトの手をハルキが引き、半ば強引に座らせる。


「いっつも座りたそうにしてたもんな。どうです旦那様? 男なら誰しも望まずにはいられない、憧れの座り心地ってやつは?」

「んー……ダメ。感触はいいんだけど、慣れてないとやっぱ落ち着かないや」


 貧乏人の性だよな、とハルキが肩を揺らして笑った。

 苦笑したレイトは店の中央に置いてある木製の丸テーブルに近付き、逆さまに乗せられていた椅子を下ろす。摩耗した木材の硬く滑らかな感触が、不思議と心地よく感じた。


「ハルキはあの席、座ったことあるんだっけ」


 四つの椅子を全て降ろし、レイトはバーカウンター向かいの定位置に座る。遅れてハルキも正面の椅子を跨ぐように腰を下ろした。


「五回くらいな。これでも勝負運は強い方でね」

「負ける時は決まって全部持ってかれるくせに」

「そ。だから貯まんねぇの」


 数枚の白い紙が机の上に広げられる。ハルキが少し思案するようにしたあと、バーカウンターの所まで行って上に身を乗り出した。何やらガチャガチャと裏側を漁り、やがて数本のペンを手に戻ってくる。


「さて。そんじゃあ、作戦会議といきましょうや」


 ハルキがペンを投げ渡してニヤリと笑う。レイトはキャップを外し、『持ち物』『ルート』『作戦』というタイトルを紙に書き殴った。

 


 地下に埋蔵される化石燃料が枯渇し、更なる繁栄を求めた人類が宇宙へ旅立つ決意をしたのが約一年半前。あと三十分もすればその計画は完遂され、あの巨大な宇宙船がレイトとハルキを除くこの地下都市の住民全てを乗せて飛び立つ。

 もちろん、宇宙船が発った後の地下都市には住めたものじゃないだろう。電気も水も、食料だって継続的に入手する術を二人は知らないのだから。


 したがって、二人もこの地下都市から脱出する計画を立てていた。ただし、その行き先は地上。遠い過去に人類が見限ったかつての楽園に、次なる新天地を求めたのである。



「あ? レイトおまえ、パソコン持ってかねぇの?」


 レイトが書き上げた持ち物の紙を、ハルキが目の前でひらひらと振った。


「地上に電気があるとは思えないしね」そう答えて、レイトはハルキの分を自分の正面まで持ってくる。「ハルキこそ、さすがにタバコとライターだけってことはないでしょ」

「じゃー、他に何持ってけってんだよ」

「えーそう言われると……サバイバルなら、ナイフとか?」

「あー、ナイフ……ナイフ……どっかに確か、あったような……?」


 ハルキは腕組みをして斜め上に視線を向けている。まあ思いだしといてよ、とレイトはこっそり自分の紙を奪い返した。


「で、ルートだけど……地上の様子、何か分かってたっけ」

「操車場のジジイから多少の情報は拾って来た」


 ハルキが新しい紙に円を四つと矢印を一本、串団子を作るように描く。次いで矢印の根元に黒丸を付け、『現在地』と書き加えた。


「とりあえず、ざっくりと四つのエリアに分かれてるらしいんだよな」


 ハルキの持つペン先が、黒丸に近い方から順に円の中を指し示す。


「一番手前が廃墟エリア、で次が自然エリア、汚染エリアと……最終エリア」

「最終ってどんなエリア?」

「なんか、四百年前に機械がやってた戦争がまだ終わってないんだと」

「戦争か……背負ってる国旗はもうどこにも無いのにね」


 核戦争。地下都市付近の大気における放射能の濃度は、百年ほど前に人体に害のない程度まで下がった、と歴史書にはあったが……より中心に近い汚染エリアでは、きっと現在でも有害なレベルの放射能が渦巻いている、ということなのだろう。


「それで、この矢印は……もしかしてハルキ、その戦争の中心地に行くルートなのこれ?」

「おう。だって地上に住むってったら、まずこの戦争を何とかしなきゃだろ?」

「いやいやいや!」


 レイトは目を丸くして首を左右に激しく振った。


 いつでも自分の欲望や正義を貫き通し、コストやリスクは完全なる度外視。ハルキはいつもこのような考え方をする。


 確かにハルキは、間違ったことを言っていない。今でも汚染を垂れ流している無意味な機械仕掛けの戦争、それを終結させないことにはいくら開拓したところで地上に真の理想郷は訪れないだろう。

