第六話 汀とお義母さん

 十二月の日差しは深く、昼間でもていの机の端にまで届いた。陽光の滞ったその一画には、庭の片隅の花壇のようなささやかな幸せに満ちている。

 教室は南側の全面が窓だった。なにも珍しいことではないが、改めて見ると圧倒的だ。青空をバックにした窓際の生徒はみんな心地よさそうで、陽光許容量の低そうな向井さんなどは融けてしまいそうだ。汀の住んでいる場所も広さならば教室にも負けないが、残念ながら薄暗くて埃っぽい。


 試験最終日、帰りのホームルーム。クラスメートはみんな気もそぞろだ。先生の話が終われば、部活へ遊びへと四散する。

「汀ちゃん。一緒に帰ろ?」

 ホームルームが終わると有野さんが声をかけてきた。

「ごめん、今日お母さんと約束があるんだ」

「えー、汀ちゃんなんか嬉しそう」

 汀は笑顔で断り、そそくさと教室をあとにした。

 校庭を抜け、学校を出ると汀は電話をかけた。呼び出し音を聞きながら住宅街を歩く。生垣の山茶花さざんかが赤い花をつけていた。


 もしもし……もしもし、和美かずみさん? あ、運転中でした?

 はい。いま終わりました。

 いちごーはちってなんですか? あ、あの……、スーパーのある通りですよね。

 はい、分かります。はい。


 汀は住宅地を抜ける。環状線の建設予定地には潅木かんぼくが排気ガスにまみれた葉を繁らせ、まばらに冬木立ふゆこだちが伸びた。大通りに出るとすぐに黄色い看板のファミレスが現れる。汀がファミレスの駐車場へと足を踏み入れると、後ろからクラクションを鳴らされた。振り向くと臙脂えんじ色の軽自動車から和美さんが手を振っていた。そのまま空いている駐車スペースに車を停めると、スーツ姿の和美さんは笑顔で汀のもとへ駆け寄ってきて抱きしめてくれた。

「汀ちゃん、久しぶりだね」

「えー、四日くらいなもんですよ」

 和美さんは快活で人懐っこい。お母さんと呼ぶには抵抗があるが、まるで友達のように接してくれた。至はそんな和美さんのことを無責任だと形容したが、汀にしてみれば気が楽だった。


 試験の前、和美さんが彼女のなじみのケーキ屋に連れて行ってくれた。その時和美さんはお店の人に「娘です」なんて人を食ったような態度で紹介してくれたのだ。ケーキ屋さんも「またまたー」などといいながら、内心は和美さんならありえないことではないとでも思ったのか、和美さんと汀の顔を交互に見比べていて、その様子がおかしかった。


 もしも和美さんが汀の家系によく見られるような硬直的な性格であったなら、「娘です」なんて言葉はもっとずっと重く感じられることだろう。義母を指して「お母さん――」なんて口にするにもそれなりの覚悟を要求されるだろう。お母さんと約束があるんだ――なんて、冗談半分に言葉にするのが精一杯だ。もっとも、友達は汀の事情など知らないのだから、それこそ汀の覚悟の問題なのだが。


「これすごくない? ズワイガニのスパゲッティだって」

「へえ、冬の味覚ですね」

「わたしこれにする。汀ちゃんは?」

 汀はシーフードドリアを指差した。

「汀ちゃん、あっさりしたものが好きだね。育ち盛りなんだから遠慮せずにしっかり食べなさいよ」

「じゃあ、ポテト頼んでもいいですか?」

「いいわよ」

「わたし、家では結構食べてますよ。から揚げとか毎日食べてますよ」

「あー、そうね。至に付き合わされてるのね」


 から揚げは至さんの好物だ。和美さんとの関係はまだそれほど深いものではないが、至さんの好みを経由して絆を感じ取ることが出来る。

 和美さんはパンツスーツ、インナーにはタートルネックのカットソーという具合にカジュアルに着こなしている。年齢は秘密だというが、彼女は高校二年生の時に至さんを出産している。逆算すれば三十七歳となるので、汀の母親としてもまだ若い。しかも話をしてみれば、もともとこんな性格なのか、それとも若くして子育てを終えた開放感がそうさせているのか、もっとずっと若く感じられた。

 制服姿の汀とファミレスに居て、果たして周りからはどう見えているのだろうか。そう考えると、不安に少しのいたずら心が混じる。

「汀ちゃん、テストどうだったの?」

「友達にノート見せてもらったし、ばっちりでしたよ」

「へえ、ちゃんと勉強したんだ」

「ええ? わたしってそんなふうに見えますか?」

「うふふ、そうじゃないけど。至が勉強してるところなんて見たことなかったからさ」

「一緒にしないでください」

「それに汀ちゃん、転校して来たばっかりだし、色々とばたばたしてたし、言い訳も立つでしょ?」

「言い訳ばっかするのも至さんです」

 汀が冗談めかして言うと、和美さんは笑った。

「汀ちゃん、至の面倒みるの大変だったら、うち来る? その方がゆかりも安心するよ。高校からでもいいしさ」


 和美さんと会う前は、至さんの母親と暮らすなんて考えは浮かばなかった。今なら和美さんに対する警戒心もやわらいでいたが、血のつながりの無い大人や、他の家に嫁いだ叔母さんに迷惑をかけたいとは思わない。


「養子に、ということですか?」

「そこまで言っちゃうと私だけで決めていい話だとは思えないけどさ。ほら、お風呂目当てだっていいし。シャワーだけとか味気ないでしょ?」

「和美さん、今おつきあいしているという方は?」

「別に一緒に住んでるわけじゃないし、結婚だって考えてないわよ。今のところはね。――汀ちゃん、子供なんて遠慮せず、大人に迷惑かければいいのよ。わたしだって、至を生むときにね、絶対一人で育ててやるんだなんて意気込んでたけど……、まあ無理よね。はっきり言って私の両親に甘えっぱなし。その時にね、自分勝手だけど、そう考えるようにしたの。子供は大人に迷惑をかけていいんだって。つまり、私も未成年で至も赤ん坊だったわけ。むちゃくちゃなこと言ってたなって思うけどね、でも懺悔ざんげでも贖罪しょくざいでもなくてさ、子供に頼られたり、甘えられたりするのって意外といいものなのよ」


 迷惑をかけたくないという気持ちは確かに遠慮なのかも知れない。しかしそれよりも、自分の育つ環境は自分で作りたいという思いが強かった。自分で自分の責任を持てば、後々になって親や親代わりになってくれた誰かを責める気にはならないはずだ。

「和美さん、じゃあお料理教えてください」

「あー、それはむりだあ……」

「ええっ!」

「それは無理だよ、汀ちゃん。ゆかりに頼みなさい」


 なるほど、和美さんは料理なんかしたこと無いのかもしれない。夜に酔っ払って電話してきたりと、食生活にもあまり気を使っていない様子が端々に感じられるのだった。至さんと和美さん、第一印象は全く似てない親子だったが、話しているうちに少しずつ重なる部分が見えてくる。

「そういえば……、和美さんって、ゆかりさんとは以前からお知り合いだったんですか?」

「親友だったのよ……。至が生まれるまで」

 まあ……。

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