第二章六

 修法が行われ、産み月が近づくにつれて姫君は苦しみを訴えるようになった。

 太政大臣家や姫君に怨みや妬みをもつ物の怪が次々と到来しては呪詛の言葉を吐き、調伏されてゆく。少将の死霊もいた。

 少将が乗り移った招人は憎しみをあらわにした形相で姫君に迫ろうとする。阿闍梨が数珠を打ちふるい、声高に陀羅尼を誦しながらこれも調伏しようとするが執拗だった。

「ただ一刻み及ばぬだけで姉更衣は日陰の身となり、今では後宮に戻ることすら叶わず出家されてしまった……私もまた、今の御世に潰されながら大君に想いを寄せ、犬死にすることとなった……業火に焼かれながら思うのは大君のことばかり。我が物にさえできれば心は晴れただろうに、大君は私など侮って……悔しい……そして大君は主上のご寵愛を受け入れて御子を産もうとしている。いっそ、大君を御子もろともに私のあるところに引きずり落としたい……」

「──清様!」

 姫君が、誰かに首を絞められているかの苦しさに首許をかきむしる。夏木は懸命に呼びかけながら姫君の衣の襟元をくつろげ、招人を睨んだ。

「浅ましく汚らわしい我欲で手を出そうとしたことにより業火に焼かれているものを、その罪深さ自覚していないのか!」

 夏木が声を限りにして叫ぶ。招人が、ぎろりと夏木に目を向けた。

「お前は夏木か? 小女房になって憎らしさが増した……大君の寵愛を笠に着て、いつまでも思うようにはゆくまいぞ。必ずや落日のときは訪れよう」

 そこで、阿闍梨の調伏の声が強まり、招人の声をかき消した。招人は床をのたうちまわる。

「清様……! お気を確かに!」

「……なつ、き……」

「私がついております! 物の怪などに惑わされませぬよう……清様!」

 姫君がうっすらと目を開き、夏木の姿を視界にとらえた。阿闍梨は顔を真っ赤にして招人を打ちすえている。やがて、招人が悲鳴をとどろかせて力尽き、ぐったりとした。姫君に呼吸が戻ってくる。

「夏木……私は……これほどまでに恨まれているの?」

「くだらない妬み嫉みにすぎませぬ。清様はお心を強くお持ちあそばされていれば、それでよろしいのです。何がございましても、私が分かっております」

 力なく胸許に置かれていた姫君の手を夏木がとり、しっかりと握る。責めぬかれて汗ばんでいながら冷たい手だった。

 ──大君の寵愛を笠に着て、いつまでも思うようにはゆくまいぞ。

 違う、と夏木は心のうちで否定した。けれど、暗雲がたちこめるのは止められない。

 姫君の愛情があるから、今もこうして傍にいられる。分不相応なお心を与えて頂けているから。それに馴れて、当然のものと傲慢になっていることはないと言い切れるのか?

 ──必ずや落日のときは訪れよう。

 夏木は固く目を閉じた。姫君のお心が失われるときが来る?

 終わりのないものはないのか。永久に続くものはないのか。姫君のお心変わりにせよ死別にせよ、いつか失うときが来るのか。そうしたら、どうして生きてゆけるか。姫君のお心を失ってなお生きている姿など、夏木には想像もつかない。

「……夏木……?」

 姫君が掠れた声で夏木を呼んだ。夏木は我に返って姫君を見る。疲労の濃い面差しのなかで、瞳だけが瑞々しい力を取り戻している。夏木を魅了してやまない美しさを。

「そうね、私は大丈夫……夏木が共にあるのだから……」

「清様……!」

 思わず夏木からこぼれた涙は、汗で額髪が張りついた姫君の顔を洗い清めてゆく。

 一瞬でも惑わされた自分が愚かだったと夏木は思い直した。何があってもと言ったのは自分ではないか、と。

「はい……私は清様と共にございます。いついかなるときも……」

 姫君は、はらはらと降り落ちてくる涙の温かさに目を細め、身じろいで夏木の手に指を絡めた。

「大丈夫よ……泣かないで。大丈夫……」

「はい……信じております……私の全てで清様を……」

「そうよ……こうしているのだもの」

 祈祷と調伏の声が遠くなる。姫君の声だけが夏木の耳を打つ。姫君にとっても、夏木のそれだけが響く。

 大切なのは、今このときに共にあることだ。それを重ねてゆくことだ。

 それを罪だというのならば、死んだ後にいくらでも罰を受けよう。

「はい……何がありましても、ずっと」

「それでいいのよ、夏木……私はそれだけを望んでいるの」

 姫君が労苦に命を削られながら、夏木に微笑みかけた。いっそ神々しいほどに美しい。真心から信じている姿は人を昇華させる。

 姫君は美しさを増し、夏木に新たな強さをもたらし、そして産み月を迎える。

 難産だった。

 一時は姫君の身さえ危ぶまれ、宮中からの里下がりしてから毎日使者が来ていたものが、更に頻度を増してひっきりなしに訪れ、姫君の様子を伺った。

「夏木、傍にいて……夏木……」

 張り裂ける痛みに悶えながら姫君は夏木を求めた。夏木は特別に許しを得て、姫君の手を握っていた。

 白い衣に身を包んだ女達が慌ただしく行き交う。祈祷の声は高まり、産屋を揺るがさんばかりだった。

「清様……! 必ずや、ご無事にお産みになられます、私はここにおります……!」

「……なつ、……うっ……」

「──清様!」

 まだだ。まだ、決して姫君を失いはしない。夏木はひたすらにそう信じ、祈った。

 そして、ときは訪れる。

「ご誕生でございます……!」

 歓喜に打ち震えた声が上がる。ついで、産声が響いた。姫君は力を使い果たして、がくりと横たわっている。夏木は姫君の手を一層しっかりと握り、何度も呼びかけた。

「清様……! 清様!」

「……夏木……」

 姫君が目を閉じたまま、あえかに応えたとき、夏木は胸が締めつけられるようだった。声を返して頂けた。生きていらっしゃる、と。

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