第二章九

 親王にはまだ分からないらしい。それでも母子で睦みあう姿を、女房達と乳母が笑みをたたえて見守っている。

「親王様は離れてあらせられる間も、中宮様をそれは慕っておいででございました。こうしてご対面が叶って、さぞやお嬉しくございますのでしょう」

「ほんにお似合いでいらっしゃること……中宮様も珍しくご機嫌であらせられますもの」

「やはり母の情というものは深うございますわね。後宮では主上へのお態度にひやりとさせられましたけれども」

 親王の乳母と姫君の女房が言葉を交わすなか、親王が姫君に抱きついた。

「おたあさま、よいにおいがします」

「そう? あなたも乳の甘い匂いがするわ」

「おたあさまと、おなじにおいになりたい」

 ねだる我が子の背を撫でながら、姫君は優しく「ならば、こうしていましょう。私の香りがうつります」と言った。親王は声を上げてはしゃいだ。

 姫君は親王の相手をしながら昼間をすごし、夜になってから夏木を呼び寄せた。姫君にまだ母としての顔が残っているのを見てとった夏木は近寄りがたさを感じたが、当の本人にはその自覚はない。

「夏木、背をさすって……気持ちが悪いわ」

「はい……今日は親王様のお相手をなさって、お疲れでございましょう」

「でも、子というものは可愛いわね……私と寝たいと、乳母の言うことも聞かないで……」

 親王の姿を思い起こす姫君は、遠い目をして微笑んでいた。夏木は返事ができずに黙って姫君の背をさする。子が母を慕うのは当然だと頭では理解していても、得体の知れない不安があった。

「夏木? どうかした?」

「いえ……」

 いつもならば姫君の言葉に必ず応える夏木の塞ぎがちな様子を訝しんで姫君が問いかけたのにも、頭が働かず返せない。夏木は、これではいけないと自分に言い聞かせて内心で首を振った。気持ちを入れ換える。

「親王様は清様によく懐いておいででございました……なかなかお会いになられずにいらっしゃいましても、やはり子は母君が一番なのでございましょう」

「お前の気持ちは分かっていてよ……夏木」

 姫君は夏木に向き直り、悪戯めいた笑みを浮かべた。その笑顔は入内前の大君の頃を思わせ、夏木の心臓が妖しくはねた。

「母は子を慈しむもの……けれど、奪われはしないわ。お前が私にとって特別なのは変わらない……前にも言ったでしょう?」

「……清様、私は……申し訳ございません……」

 姫君は気づいていない。気づかせてはいけない。このまま、親王に嫉妬しただけなのだと思わせていなければ。──夏木は、深く頭を垂れた。

 幸い、姫君には通用したらしい。姫君は夏木の本心を知らぬままに受け入れてくれた。

「いいのよ、お前が私だけを想ってくれる証だもの。お前はいくつになっても可愛らしい……私のことだけで一喜一憂する」

「……私の心を動かすのは、清様だけでございます……」

 姫君は満足そうに聞き、夏木を慈愛の眼差しで見つめた。夏木は親王への危惧と、姫君がもたらす甘い言葉による陶酔がない交ぜになって揺さぶられる。姫君のお心は幸せだし、疑うはずもない。けれど、不安は消えない。

「……夏木、今宵は存分にあやしてあげるわ……」

 姫君は、夏木が親王に妬心を抱いたと思い込んでいる。夏木はそれを表立って否定できない。自分の勘は杞憂であって欲しいと願う。胸の奥でちりちりと燃える燠火は姫君に悟られてはならない。姫君のためにも。

 夏木は黙して姫君に抱きしめられるまま、やがて躊躇いがちに姫君の背に腕を回してすがりついた。耳を打つ、くすくすと笑う声が、どうしようもなく切なかった。



 *



 多くの寺社への祈願と祈祷の験があってか、姫君は悪阻がおさまった後には順調に月を重ねていった。親王を産む前に次々と現れては姫君を責め苛んだ物の怪も、この度は到来の兆しも見せず、太政大臣家では胸を撫で下ろしていた。

 その頃、後宮では主上が姫君のいない寂しさを埋めようとするかのごとく女を求めるようになっていた。

「まろの後宮はつまらない。実りのない秋を見ているようだ」

 その主上の発言に、さこそとばかり女御や更衣が入内した。更には五節の舞姫までが主上の意向で宮中に留め置かれることとなり、あるものは更衣として、またあるものは典侍として宮仕えに上がった。

 結果、十二の殿舎のうち殆どが埋まることになり、後宮では主上の御寵を一層烈しく華麗に競いあうようになった。


「今までは、こなたの中宮様が押しも押されぬありようで諦めていたものを……主上も、やはり男でおわしたということかしら」

「あら、中宮様は中宮様で別格よ。右の大臣は内の大臣に左大臣の座を奪われるほど凡庸なお方……我が太政大臣様を脅かす手腕はないわ」

「でも、ねえ……中宮様も相変わらずですもの。せめて主上からの御使いには直々にお文を返さなければならないと思うのよ」

「まったくね。今日も夏木ばかりを傍に置いて……私達の立つ瀬がありませんもの」

 女房達は好き好きに語らい、夏木はこの話を聞いて激怒した。

「主上は清様を軽んじておいででございます……おれほどご執心あそばして清様を苦しめておきながら、清様がお里下がりでいらっしゃらなくなりました途端に……」

 けれど、姫君は真逆の心境で余裕をもって夏木をたしなめた。

「お前が怒ることはないのよ、むしろ清々するわ。それに私はすでに主上の男御子を産み、中宮にも立っているもの」

「その通りでございますが……」

 もうじき、親王は袴着を迎える。その後に春宮に立つよう太政大臣が動いている。


 しかし、夏木は自分から姫君の体を奪っておきながら奔放に女を集めている主上の浮つきに憤りを感じずにはいられない。奪った姫君に純情を誓うのは主上の義務だとさえ思う。──主上のことを憎みながらも。過ぎた御寵に眉をひそめていたものを。

 ──それでも、当の清様が清々するとおっしゃるのなら、私に言うべきことはない。

 口をつぐんだ夏木に、姫君は鷹揚に声をかけた。

「そのようなことは、どうでもいいわ……それよりも夏木、私の腹に手をあててみて」

 言われるに従って、夏木は吐息が交わるほど近寄り、姫君の大きくなった腹に触れた。瞬間、胎児がうごめいて怯む。

「動きました……」

「ふふ……赤子は何も気にせずに育つものね。産めば可愛いと知りながらも、やはり産むのは苦痛がひどいこと……」

 毒によって胤を孕むことが不可能となった夏木には、母としての心持ちは分からない。ただ、子を産むことで姫君は変わったと気づいている。強かさを得て、なよ竹のように荒風に揺さぶられても倒れない芯ができた。主上のうるさいばかりのご寵愛にも、懐妊にも、以前とは違って動揺しない。

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