第8話

 何故だ、体が動かない。

 周り中が赤い、顔が熱い、胸も熱い。

 もうこれで終わりなのか? そうだ、由奈は? 由奈、由奈。


 神様お願いだ、僕たちをあの日に戻してください。それが出来るなら僕はあなたを生涯信じます――。


 由奈と再会してから、智之はそればかりを願っていた。他の誰よりも多く果てれば、会えなかった日々の出来事がすべてリセットされるような気がして、末端の細胞の一個まで絞りつくすつもりで由奈を抱いた。分かっている、そんな事で時間は戻らない。だがそれでも智之は暇さえあれば、全力で由奈を抱き続けた。


 それも終わりだ、きっとこれまでの不運を哀れんだ神様が最後に由奈を遣わしてくれたのだ、僕はあの時死ぬはずだった、そしていま、遅れてその日がやってきたんだ――。


 周囲を覆う赤い光は黄色に変わり、やがて茶色に、そして黒へと変わった。熱さが薄れる。

 指が動いた、首も動く。瞼が動いた事で、智之はそれまで自分が目をつぶっていた事に気がついた。目を開けた、白くてドーナツのような丸いものが見える。これはなんだろうか、天井? そうだ天井からぶら下がっているから……蛍光灯?


 隣りがまぶしい、目を細めると二つ並んだ白い小茄子が窓越しの強い光を浴びて光っていた。そうか、さっきはこの光が顔に当たっていたのか。首を回すと、たぶん一年中出しっぱなしなのだろう、少し歪んだ灰色の網戸越しに、青い空が見えた。


