第二話 至パースペクティブ

 人はていのような子を指してよく出来た子だと言うのだろう。至は口にこそ出さなかったが、汀との付き合いが深くなるにつれ強くそう思うようになった。至自身は折り目正しい優等生を尊敬するような性分ではなかったが、そんな優等生がガレージでの生活という不条理を恨み言も言わずに受け入れたことに対しては敬意を抱いた。


 汀のためのロフトは、隣のガレージを使用しているヒデさんの協力を得て単管足場で組まれた。至のロフトからは離れた位置で、カーテンは黄色。その下は新品の勉強机が運び込まれ、新品の洋服ダンスも、新品の本棚も、汀の持ち込んだ物はすべて四畳くらいの空間に納まった。そもそも家具以外にはダンボール一つ分の荷物しかなかった。実に楽な引越しだった。


 至は買い物から戻ると、買って来た惣菜を冷蔵庫に入れた。ペットボトルのコーラと、頼まれていた紙パックの麦茶を持ってガレージの真ん中のコタツ机に席を取る。すると寝室であるロフトを整えていた汀が梯子はしごを降りてくる。

 汀はテーブルの上の麦茶を見ると、少し考えてからコップを取りに行った。

「そのまま飲めばいいよ」

 汀は至の言葉には耳を貸さず、コップをもって正座して至の向かいに座った。

「そんなに堅苦しくしなくても……」

 至が面倒くさそうな顔をすると、汀は譲歩して足を崩した。

「本棚やタンスなんか、別にロフトの下に収める必要なんて無いんだよ。広いんだから端っこならどこに置いたっていいんだよ。遠慮しないでさ」

 至はペットボトルのコーラを飲みながら言う。汀はコップに麦茶を注いで一口飲んだ。

「遠慮ではありません。公共のスペースと私的なスペースとでけじめをつけることが大切なのです」


 至が汀のことを母に話すと、母はそのことを予想以上に深刻に受け取った。中学二年生というとまだ教育が必要な年齢だ。それだけの覚悟があるのか――と、とがめられた。至の母は高校生の時に至を出産し、子育てもほとんど祖父母に任せていたような人だ。母が教育というものに重きを置いている人だとは至は思っていなかった。


「至さんも、自分の荷物はちゃんと片付けるべきです。部屋を散らかしておいた方が落ち着く人も居るということは知っています。しかし、共同生活をする以上は居間として扱うスペースを設けてけじめをつけるべきです」


 いい加減な人だと思っていた母にまで咎められ、至は思慮の浅さを恥じたが、蓋を開けてみれば汀は至なんかよりもずっとしっかりしていたというわけだ。


「そうは言うけどさ、倉庫で暮らしているようなものなんだし、何もそこまでしなくても……」

「至さん、いま遠慮するなとおっしゃいましたよね」汀はあまり表情を変えずに、ずけずけと物を言った。「この机は食卓ですよね。それで……、床にガムテープを貼ってもよろしいですか?」

「なんの為に?」

「居間を作ります。八畳ぐらいでどうですか?」

 汀は立ち上がって見回すと、人差し指で空中をなぞった。汀は灰色のパーカーに下は黄色のパジャマという格好だった。恐らくスカートしか持っていないのだ。ロフトの梯子の上り下りにスカートは煩わしい。髪は相変わらずの二つ結いで、やっぱり無表情だった。

「迷惑ですか?」黙っている至を見て不安に思ったのかも知れない。

「いや、好きにしていいよ。こういうの楽しいの?」至がそうたずねると汀は少しだけ表情を緩めた。

「はい、わりと……」

 汀はガムテープを用意してペタペタと床に貼り始める。ガムテープが足りなくなることを恐れたのか、あるいは美意識なのか、汀は破線で居間を作っていった。それは至に体育館のバスケットボールコートを思い出させた。ガレージというのは体育館の造りと大して変わりない。


 汀が居間を作っていると炊飯器がビープ音を鳴らす。至は先ほど買って来た惣菜をテーブルに並べてご飯の用意を始めた。

「そういえば、アンドロイドさんはどうしているのですか?」

 びりびり、びりびり、とガムテープを貼る作業を続けながら汀がたずねた。

「ああ、忘れてた。今日は邪魔になるからと思って閉じ込めてあるんだ」

 至は机に惣菜を並べてからコンピューターの棚まで行くと、伏せてあるダンボールを開けた。するとナースチェンカが這い出てくる。頭部の外殻はフランス人形そのままだが目はカメラになっている。ちゃんとブルネットの髪の毛が生えていて、赤いベルベットのボンネットは脱げないように必要以上にきつく縛られている。ところがドレスは纏っておらず、グレーのティーシャツに、下はペチコートパンツ、それと靴を履いていた。露出している部分は白いプラスチックで、手首は球体、指は間接ごとに節だらけだった。

 汀はあまり驚かなかったようだが薄暗く鬱々としたガレージで見るとなかなか不気味で、ぼろぼろの衣装と生気の失われた目で徘徊する姿はまるで若くして処刑された皇女のいた人形だ。


「シャッターを開け放しておくと勝手に外に出て行ってしまったりするんですか?」

「そうだけどあまり遠くへは行けない。あのパソコンで制御しているんだ。電波が届かなくなったら停止するよ」

 至は自分の分だけご飯をよそって、一人だけ先に惣菜のから揚げを食べ始めた。すると汀はガムテープの手を止めて至をじっとみる。

「終わったら食べにおいでよ。から揚げと刺身とてんぷら……」汀の表情は少し不満そうにも見える。「汀の好きなものとか知らないからあれだけど、今日は我慢して」

 それでも汀は何も言わずにガムテープの作業に戻った。至は少し首を傾げるが食事に戻った。ナースチェンカは仰向けになったまま足で床をかいて食卓の方へと向かってくる。


「ここで料理はしないんですか?」汀は作業を終え、シンクで手を洗うと自分の分のご飯をよそい、食卓につく。

「しないね。面倒だし、出来ないし」

 汀は丁寧に手を合わせてはっきりと、いただきますと言った。そして箸でてんぷらをとり、食事をしながら至に尋ねる。

「まだいくつか質問があります」

「なに?」

「え……。ええと……」汀は、刺身を食べながらコーラを飲む至にぎょっとして出鼻をくじかれた。「まず……。至さん、至さんが料理しないのは分かったんですが、やろうと思えばここで出来るんですか?」

