第二章十一

 主上は再会を喜んだ。里居のうちのつれなさを並べたててお決まりの恨み言を言えば、姫君からは控えめな声でしっとりと「申し訳ございません……魂は主上のもとへ駆けておりました……」と返される。

 つややかで、細くも柔らかい体を抱き、豊かな黒髪を腕に絡めれば類ない香りが主上を包む。待ち焦がれた姫君の体は子を二人産んでもなお太ることもなく儚ささえ漂う。その姫君は、主上が恨み言も忘れて夢中になると「主上にはお変わりなく……」と微かに笑いもした。真実は嘲笑なのだが、その皮肉に主上は気づくよしもなく有頂天になった。後宮へは女御更衣から典侍まで、様々な女を召し入れたが、やはり姫君のあえかな美しさに勝るものはいないと思われた。

「そなたは子を二人も産んだためか、気高さのなかにも物柔らかさが出てきた。やはり、どのものよりも優れて美しい」

「主上……」

 主上は今も思い違いを重ねている。姫君の物腰が柔らかくなったというのなら、それは夏木と睦みあえたからだ。魂は夏木と共にある。主上へなど一瞬たりとも駆けたことはない。女達の、作られた愛という偽りを知った主上は、しかしそれでも恋うるゆえに姫君の偽りを見抜けない。帝たる自分にも媚びない女だからと、めでたくも信じている。加えて姫君の美貌には並ぶものがなく、主上は万が一の裏切りを考えたくもない。思考に蓋をして姫君を見て盲愛している。

「宣耀殿の女御で寂しさを紛らわせていたが、まろには今ひとつ心に染みなかった。やはり、そなたしかいない」

「女御は懐妊されたとか……さぞご寵愛されたのでございましょう……」

「おお、そなたが悋気を見せてくれるとは」

「畏れ多い……私は主上が下さった御使いからのお言葉を信じ申し上げてありましたゆえ……」

「いじらしいことを言う……」

 主上が再び姫君を抱き寄せる。姫君はおとなしく従い、主上が貪るのに任せた。

 それを、わずかな明かりのなかで夏木は感じとっていた。激しい衣擦れの音、主上の語り、嘘を並べ立てて応える姫君の作為的な声音。

 夜の御殿の傍近くに夏木が侍ることを願い出たのは姫君だ。独りでは精神的に耐えられなかったのかもしれない。夏木が主上の目にとまりやすくするための方便だったのかもしれない。おそらく両方が正しいのだろう。

 主上が無遠慮な手で姫君に触れる度、夏木の心に竜巻が吹き荒れて無数の熱い棘が胸を刺した。猛烈な感情に焼き尽くされそうになる。主上は姫君を踏みにじり汚すものとしか見られなかった。

 ──今、清様はどのような思いで主上の好きにさせていらっしゃるのだろう。どれほど堪えていらっしゃるのか。

 けれど、まだだ。主上が夏木に関心を寄せるまでは。そのときを待って姫君は堪えている。それを思うと夏木の胸に苦味が満ちる。

 ──早く。早く、主上が私を見れば……。

 夏木はまんじりともせずに深い闇のなかでうずくまっていた。獲物を待つ、くちなわのように目を玉虫色に光らせて。


 それから暫くして、春宮は宮中に入った。昭陽舎からは頻繁に弘徽殿へと春宮のお渡りがあった。

 乳母に抱かれてきた春宮は、姫君の香りが届くと自ら降りて几帳の奥へと走っていった。「おたあさまの香りがしました!」と声を上げて、迎え入れる姫君の腕に飛び込む。

「まあ、いけません。お走りになられては」

「どうしてですか?」

「もし春宮がお転びになって、お怪我をされたら、この母が悲しむからです」

 姫君は春宮の前では佳き母の姿を見せていた。女房達も笑いさざめいて春宮の相手をしている。姫君は春宮が訪れるときには決まって几帳の奥から出てきて春宮を慈しんだ。

 春宮は健やかに育っている。先日に内親王の宣旨を頂いた女御子も順調だという。

 それに比べ、宣耀殿の女御は死産して母体も助からなかった。主上は心痛をあらわして右大臣家に使いを送ったが、期待していた女御の死に、屋敷全体が悲嘆と絶望に暮れて靄がかかっていたようだったと使いは告げた。

 ほぼ同時に里下がりをした淑景舎の更衣は女御子を産んだ。

 それ以来、どこにも懐妊の知らせはない。盛んに女をお求めになられたために子胤が尽きたのではないかと囁くものもいた。

「中宮様、主上のお渡りでございます」

「おや、先客がいるのか」

「主上、よくお渡りに……お見苦しいさまをお見せしてしまい……」

「そのままでよい。そなたには春宮は特別とみえる。何とも晴れやかな表情で春宮を可愛がっている」

「おたあさま、特別ですか?」

 主上の言葉に、春宮がおうむ返しに問いかける。そのあどけない眼差しに、姫君は慈愛を籠めて春宮の頭を撫でた。

「そう……特別です」

「嬉しい。私にとっても、おたあさまは特別です」

「これはとんだ恋敵ができたものだな」

 主上は苦笑するものの、そのさまは爽やかだ。愛する姫君が自分との間にもうけた子を愛している姿が不快なはずがない。和やかな雰囲気に女房達が軽やかに笑う。

 夏木も姫君について几帳から出てきていた。親子のやり取りを華やかな作り笑いで見守っている。

「そなたも春宮に中宮を奪われたか」

 不意に主上が夏木を見やった。夏木は逸る心を抑えながら「はい……お役御免でございますわ」と努めて穏やかに微笑みかけた。

 その笑みは、主上にとって見たことのない笑顔だった。危うく張りつめた糸が主上に触れて、たわんだような笑み。率直に美しいと感じた。

 けれどそれは、食虫花が開いた口だ。蜜に見せかけた毒をたたえ、主上という虫だけを狙っている。獲物には悟らせないように。一度、ただ一度罠にかかってくれればいい。

 その夜、姫君を夜の御殿に召して、主上は声をひそめて話した。

「そなたの傍に侍っている女房は美しくなったものだ。はじめは痩せて顔色も悪く貧相だったが豊潤なさまを見せて花開いた……その花を摘み取りたいと思うのは、そなたには酷だろうか?」

「主上……それは……」

 主上にとっては半ば悪戯だった。自分の鍾愛している中宮が寵愛している女房。それを掠め取れば中宮はどのような反応を見せるだろう? いっそ嫉妬をあらわにして詰って欲しかった。自分よりも傍仕えの女房ごときに御寵を与えるつもりなのかと。

 姫君は考え込む素振りをして主上を待たせた。得たりや応と頷くわけにはいかない。沈痛な面持ちを作り、焦らした。

「……主上がご所望でございましたら……」

 その果てに一言だけ答え、その夜は早くに弘徽殿へと戻った。主上は若干興醒めしたが、姫君が格別に寵愛している女房を蹂躙する楽しみに胸を高鳴らせた。

 夜の御殿での会話は、夏木の耳にも届いていた。

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