第35話 ライバルたちの音
「よぉ、黒井。今日も勝たせてもらうぜ」
「優、あんたこの前、自分で引き分けって言ったじゃない。黒井君、今日はよろしくね」
「はい、よろしくお願いします」
「よろしく、お願いします……」
中に入ると、椎名と田部井さんが話しかけてきた。真理は2人の存在感に、少し怖気づいているようだ。
「真理」
「っつ、冷たっ、いきなりなにすんの翼!」
俺は真理の頬に、キンキンに冷えたジュースを当てる。
「目が覚めたか? 自信なさそうな顔してたぞ」
「翼……ごめ、ううん、よくもやってくれたな~」
そう言って、真理は冷えたジュースを俺の頬に当て返す。
よかった、いつもの真理になった。
少し進むと、奥の壁に順也がもたれかかっているのが見えた。
こっちに気付いたようだが、話しかけてくるそぶりもせず、ただただ俺を睨んでくる。しおりの兄だけど、嫌な奴だ。
控室に入ると、演奏の順番が貼りだされていた。俺たちは最後だった。
「ねぇおかしくない? 普通、1番実績ある人が最後なんじゃない?」
真理が不思議そうに、俺に聞いてくる。
「あ、いや。翼が下手とかじゃなくて。ほら、知名度と言うか……」
自分で言ったことをまずいと感じたのか、真理は取り繕う。
「いや、その通りだよ。あと、気にしてないからな」
「そ、そっか」
「天川順也が、大会に直訴して翼と順番変えたのよ」
後ろから聞こえた声に振り向くと、真由美さんだった。
「真由美さん? どうしてここに?」
「さぁ、どうしてかしら? 翼を応援にきたのかも?」
「いや、ここ控室ですから。出場者じゃないと、入れないでしょ」
「あはは、鋭いわね」
「いえ、普通ですけど……」
真由美さんは、笑ってはぐらかせる。
「翼、用心しなさい。順也は先に演奏して、あなたに徹底的にプレッシャーを与えて、押し潰す気よ」
「なんでそんなに……」
「うわ、悪趣味……」
思わず真理も本音を口にする。
「じゃあ忠告したからね。周りに流されず、あなたの表現をしなさい。それと、天川のおじいちゃんも、応援に連れてきたわよ」
そう言うと、真由美さんはさっさと控室をあとにした。
「ではそろそろ始まりますので、最初のペアお願いします」
進行の人が、大会の始まりを告げる。
「やばいなあたし、どんどん緊張してくる……」
真理が隣で震え始める。
「人って書いて、飲み込むんだよね……?」
「まぁ、気休めだけどな」
真理は繰り返し、手のひらに人を書いて飲み続ける。
「お前って、まだ緊張してるんだな」
「当たり前でしょ?!」
真理に言うと、なんだと言わんばかりに言い返してくる。
「あんなに上手く弾けるんだから、緊張する必要ないのに」
「え?」
そう、真理は必死に練習を重ね、ソロピアニストとしても、普通に全日本に出れるくらいの実力をつけている。合わせていた俺はよく分かる。ただ、真理本人はそれを自覚していない。
「翼はさ、もしだよ? もし……」
「うん?」
真理は一転、静かに聞いてきた。
「優勝したら、フランス行っちゃうの……?」
「さぁ、どうだろうな。優勝してみないと分からん」
「そう、だよね……ごめん、変なこと言って」
そればかりは俺自身、本当に分からなかった。兄さんは行くと決めていた。俺はどうなんだ。
「では次、椎名・田部井さんペアお願いします」
椎名たちの番だ。俺たちは、控室のモニターを見つめる。
A列車で行こう
曲がアナウンスされる。
椎名の軽快なサックスが始まる。田部井さんのピアノが、その音に膨らみを持たせる。颯爽とリズミカルに、サックスとピアノが重なる。聴いている俺の身体は、勝手にハミングを始める。
そして次の瞬間、音楽は客車になった。
会場の観客たちを乗せ、ぐるぐると楽しそうに列車は走る。車窓から見える観客の顔は、どれも笑顔だ。希望を胸に旅に出る旅行者のように、どの顔も輝きを見せていた。
「すごい、こんなに音が広がるなんて……」
「あぁ。俺も、高鳴る鼓動が止まらない……」