 しかしこちらはたった二人なのだ。地上に数万人規模の軍隊が集結しているならまだしも、二人きりでそんなことできる訳がない。そう思っての否定だった。


「廃墟、自然エリアまではいいけど……そこから先は、さすがに無策で突っ込む訳には……」

「行ってみりゃ案外何とかなるだろ。てかさ」ハルキがまた紙を一枚上に乗せる。「そのための『作戦』じゃねーの?」


 確かにその通りだ。レイトは自分で書いたタイトルの文字を一瞥して大人しく首肯する。


「そうだね、作戦……んー、汚染エリアに関しては、防護服の類があれば何とかなると思うけど」

「へー、そんなもんあんの?」

「現地調達だと、経年劣化もあるし正直あんまり期待できないと思う。地下都市の区域内ならまあ……ありそうな場所には幾つか心当たりが……」


 発電所や処理場であれば、あるいは。ただ一つ問題があるとすれば、その施設に入るための権限が二人には無いことだろうか。


 人がいなくなっても、警備・防衛機構は予備電力が尽きるまで自立稼働を続ける。たとえそこにあったとしても、二人が出発するまでに取りに行くことは現実的ではなさそうだ。


「現地に近付いてから……他の地下都市跡を狙う? ことは、できるかな」

「おっ殴り込み? 強奪? いいぜ、得意分野だ!」


 立ち上がったハルキの目が、キラキラと輝いて眩しい。どうどう、とレイトはハルキの肩に手をかけて椅子に座らせる。


「今じゃないから! ……うん、だから問題は最終エリアだね……」

「問題って。戦争止めるだけじゃねぇか」

「止めるだけって、いや、さぁ……」


 戦争が始まったのは少なくとも四百年前。それ以降人の管理がほとんどなかったことを踏まえれば、機械の劣化くらいは考慮するべきだろう。とはいえ元々は兵器、サイズも破壊力も桁違いの代物だ。多少出力が落ちたところで脅威であることに変わりはない。


 それを止めるとなれば……。


 レイトは俯き、机の一点を見詰めて思案する。


「……スイッチみたいなものが、ひょっとしたらあるかも」

「忍び寄って、バチンとオフ?」

「永久機関の可能性も高いけどね。少なくとも、二人で全部壊して回るよりは望みがあると思う」


 ほーう、と何とも言えない返事をしてハルキは頬杖をついた。細かいことは分からんから任せた、と焦点の合わない目が語っている。


 持ち物、ルート、そして作戦。とりあえず現段階で決められるのはここまでだ。


 レイトはハルキの背中越しにカウンター内の壁を見る。レイトの家にあるものと同タイプかつ大型のデジタル時計があった。投影型の良い所は、どんなに壁が汚れても読めなくなることはない、という点だろう。


「ハルキ」声に反応して、相変わらずそっぽを向いたままの横顔から視線だけがレイトの方を向く。「一旦、外、出ようか」

「ああ……」


 レイトの視線を追い、ハルキも振り返って時計を見た。どちらからともなく視線を合わせ、無言のまま同時に立ち上がる。


 ハルキが扉を押し開いた途端、生温く激しい風が吹き込んできた。暴れ出した紙が空中を舞い、ペンが乾いた音と共に床の上を跳ねる。思わず息を止めてしまう程に硫黄臭い排ガスの匂いは、燃料である石炭や石油が低品質あるいは未精製であることを示していた。本当に隅の隅までかき集めた、最後のものなのだろう。


「ほら、見ろよ」


 表に出たハルキが扉を押さえたまま目を細めて空を仰ぐ。レイトも戸口から首を出し、それに倣う。


 徐々に輪郭を曖昧にしていく巨大な影。二人はただ押し黙り、上空に消えていく文明を見送った。


「……一時間って、思ったより早いよな」

「うん。……こんな時は、特にね」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る