「なんとかしよう。ガスコンロか、IHか、どっちがいい?」

「どちらでもやりやすい方で結構です」

「ガスは無いので電気の方が楽かな」

「ありがとうございます。それと、シャワーを浴びるとき、どこで服を脱ぐのでしょうか」

 ガレージのシャワーユニットは半畳ほどしかない。もちろん湯船なんて物もない。

「考えてなかった。カーテンで更衣室を作ろう。あと、湯に浸かりたかったら近くに銭湯があるんだ」

 仰向けで徘徊しているナースチェンカが汀のすぐ近くに寄ってくる。

「ロフトの件で、わたしからもヒデさんにちゃんとお礼を言いたいのですが、いつお見えになりますか?」

「土日か、あるいは平日でも仕事が終わってから寄ることがある。ヒデさんの車が来たら音ですぐに分かるよ」

「もう一つ、至さんはどうしてお仕事に行かれないのですか?」

「働いていないから」

「まあ!」汀は箸を止め、驚いて大きな声を上げる。テーブルの下へともぐりこんだナースチェンカも動きを止めた。「嘘をついたのですか?」

 至は汀が驚いたことに驚いて箸をとめた。

「嘘? いや、あの時は本当に働いていたんだよ。その後に辞めたんだ」

「どうしてそんな重要なことを黙っていたんですか?」

「重要なことだとは思っていなかったからだよ。だって、汀の生活費はゆかりさんが管理しててくれるんだろ? それにここは広いけど家賃は安いんだ。心配要らないよ」

「そういう問題ではありません。わたしの生活費とか、ここの家賃とかそういう話ではありません。至さんは自分のことを優先するべきです。求職中ならばそれでやることがあるのでしょう?」

「だって、求職してるわけでもないんだもん。おれは、しばらくはここでパソコンをいじって暮らすつもりなんだよ。――いいよ、説明するよ。あそこに大げさなパソコンがあるでしょ。おれはね、あそこで日々、人口知能を作ってるんだよ」

「ナンシーさんのことですね?」テーブルの下のナースチェンカは名前を間違えられたことを抗議するように汀の膝に頭突きを繰り返した。

「ナンシー……、うん。ナンシーだけど、おれは高校生の頃から取り組んでいるんだ。だけど、高校生に出来ることなんて限界があって、ずっとフラストレーションを抱えていたんだ。もう少し具体的に言うと、知能が学習するためには――それが例えばお絵描きAIみたいな情報の処理に限った技能であっても、物理的な空間に身をおくことが大切で……」

「具体的な話は結構です」

「……それで、卒業してから働いて、人工知能を作るためにここを借りて、ここに暮らしているというわけ」

「ええと……。それはキャリアのためということでしょうか」

「んー、趣味だな。ともすれば結果的にキャリアになるってこともあるかもしれないけど、そんなつもりではやってないよ。


 今の人工知能の研究っていうのは、人間が身に着けた技術をコンピューターの中で再現しようというのが主流なのね。たしかにディープラーニングという機械学習手法がブレークスルーとなったのは事実だけど、近いうちにそれも壁にぶち当たると……」


「待ってください。――待ってください、仕事を辞めた理由がまったく分からないのですが、もしかして……、パソコンをいじっていた方が楽しいからとか、そんな理由だったりするのでしょうか?」

「まあ、有りていに言えば」

 汀は呆れたようにため息をついた。至は気にせずに食事を再開した。

「てっきり仕事に使うのかと思っていたのですが……、あのパソコンも結構な額するんでしょうね。だって、十何台ありますよね。そう、さっき気になったのですが、ナンシーさんが動いている間はパソコンの電源も入りっぱなしということなんでしょう。電気代も相当かかりそうですし……」

「今はパソコン一台分しか動かしてないよ」

「こんなとこ、窓も一つしかなくて不健康で埃っぽくてお風呂もなくて、ちゃんと片付ければアパートでだってこと足りそうなものなのに……」

「そんなに電気使わせてもらえないんだよ」

 汀は自分でしゃべりながらだんだん興奮してきたようで語気が強くなっていった。

「だからってここに住まなくたって。仕事やめずに通えばいいんですよ、ヒデさんみたいに。趣味とはそういうものでしょう。だいたい料理しないにしても定食屋さんに行けば魚だって野菜だって食べられるのに、こんな不健康な食生活……」

 話題が食事に触れたところで汀は我に返った。ナースチェンカはテーブルの下で汀の膝に頭突きを続けている。

「すいません、食事を用意して頂いた身で失礼なことを言いました」

 至は笑って聞いていた。母も祖母もだいたい同じようなことを言うので慣れっこだった。むしろ汀が取り乱してくれたことは、至の気を楽にしてくれた。居候いそうろうの身で文句は申しません、なんて顔を見ながら暮らしたくはない。


 汀も気持ちを落ち着けて食事に戻った。

「至さん、高校はちゃんと通っていたんですか?」

「いや、休みがちだった」

「至さんって、いわゆるオタクの引きこもりですよね」

 汀がそう言うと、テーブルの下で汀の膝に頭突きを繰り返していたナースチェンカが動きを止めた。

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