くちなしの姫君と銀白の龍その十



***



姫君は一人物思いにふけっていた。


朱殷が訪れない。文もこない。最後に逢ったときの、蒼白な顔が記憶に焼きついて消えない。


渡殿に出て今様を歌いたくとも、ここ一月の間はずっと宿直のものや女房が起きていてできない。歌えば朱殷を呼べるかもしれないのに。


「……朱殷……」


口のなかで呟く。それだけで胸が切なさに満ちて涙がこぼれた。


逢えない日々、何度も今までにやり取りした文を読み返していた。逢っているときの朱殷との熱いやり取りを思い出していた。残滓を貪るように、朱殷の想いが色褪せてゆくのを恐れるように。


突然にあらわれて突然に消えた。あの逢瀬は夢だったのかとさえ思えてくるのが怖くて、形を求めてしまう。文、鱗、手首に染め付けられた跡。どれも本物だ。なのに──。


「……え……?」


姫君は異変を感じて顔を上げた。


控えている女房達の話し声がしない。几帳から出てみると、全員が眠っていた。


いても立ってもいられず、渡殿に飛び出す。宿直のものの人影がない。


「朱殷……!」


鼓動が希望に高鳴る。果たして、銀白の龍が月のない夜空に自らを輝かせながら舞い降りた。姫君は裸足の足裏が傷むのも疎わずに庭に出て駆け寄った。


「朱殷……朱殷!」


いまだ龍のままの朱殷に抱きつく。ちゃんと温かい。姫君は手離しで泣いた。静まりかえった屋敷に姫君の泣き声だけが響く。鱗の固い感触も本物だ。朱殷からは薬湯とも香草とも知れない不思議な香りがした。


「清……すまなかった。不安な思いをさせた……」


うなだれる朱殷に、姫君はかぶりを振った。


「厭われたのかと思いもしたわ……けれど、こうして逢いにきてくれた……」


「清を厭うなど決してありえない……! ただ、長老にとめられて……」


「……長老? 何かあったの……?」


朱殷はこの一月の真実を話すつもりではなかった。話せば姫君に心配をかける。姫君の心を曇らせることなど口にしたくはなかった。だが、姫君の潤む瞳を前にして偽れない。


「すまぬ……下界の邪気にさいなまれていた……治療のために長老に閉じ込められて……一月の間、眠りにつかされていた」


「そのような……朱殷、大丈夫なの? 苦しくはない?」


「ああ、もう大丈夫だ。邪気からは癒えた……だが……」


朱殷は沈痛な面持ちで言葉を区切った。姫君の不安を煽ってはいけないと思うのに、告げるのがためらわれた。


「……もう、逢えなくなるの……?」


「違う。何があろうと逢いに来る……ただ、十日に一度を限度とすると……文ももう送れなくなった……」


「十日……」


朱殷にしがみついていた姫君の手から力が抜ける。


「私は清に十日も逢えなくなるのは耐えられぬ……この一月は心が朽ちてゆくようだった……」


朱殷が人に変化して姫君の二の腕を掴み、声を振り絞る。姫君はじっと考え込み、やがて朱殷と見つめあった。


「……十日に一度でも、逢えるのならいいわ……私は朱殷が苦しむ方が嫌……朱殷の身に何かあれば、私は生きてゆけない……」


「清……! 私は……」


「朱殷……魂は二人で一つでしょう? 逢えないときも心はあなたの傍にいるわ……」


姫君の声はささやかでありながら、嵐にもしなやかに揺れながら倒れない野草のようだった。芯があって毅い。朱殷は返事も思いつかないまま、衝動的に姫君を抱きしめた。


「朱殷の今宵の香り……治癒の術を受けていたのでしょう? 香りも消えないうちに降りてきてくれたのね」


「清……私は……毎夜通うと誓ったのに……」


今日、下界では雨が降っていた。名残の湿った空気のなか、二人の香りが交ざり、天へと昇ってゆく。


「いいのよ、朱殷……二度と逢えなくなるより、末長く共にあれる方が……そうでしょう?」


姫君の言葉が朱殷の心を凪いでなだめる。姫君のいうことは正しい。母性愛さえ感じさせる声音が朱殷を優しく納得に導く。


「……朱殷……私は今、あなたに逢えて幸せよ……もう逢えないのかと思った絶望は消えたの。十日に一度、それさえ守れば朱殷と引き離されずにすむのよ……」


「清……愛している。命ある限り」


狂おしい熱に浮かされて耳許に囁く。姫君は顔を朱殷の胸から上げて眼差しを合わせ、うっとりと微笑んだ。


「私もよ、あなただけを愛するわ……」


二人は激しく抱きあった。互いの存在を確かめて唇を重ねる。今は再び逢えた喜びに身を委ねた。


もつれあうようにして寝所に移動し、朱殷が性急に姫君を求める。姫君はそれを受け入れ、体を開いた。姫君もまた、朱殷を求めていた。砂漠で雨を仰ぐ心地で。


朱殷が姫君の身体中に口接ける。姫君は朱殷の頭を抱いて体内へといざなった。


めくるめく奔流のなかで繋がる。その悦びを噛みしめながら更に求めあう。


そして朝までの間、臥所に言葉少なに身を寄せあっていた。息をひそめて、肌をまさぐり唇をついばむ。


「……朱殷……」


「何だ? 清……」


「朝がこなければいいのに……」


「……私も同じ気持ちだ……朝には離れなければならないのが惜しい」


朱殷の腕枕で横たわっていた姫君が、朱殷の左胸に顔を寄せる。脈動を感じて耳を押しあてる。それから、そこに口接けて吸った。


朱殷の左胸に、ほのかな跡が残る。


「……これで、お揃いね……」


姫君は左手首の跡を見せて悪戯めいた笑みを浮かべた。朱殷も顔をほころばせる。


「そうだな……この跡が消えないように術をかけよう」


「……嬉しい……」


姫君は朱殷の腕枕に戻り、頬にも口接けた。朱殷も姫君に口接けを落とす。


限られたときのなかで、精一杯に愛を交わす。


朝になろうとする空に、朱殷が飛び立つまで。



「では……十日後に必ず訪れよう」


「待っているわ……体に無理はしないで」


「ああ……だが、十日も逢えぬとは……清を知らず天界に暮らしていたときは十日など意識したこともなかったものを……」


朱殷の全身が名残惜しさに染め上げられる。眼差しは今にもこの世を壊しそうに逼迫している。


それは姫君も同じだった。離れれば待つしかない。十日に一度。秋には入内を控えている。それまでに何度逢えるだろう。入内した後はどうなってしまうのだろう。


懸念は尽きない。それでも今は二人の時間を大切に生きるしかない。今しかないのだ。



「朱殷……私はあなたを信じているわ。あなただけ……」


「清……そなたの信頼を裏切るまい。何があろうとも通い続けよう」


姫君の身が帝に捧げられても。


朝が近づいてくる。もうじき屋敷のものが目を醒ましてしまう。朱殷は龍へと変化した。


「……十日後に逢おう」


「ええ……」


他に言葉は思いつかなかった。信じる。それしかない。信じて信じて、想いを貫くしかない。


朱殷が空へ昇る。姫君を振り返りながら。惑いがあっても遠くなってゆく。姫君は身を乗り出して見送った。


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