 男ならきっと誰だって撫でてみたい、そんな丘陵の持ち主はここでも布団を蹴り飛ばしていた。

 由奈を起こさないよう彼女の裸の体にそっとふとんを戻して、智之は襖をあけた。隣の座敷のちゃぶ台には握り飯と沢庵が置いてあった。


「おめぇがつええから飲みすぎたよぉ、そんなもんしかねえが食ったら行げ」


 台所で何かを作りながら老婆が振り返りもせずに言う、すぐに持ってきたのは小松菜と豆腐が入った味噌汁だった。


「お婆さん、何かお礼をしたいんで住所を……」

「そんなもんはねぇ。食ったらさっさと行げ」


 そんなわけはないと思ったが、老婆の言葉には力があった。

 こんな場所だ、村に降りて訊けば住所ぐらいすぐに分かるだろう。智之はそれ以上訊くのをやめた。


 遅れて起きてきた由奈と握り飯を平らげ、お茶をすすっていたとき、智之は胡坐の間からそれが顔を出している事に気が付いた。慌てて隠すと、老婆が目を細めて言った。


「元気なもんだよなあ、昨日の今日なんに」


 老婆の目は下を向いている、智之にではなくに向けて諭すように話している。由奈がむせながら笑う、それを見て老婆が言った。


「この兄ちゃん、よっぽどあんたが好きなんだなぁ」


 由奈は笑うのをやめて目を大きく見開いた。浴衣の前を押さえて、頬が見る間に赤く色付いていく。


 智之が隣の部屋に戻り、窓を開ける。干されていた下着を取り込んで由奈に手渡すと、由奈は赤い顔をしたまま浴衣を脱いだ。

 日に晒して焼けた肌、ユニフォームに隠される部分だけは抜けるように白く、大きく張り出した尻と先が尖ってピンク色に色づいた乳房が余計に引き立つ。


 智之も浴衣を脱いだ、硬く立ち上がったペニスの先が、日の光を浴びててらてらと光っている。二人は互いを抱きしめ、唇を重ねた。


 服を着てヘルメットを持って、二人は玄関に向かう。


「ありがとうございました、何てお礼を言っていいか」

「例なら見せてもらった、ほれさっさと行け行け」


 老婆は箒で塵でも掃き出すように二人を玄関から追い出すと、ガラガラと大きな音をたてて引き戸を閉めた。

 ガラスの向うで老婆の影が左右に揺れながらゆっくりと小さくなっていく、そこに昨日感じた不気味さはない。やはりあれは、この家の雰囲気と薄暗い灯りのせいだったのだ。


 バイクに跨り左の道を進むと、二百メートルほどで舗装された道に出た。拍子抜けした、こんなに近いのなら昨日のうちに出てしまえばよかった。

 右に曲がって幅が車一台分ほどしかない道をみちなりに進むと、三十分ほどで山を抜けた。


 田んぼの中を走っていると、老婆が言った通りコンクリートの橋があった。標識は無いと言っていたが、日本中どこでも見かける青い案内板がたもとに立っている。はじめは違う橋かと思ったが、案内板は海岸方向を指していて帰りの道も海沿いにある。


 老婆の記憶違いだろうと思って海の方に曲がった、田んぼの奥にいくつか民家が見えるが、その中の赤いトタン屋根と灰色の瓦屋根の並びに、智之は見憶えがあった。


 晴れた空に白くて大きな雲がいくつも浮いている。田んぼに挟まれた道を走っていると、右の奥にまた見覚えのある建物を見つけた、神社だ。赤い鳥居の下を見たが狐はいない、もちろん狛犬もない。

