第一章二

「夏木……朝までにはまだ時間があるわ。ただ身一つで語らいましょう?」

「清様っ……」

 姫君は夏木の清らかに引き締まった臀部を、もう片方の手で楽しみながら熱く囁きかけた。



 *



「──では、夏木に会うのは難しいというのか?」

 短絡的な苛立ちを浮かべる少将に、乳母は申し訳なさそうに頭を垂れながらも、おっとりとした口調で答える。その口調は、意思の強かさに裏付けられていると、少将は幼少期からの経験で知っていた。

「あのものは左の大臣の大君様からたいそうなご寵愛を受けておりまして、宮仕えに出てから一度も宿下がりをしていないのですよ。呼び出すのは無理というもの。……それに」

 乳母は顔を上げ、少将の目をちらりと見てから、言いにくそうに痛いことを口にした。

「夏木ということは、お相手は大君様でございましょう……少将様の乳母として、決してお勧めできるご縁ではございません。双方のお立場というものをよくお考えあそばせ」

「それでも好きなんだ!」

「……そうでございましても、望まれぬ想いに身をやつすことは、どなた様の為にもなりませぬ」

 乳母の言うことは正論だ。まともすぎて、少将にとってはうんざりする。

 まともなら入内の決まっている左大臣家の姫君に手を出そうなどとは考えない。然るべき筋の人間が趣として恋を語るのを楽しむのならまだしも、大納言家の少将というつまらない立場で真剣に奪おうとするのは、自分の身を滅ぼす行為にもなりかねない。遥か上にあるものから不興をかう。そのなかには主上も含まれている。

 それでも、どうせ御世の飼い殺しになる身だ。一矢報いることを考えて何が悪い。

 この、何も面白みのない平坦な世の中で、一輪の花を知った。世の中を挫きうる至高の花を。

「……もういい。お前には頼まない」

「少将様、それは──」

 より危険な伝手を探すつもりなのか。愚かと笑われる道へと。

 拗ねたように言い放ち立ち上がった少将の顔を、乳母は見上げた。さっと青ざめる。それは乳母として見てきた青年の性格を知り尽くしていて、不安におののかずにいられない。

「頼るなと言ったのはお前だろう?」

「お諦めなさいますようにと申し上げたのでございます。どうか、この乳母の注進をお聞きくださいませ。お父上の身にも……」

「ならば、世の男どもが興じる程度に文ひとつ贈るだけならばいいだろう?」

 ああ、と乳母は失望に近い悲しみを味わった。

 前のめりにのめり込んでゆく少将には何も見えていないとしか思えなかった。

「──頼む」

 少将の直衣の裾にしがみつかんばかりの形相をしている乳母のもとに膝をつき、少将は間近から見つめて懇願した。その瞳は油を張ったようで、うろんに輝きながら濁っている。

 ──少将は、文ひとつにとどまりはしないだろう。いつかは左大臣家の大君に宮仕えする娘の前に現れ、詰め寄るだろう。

 その乳母の危惧を察したのか、少将は僅かに表情を緩めて自嘲した。

「せめて、かの姫君のお心の端にでも映ればという願いだけだ。一度だけでいい……伝えないまま終わるより、姫君に笑われて想いにとどめをさしたいんだ」

 それは嘘だ、と乳母は内心で叫んだ。しかし声に出せなかったのは、少将が畳み掛けるように言葉を紡いだためだった。


「文ひとつ。その自由さえ許されないのだろうか。この想いが実らないことは分かっているさ。……それでも、私は、せめて一声お届けできれば……その上で姫君から冷たくあしらわれるのなら、玉砕するのなら、そのときは自分の傷心を慰めながら姫君の栄達を見守るよ」

 乳母は、その言葉を信じてはいなかった。けれど、もうこれ以上、少将に対して言い募ることはできなかった。

 そしてその夜、少将は文を書いて乳母に託した。真っ白な料紙に水茎は力強く。長々と綴るのではなく、けれど想いを訴えて。

 ──長々と綴らないのも当然だろう。少将には綴るだけの内実などないのだから。

 あるのは、ただ自分がくちなわになろうという野心だけだ。

 野心で恋を語り、その卑しい文は自らを虚構の恋へと駆け上がらせてゆく。



 *



『とても遠いと知りながらも憧れる気持ちはおさえようがありません

 悲しい身にせめて一言愚かだと


 名に高き

 香りをぞきく

 みにかたく

 くちなわならぬ

 鳥におよばせ』


 夏木は、それだけが書かれた文をじっと見下ろし、そして小さな両手でくしゃくしゃに握り潰した。


 文は先ほど、母の遣いから渡されたものだ。姫君のもとへ上がろうと、与えられた局で支度をしていたときに遠慮がちに声をかけられた。夏木の局を知る一部のもの伝いだった。

 母には母の立場があろう。断われない文だったのであろう。それは夏木にも分かる。

 しかし、自分にも立場があるのだ。

 このような軽薄なものを姫君にまみえさせるなど許されはしない。いや、このようなものが姫君に近づくことは自分が許せない。

 夏木は丸めた料紙を屑入れに棄てて立ち上がり、再びじっと見下ろした。その瞳は暗い闇夜のように何も窺わせなかった。

 そのとき、局の入口から「夏木、大君様がお待ち遠だけれど何かあったの?」と、中納言と呼ばれている女房の声が聞こえた。

「はい。──ただ今参ります」

 夏木は急いで髪を整えて局から出た。すると中納言はまだ入口にとどまっていた。出てきた夏木を見て、ひやりとする眼差しを向けている。それは、嫌味とも僻みともとれる、どこか意地の悪いものだった。

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