真理も俺も引き込まれる。本当にこんなにわくわくする音楽は、体験したことがない。
椎名たちは演奏を終え、客席に深く一礼をする。観客からは今日1番の、割れんばかりの拍手が巻き起こる。
「やっぱり他の参加者とは、一味も二味も違うわね……」
「そうだな。いつの間にか、音楽に乗せられていた……」
俺たちが感慨にふける間もなく、進行係のアナウンスが聞こえる。
「続きまして、天川・飯島さんペアお願いします」
「え?」
「どうしたの翼?」
耳を疑った。なぜなら、飯島は真由美さんの苗字だから。
疑心のままモニターを見る。そこには間違いなく、順也と真由美さんがいた。
「真由美さん、なんで……?」
「翼……」
順也だけでなく、真由美さんの登場に、俺たちは震える口元を隠せずにいる。
『おい、あれイアン・パブロフじゃないのか?』『あの有名なサクソニアン?』『若干20歳で、アメリカの賞という賞を取りまくったっていう……』『ちょっとなんで? 天川って……イアンは日本人なの?』『おいおい、これ全日本だろ? あれ、天才イアン・パブロフじゃないか……』
客席はざわつき始める。
イパネマの娘
曲がアナウンスされると、会場は瞬時に静寂に包まれる。
真由美さんの小切れのよい、優しいピアノが始まる。どこか悲し気で、どこか気品があって、それでいて美しい旋律。
順也のサックスが続く。甘く、柔らかい。それでいて色気を感じる、なんとも言えない音が響く。
まるで全ての感情を持っているかのように、それは7色の音色となって、俺を包み込む。
とてつもない引力でも持っているように、俺の意識はその音にどんどん引き寄せられ、光に飲まれていった。
「ここは……?」
俺の前には、海岸が広がっている。
静かに波打つ海岸に俺1人。
「誰だ……」
遠く離れた浜辺に、誰かいるのを見つける。その
優しく照らす太陽の下、長い浜辺を俺は1人、その人に向かって走り続ける。
「早く、追いつかなきゃ……待ってくれ……」
それが誰なのか、なんで俺は追うのか、意味も分からず懸命に走る。そして砂に足と取られ、倒れ込む。
「待って……」
起き上がると、もう誰もいない。
「?!」
後ろから肩を触れられ、振り返る。
そこには、小麦色の肌をした女性が佇んでいた。
「あ、あの……あなたは?」
女性は俺を見る。その人は、とても悲しそうな顔をしている。
『分からないの?』
分からない。見たこともない人だ。
そこに突風が吹いた。それは彼女の肌を、奪い去っていく。
小麦色の肌が剝がされ現れた彼女の肌は、透き通るように白い。金色の髪に碧い瞳。
「しおり……」
しおりだ。
「待ってしおり!」
体が動かない。しおりは悲しそうに俺を見ながら、どんどん遠くへ消えていく。
そして俺の意識は、海岸から戻った。
「…………」
「翼……」
真理と顔を見合わせる。
「なんだこの音。意識を持っていかれた……」
「あたしも。いつの間にか、知らない海岸にいて……」
モニターでは、演奏を終えた順也たちに会場からの、鳴りやまない拍手の嵐が続いている。
『お客・のお呼び出・を申し上・ます・・・』
言葉では表現しきれないような、壮大で人を飲み込む音楽。俺たちは脱帽し、ただただ立ち尽くしていた。
これが真由美さんの言ってた、プレッシャーというやつなのか……。
『お客様・中に・川・男様い・っしゃいまし・ら至急、入口ロ・ーまでお越・ください』
控室にいた他の出場者たちのざわめきで、場内アナウンスは聞こえない。
「では最後、黒井・高橋さんペアお願いします」
進行係が、俺たちの出番を告げる。
順也の音楽を前にした俺たちは、絶望感を隠し切れない足取りで、フラフラと舞台袖までの通路を歩く。
途中、開いたドアの隙間から会場ロビーが見えた。
そこには、しおりのじいさんに何か伝える
何やってるんだ2人とも……しおりはどうした……。
思いもよらない光景に、俺の気持ちは舞台から遠ざかっていった。
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