 板張りの小学校の脇に出る、いま走って来た道は昨日選ばなかった右側の道だった。しばらく走るとあの店があった、手前にバイクを停める。


「どうしたの?」


 由奈が訊いた、「あんな嫌な男にまた合うの?」と目が言っている。


「いや、あのお酒さ。それにお婆さんの住所を訊くなら、こういう店のほうが詳しいかもしれないし」


 そう言って智之は店に入った、奥から出てきたのは、やはりあの不愛想な男だった。男は二人の顔を見ると、少し意外そうに眉だけを動かした。


「あの、なんて読むのか分からないんですけど、”びじょうえん”とか、“みじょうえん”て言うお酒、ありますか? 白いラベルにこう、三文字で……」


 智之が言い切る前に、男は顔色を変えた。


「おい、いま何て言った?」


 客に対して「おい」とは何だと、由奈の眉が吊り上がる。

 だが智之は、そんなの想定内とでも言うかのように気にかけず続けた。


「びじょうえんです、美しいにお嬢様の嬢、苑はよく焼き肉屋とかにあるじゃないですか、なんとか苑って」

「あんた、どこでそれを……」

「昨日、お婆さんに飲ませてもらったんですよ。あ、それでそのお婆さんの家の……」


 目の前で人の顔から血の気が引いていくところを見たのは、それが初めてだった。


「か、か、帰れ! 帰ってくれ!」

「え?」

「そんなわけねえ、そんなわけがねえんだ!」

「そう言われても……」

「冗談にしても質が悪い、帰れ!」

「あの、冗談とかじゃなくて、僕は飲んで美味しかったから……」


 智之が言い返す、何もしていないのに疑われるのは気分が悪い。すると真顔になった男は智之の顔を下から舐めるように見上げた。


「お、おめえ本当に飲んだのか、あれを?」

「ええ、すごくおいしいお酒でした。だからもしここにあるなら買っていこうかと」


 男はもう一度、智之の顔を舐め上げるように見た。そして隣で男に遠慮のない敵意を向けている由奈の目を、しばらくじっと見返した。


「待ってな」


 そう言って男は店の奥に消えた。


「こっち来い!」


 呼ばれて奥に入ると、いろんな酒がつまれた棚の前で男がうずくまっていた。


「こっちだ」


 呼ばれて近づくと男が振り返った。


 ひっ……。


 生気のない顔、目の下の皮膚が黒ずんで、ついさっきまでより十歳は老けて見える。男は木箱から一本の茶色い一升瓶を取り出して、しゃがれた声で言った。


「これか?」

「あ、そうそう、これです。間違いない。な、由奈」

「ええ」

「もっかい、よく見ろ」

「え?」

「よく見るんだ!」


 そう言われても別に昨日のものと変わらない、白い和紙のラベルに崩した筆文字が三つ並んでいる。


「最後だ、もっと良く見ろ」


「え? 美、嬢……あっ!」


 智之は息をのみ、由奈は目を見開いた。見合わせた二人の顔が、みるみる青くなっていく。


 美嬢”えん


うらみ」の怨。


「たしかに昔はあんたが言う通りの”美嬢苑”だったんだ」


 智之と由奈の顔を交互に見ながら、男はゆっくりと話し始めた。


「商品はこれともう一つだけの小さな蔵だった、全国に売れるほど数は作れなかったが、この辺じゃ美味いって評判の酒だった」


 男は美嬢怨を慎重な手つきで木箱に戻しながら、ぼそぼそと呟くように続けた。


「蔵はさっきあんたが指さした道の途中にあった」

「あった?」

「やめたんだ、五年ぐらい前だったか」


 智之と由奈が顔を見合わせる、店の主人はその様子を訝しむように見ながらこう続けた。


「こいつはそこが作った最後の酒だ」


 腹の底から煮詰まった苦いものがこみあげる。

 帰れ、訊くな!――本能が全力でそう叫んでいる。

 それでも智之は訊かずにいられない。


「そんな評判の酒蔵が、なんで廃業したんですか?」


 男は幼い子供がたまに親の前でするように、大げさに息を吸い、吐いた。木箱を三度見て、決心したように言う。


「消えちまったんだよ、子供らが」

「息子さんと娘さんですか? お婆さんも『出て行ったきり帰ってこない』って言ってました」


 智之がそう言うと、男は一瞬目を剥いて、すぐに観念したように続けた。


「親父が亡くなって息子が蔵を継いだんだ、それからはそいつと妹と杜氏の何人かでやってたんだが、そのきょうだいが、五年ぐらい前に二人とも消えちまったんだよ、パッとな。別に経営が悪いわけでもなかったって言うし、車と荷物がそのままだったからな。遠くに行ったとは思えねえってんで警察は山を探した。山菜採りで遭難とかよくあるだろう? あんなもんだと思ったんだろうな。俺らも一応警察と一緒に探したんだ、ここらへんでクマは見た事ないがハンターまで出してな。でも見つからないまま警察は帰っちまった」

「その後は探してないんですか?」


 男は智之の問いに答えず、後ろを向いて言った。


「美嬢苑て名前はよぉ、蔵の先代が娘が生まれた時に『赤ん坊のくせにすげえ美人だから』ってつけたんだ。実際その娘はとんでもねぇ美人になった」


 それの何が――。


「跡取り、まあ兄貴の事だが、そいつがその妹にべったりでな、子供のころからえらい可愛がり様だった。妹が街の女子高に入った時なんか朝夕欠かさず軽トラで送り迎えしてな。でっけえ体で力も強くて、高校の時は柔道で東京の大学からスカウトまで来たのにアイツは断った。あの馬鹿高校から大学に行けるなんて夢みてえな話なのによ。先方にゃ藏を継ぐからって言ったらしい」


「よほどここが好きだったんですね」智之が言った。


 “チッ”と男の舌打ちが聞こえた、男は首を軽く振りながら言った。


「そんなんじゃねえよ」

「それってもしかして……」


 由奈が口を開いた、言い終わる前に男は強い口調で言った。


「ああ、妹には県会議員の息子とか、そりゃもういろんな縁談が来たが全部蹴った。四十を超えても社長の後妻やら良い話がいくつも来たがそれも断った。兄貴は結婚しねえどころか浜のソープにだって一度も行かなかったらしい。どうだ、あんたもこれならおかしいと思うだろう?」


