くちなしの姫君と銀白の龍その十二

それから、十日に一度の逢瀬となった。逢えない時間が想いを募らせ、初夏の緑のように生い茂らせる。


ある夜、朱殷は龍の姿のまま、姫君を乗せて夜空を飛んだ。満天の星が二人を迎える。


「やはりすごいわ……星はどれだけあるのかしら? 数えきれないわね」


姫君が声を弾ませる。朱殷は角を握る姫君の手の感触に胸をくすぐられながら、空高く翔け上がった。どこまで飛んでも星は無限にまたたき、姫君は偶然の流れ星にはしゃいだ。


「手を伸ばせば届きそうね……ねえ、朱殷……」


姫君が朱殷へ語りかけようとする。そのとき、姫君を唐突な吐き気が襲った。角を強く掴み、うずくまる。


「……清? どうかしたのか?」


「……少し……酔ったのかしら……何でもないわ……」


「それはよくない……屋敷に戻って休もう」


「いいえ、このまま……風にあたっていれば治まるわ」


「しかし……」


「あなたと屋敷から離れていたいの……屋敷には皆、裳着と入内の準備で……嫌な思いが染みついているわ……」


「清……」


言いかけて、姫君がまたえづきそうになる。前に飛んだときは、このようなことはなかった。朱殷の脳裡にひらめくものがある。


「清……まさか、私の子を……」


「……え……?」


言われて、姫君は初めて月のものが来ていないことの真実を察した。


──朱殷と私の子。


それは凄まじい衝撃だった。本当ならば入内どころではない。かといって、愛するものとの子だ。


どうしたらいいのか。姫君は内心で烈しく惑乱した。産みたい。許されない。それでも産みたい。この懐妊が屋敷のものに知れたら、自分はどうなる?


「……屋敷に戻ろう。身を休めなくては」


朱殷は姫君を取り巻く環境を正しく理解していない。だから、嵐に見舞われた姫君の心の機微にも気づいていない。


姫君の返事を待たずに、朱殷は屋敷へと降りていった。血の気が失せた姫君を横抱きにして臥所に寝かせようとする。


「待って、朱殷……離さないで……」


姫君が必死にすがりつく。朱殷は目を見張ったが、すぐに優しく笑んで姫君の背をさすった。


「朱殷……このことが入内の支度をしている父や母に知られたら……どうしたら……」


取り乱す姫君を抱き包み、朱殷は言い聞かせた。


「……清……天界のものの子は腹が大きくはならぬ……人のように十月十日で産まれることもない。生命と意思の力を糧に育つ。だから……隠したければ隠せる」


「……誰にも知られずに産むことはできるの……?」


「意思の力が強ければ可能だ。清には契りの加護もある。鱗も護りになるだろう。……出産には夜、私が立ち会おう。周囲のもの達を眠らせて」


「……朱殷……朱殷、私……」


「どうした? まだ心懸りがあるのなら……」


朱殷が慈愛をもって気遣わしげに姫君の顔を見つめる。思い詰めた姫君の表情と噛み合った。姫君は声を震わせながら告げた。


「私……入内の日取りが決まったの……」


その場の空気が凍りついた。




***



次の夜、姫君は早々に寝所に入り一人思い悩んでいた。


入内を告げた後、朱殷は無言になり、気まずい別れとなった。


告げるべきではなかったのだろうか。しかし、いつかは告げなければならない。避けられない道なのだ。


姫君とて、後宮に上がるのは苦悶の一言に尽きる。朱殷以外の──帝からの寵愛を受けるということは、抱かれなくてはならない、親しく言葉を交わし、更なる寵愛を他の女御更衣と奪いあうということだ。権勢をふるって、偽りの愛を演じる。


