くちなしの姫君と銀白の龍その八

夜になって姫君は屋敷のものが眠りにつくのを待って渡殿に出た。


朱殷をいざなう今様を歌う。ただ一人との恋を知った姫君の歌声には、艶めきが加わり、深い夜空を圧倒する響きがあった。


夜空の向こうから流れ星かと思わせる光がやってくる。だんだんと形が見えてくる。


「朱殷……!」


「清の歌声は力を増した……胸が締めつけられる。なのに、いついつまでも聴いていたい」


「あなたが変えたのよ……あなたがくれたものが私を変えてゆく……」


朱殷が人へと変化するのも待ち遠しく、姫君は白煙のなかに飛び込んだ。白煙は光の細かい粒が成しているのだと分かる。まばゆくて軽い目眩を覚えた。


くらりと僅かに傾いだ姫君の体を、朱殷の腕が支える。


「無茶をする……それも私がさせているのかと思えば、いじらしい」


「……昼間、ずっと文を読んでいたの……ようやく逢えた……」


「私もだ……清の文は嬉しかった。生まれ落ちて数千年、初めて愛し愛されることの素晴らしさを味わった」


朱殷の暁の瞳が熱を帯びている。触れれば火傷しそうでありながら、その瞳はただひたすら姫君に優しさをもたらす。春の陽射しのように。


「さて……今宵は満月だ。清、共に愛でよう。月光は愛と癒しの輝きだ。清と浴びれば格別だろう」


「ええ……満月を見るのは幼かった頃から、どれくらいぶりかしら。朱殷と見るのなら、さぞ美しいでしょうね……」


朱殷は姫君を膝の上に座らせ、背後から包み込むように抱いて夜空を見上げた。雲間から欠けるところのない、日の光を受けて輝く鏡のような月が悠然として姿をあらわす。


「月は幾千の時を経ても変わらぬ……私の清への想いも」


「私の想いもよ……たとえ歳をとってこの身が朽ち果てても、魂はあなたを呼ぶわ。あなたに寄り添うの……」


姫君の言葉に、朱殷は人間だった母を思い出した。母は下界にいたため、生まれて間もなく天界に連れてゆかれた朱殷は母との思い出は僅かしかない。まだ幼い頃、父と共に下界に降りると母は花が咲きほころぶような笑みを浮かべ、必ず涙を流した。母は会いに行くたびに皺が増えて枯れ木のように痩せ細っていった。朱殷が成龍になる前に命は尽きた。父は、短すぎる母の生涯に、どう向かい合っていたのだろう?


人間を愛してしまった自分もまた、同じ道を歩む。ましてや姫君は後宮に入内する身だ。仲を引き裂かれる可能性もある。


父は母を喪った後、天界の森に籠もりきりで朱殷にも姿を見せない。母の魂と共にあれているのだろうか。


「……朱殷……?」


ふと気づくと、姫君が顔を上げて朱殷を見つめていた。曇りのない眼差しが眩しく、何故か悲しい。


「いや……母を思い出していた……寒くはないか?」


言って、姫君の小さな体を抱き直す。姫君はくすぐったそうに少しはにかんだ。


「……朱殷が温かいから……朱殷のお母様はどのようなお方だったの?」


「そうだな……儚い方だった。最初の記憶が新緑のようなら、次に会った記憶は真夏の生い茂る深い緑、その次は紅葉か……ただ、私に会うと必ず泣いて喜んでくれた」


「そう……」


「だが、父は変わりゆく母を最期まで愛しぬいた。歳月を経ても魂は変わらない」


「私達も……そうなれるかしら」


「なれる。心さえ変わらなければ。……私の心は変わらぬ……清だけを求める」


「私もよ……朱殷だけを愛し続けるわ……」


満月が明るく二人の世界を照らし出す。あるいは、人間と龍の奇跡の愛を断罪するように。


けれど、姫君は物心ついて以来の満月の美しさに目を輝かせていた。朱殷のぬくもりに酔いしれながら、飽くことなく見上げている。


その姫君を見ていると、朱殷も今このときだけが全てだと思えてきた。月の明かりは神々しく、今の自分には畏れさえあるが、姫君は純粋に喜んでいる。それだけでいい。


二人は時折口接けを交わしながら、傾いてゆく月を眺めていた。


それから一月、朱殷は毎日文を送り、毎夜姫君のもとへ通った。姫君も文へ必ず返り言を送り、夜になると渡殿に出て今様を歌った。朱殷はそれに聴き惚れ、時には寝所でねだった。姫君は交ぐわいの後で恥ずかしそうに上気しながら応えた。そんなときには、幾分ひそめられた声が一層麗しく、濡れたような艶やかさをもって朱殷に染み込んだ。


──だが、ある夜、姫君は心配そうに朱殷を見た。


「……どうしたの、朱殷? 最近顔色がすぐれないわ……」


「いや……何でもない」


「けれど……無理はしないで……」


「大丈夫だ……それよりも夜は短い、今このときを大切にしよう」


朱殷は殊更何もないと見せ、姫君を抱き寄せた。熱い坩堝にはまってゆく。


そうしてやり過ごし、天界に戻ると虚脱感に襲われて膝をついた。


夜といえど下界には邪気がある。文を送るために束の間だが昼間にも下界に降りている。胸に澱が詰まったかと思えるほど重く苦しい。


明らかに無理が祟っていた。蓄積された邪気が朱殷を蝕んでいる。


朱殷は這うように泉へ向かった。姫君の姿が見られるよう念じる。


しかし、弱った朱殷の力では泉は何も映し出さなかった。ただ、静謐に澄んだ水をたたえている。


「……朱殷……そなたは、そこまで……」


背後から声をかけられる。朱殷は近づく気配に気づくことさえできなかった。相手は以前話しかけてきた年長のものだった。振り返ると、気遣わしげな表情で朱殷を見おろしている。


「これは……ただ少し疲れているだけです」


朱殷が取り繕おうとすると、それを見透かした眼差しで遮られた。


「長老がお呼びだ。……すぐに行くように」


朱殷は嫌な胸騒ぎと、ついにこのときが訪れてしまったという思いに絶望に近いものを感じた。


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