 智之がハッと気が付いたように口を開く。


「それって……」


「そうだ、心中だ。あいつらきょうだいのくせにデキてたんだ。それを『そんな事はねえ! 探してくれ』って、あのババアが一人で大騒ぎしやがった」


 由奈が訊いた。


「でも探したんでしょう?」

「そりゃまあな、気の毒には違えねえし、形だけでもってな。だがよ、俺らは親切でやったんだぞ、なのにあのババア、俺らが次は分からんて言ったら、ぎゃあぎゃあわめきやがって。だってよ、警察が探しても見つからなかったんだぞ? 死体は動物がもってっちまったんだろうよ。だいたい見つかったからってせいぜい一緒の墓に入れてやるぐれぇの話じゃねえか。何できょうだいでよろしくやって勝手に死んだような連中を、俺たちが仕事休んでまで探さなきゃなんねぇんだ」


 智之が訊いた。


「親族はいなかったんですか? 探してくれるような」

「いねえよ、こっちにいた親戚はずいぶん昔に出てっちまったそうだ。詳しいこたぁ、もう誰も知らねえがな。俺たちの爺とかの頃らしい」


 男は脇にあったパイプ椅子を広げて、いかにも難儀そうに座る。

 

「ババァは酒造りは何も知らなくてな、子供を探すのに夢中で蔵をほったらかしにした。呆れた杜氏が辞めるって言いだして、結局蔵は閉める事になったんだが、そんとき挨拶に来たババァが村中に配って回ったのがこの酒だ。あれっきり嫌われもんだったが、あんときゃにこにこ笑って愛想が良かったもんだから、最後だと思ってみんな貰ってやったんだろう、美味い酒だしな。だが箱を開けて驚いた」

「苑が”怨”になっていた?」

「よく考えたもんだよ、あのババァ。似てるから気づかずに飲んじまった奴もいた、先に気づいて気味悪いからって捨てた奴もいた。だがな」


 男が急に黙り込んだ、目を伏せて、およそ似合わない考える素振りをする。二、三分ほどそうしてから、男は続けた。


「飲んだ三人は働き盛りだった、なのに二人が病気になった。残りの一人は昔きょうだいの妹にしつこく言い寄ってた奴でな、そいつは車にはねられた。捨てた家じゃあ元気だったジジイとババアが寝たきりになって、一月もしないうちに死んだ。気味悪がった連中がどっかの神社にお祓いを頼んで、俺も坊主を雇ったんだが、飲んだ三人も結局は死んじまって、それっきり誰もこの酒の事にゃ触れなくなった。たぶん村のおおかたの家にはこいつがまだ一本ずつ仕舞われてるだろうよ、これだって怖くて捨てらんねえんだ」


 男は酒瓶の入った木箱から目を外し、智之を睨んだ。


「であんた、本当はどこでこいつを飲んだ。この辺でしか出回らない酒だ、こんだけ経てば、もうどこの酒屋にもないはずだが」


 智之と由奈は互いに顔を見合わせた、智之は男の問いを無視してこう訊いた。


「そんな事があったなら、お婆さんは……」


 男は目線を木箱に戻して、ゆっくりと答えた。


「ババアか? ババアは死んだよ」

「え?」


 由奈が無言で智之の腕を掴む。


「これを持ってきた次の日だ、酒を突っ返しに行った奴が見つけた。家の鳥居の前で倒れてたらしい、本物の”美嬢苑”を抱えてな」


 昨日、老婆は美嬢苑を大事そうに抱えて布団に入った――。


 由奈の手がぶるぶると震えている、青ざめた二人の顔を見て、男は言った。


「まあいいさな、今更関わりたくねぇからよ。そういうわけでこの酒はこれが最後だ、何なら持ってくかい? タダでいいぜ、付けてくれてやるよ」

「い、いえその……」

「冗談だ。持って行ってもらいたいのはやまやまだがな、こいつぁおっかねえ酒だ、美味うめえにゃ美味えが、死ぬ気で飲む奴はいねえわな。まったくあんババア、とんでもねぇもんを置いてったよ、どうすりゃいいんだ、子供に残すわけにもいかねえしよ」

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