朱殷との愛を知ってしまった今、それは耐えがたいことにしか思えなかった。入内する身でありながら朱殷と通じてしまった罪で業火に焼かれる方がましだった。


いっそ……そう考えたとき、屋敷が不自然に静まりかえっていることに気づく。


「……まさか……」


寝入っている女房達の間を縫って御簾を抜け、渡殿に出る。


そこには、人に変化した朱殷が立ち尽くしていた。


「朱殷……昨夜来たばかりなのに、どうして……」


「清が……他の男に触れられるかと思うと……」


「けれど、邪気は……」


うろたえながら姫君が問うと、朱殷は何でもないといった様子で答えた。


「問題ない……昼のうちは神域で邪気を祓っている。それよりも清……二人のときを大切にしたい」


嘘だった。邪気を癒せる場所は長老のもとにしかない。禁を破って姫君を訪なうことは誰にも知られないように隠れてしている。気取られたら、おそらくもう二度と下界には降りられない。


「清……逢える限りのときを、そなたとすごしたい」


「……朱殷……逢えるのは嬉しいけれど……本当に大丈夫なの?」


「ああ……夜のうちだけだが」


頷いて、姫君を抱き寄せる。


それから朱殷は毎夜姫君のもとへ通った。想いは募り、姫君の胎内の子は呼応して育ってゆく。


「……今、動いたぞ」


ある夜、朱殷が姫君の腹に耳をあてて声を弾ませた。姫君は恥じらいながら「最近よく動くの……」と言った。


「きっと清に似た美しい子が産まれるのだろう」


「……私は朱殷に似た方がいいわ……逢えないときも朱殷を想うことができるもの」


「では、二人に似た子だ。香りは清に……」


「……けれど、髪と瞳は黒くないと困るかしら……」


産まれるのであれば、帝との子であると見せかけなければならない。そのためには、人外の血を引いていることは気取られてはならない。


言外の意に、朱殷が黙る。姫君が慌てて言い募った。


「ごめんなさい……朱殷、気を悪くしないで。手元で育てるためには、人の姿に近い方がいいかと思ったの……この子はあなたとの縁(よすが)よ……ずっと傍にいたいの……」


「清……すまない。そういう意味ではないのだ」


返って朱殷が申し訳なさそうに口を開く。続く言葉に姫君は頭を横から打たれる衝撃を受けた。


「天界のものの血を引いた子は、天界で育てなければならぬ……でなければ、下界の邪気にあてられて死んでしまう」


「……我が子と共にあれないの……?」


「すまぬ……そういう摂理なのだ……」


腹の子が、また動く。姫君の動揺を察したかのように、手を伸ばして。


朱殷が思い詰めた面持ちで心情を吐露した。


「死が定まったものなら天界に連れてゆける……いっそ、清を手にかけて私も後を追いたい……」


「……朱殷……私は……」


姫君はうなだれた朱殷の頭を胸に抱いた。さらさらと流れる銀白の髪を撫で、静かに囁く。


「私は生きている朱殷が好きよ……温かくて優しくて、少し強引な……私だけを想ってくれる朱殷が好き……」


「清……私もだ。だから私には清を手にかけることなどできぬ……生きて幸せであって欲しい……」


「朱殷……私は幸せよ……あなたと出逢えて、愛を得て……」


──たとえ束の間の逢瀬でも。


だが、それさえも奪われる。





──ある夜、朱殷が訪れたときに姫君はその顔色に暗い胸騒ぎを覚えた。


「朱殷……真っ青よ……やはり無理をしているのではなくて?」


「無理などしておらぬ。清に逢えるのであれば、私は……」


「──すぐに天界へ戻って。朱殷が倒れたら、私……」


「だが……」


「お願いよ、朱殷……身を休めて。二度と逢えなくなるのではないわ……」


姫君は譲らず、朱殷に天界へと戻るよう勧めた。


朱殷の体は邪気に蝕まれ、既に限界を超えていた。


そして姫君に追い返されるように天界へと戻った朱殷は、着くやいなや崩れ落ちた。


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