32 鬼が不機嫌な理由


社員旅行2日目の夜、あの下らない痴話喧嘩に巻き込まれた後、私と課長は良也と木野さんに完全に拘束された。


二人して別れて私達と付き合うなどという戯言を繰り返し、ベタベタと接してくる。


まあ、それだけだったらウザい奴等に引っかかってしまった、と後から笑い話にできた。


しかし、事態はそんな簡単なところには収まらなかった。


予想外な行動をとったのは木野さん。


今思い出してもどういう思考回路からそこに行きついたのかがさっぱり分からない。


くっつくのを引っぺがすという行動を繰り返し、なんとか旅館にたどり着いた私達。


ロビーでどこまでもついて来ようとする2人を何とか引き剥がそうとしていると、数名の女性社員が今まで姿の見えなかった課長が現れたことをどこからともなく聞きつけてロビーに集まってきた。


当然これ見よがしに課長にくっつく木野さんがそれらの女性社員に見咎められ、あれよあれよという間に課長の周りは騒然とする。


私もそうだったが皆が皆お酒を飲んだ後だったものだから冷静な判断をできる人がいない状態になっていたんだろう。


課長は飢えた女豹達に囲まれて勝手な奪い合いをされてしまっており、自然と少し離れたところから眺めることになった私の目にはその機嫌がものすごく悪くなっていくのが分かった。


ああ、なんて可哀想なんだろうかと他人事のように見ていた私だったが、突然背中と肩にどしりと重みが掛かった。


「陸ぅ。こんな馬鹿な女ばっかりなところ早く抜けて、もっとちゃんと話のできるところに行こう」


良也が背中から私の肩に腕を回して来たのである。


柔道でも習っていたら確実に投げ飛ばしていたところだったけれど、生憎私はバレーボール一筋だった。


「ちょっと離してよっ」


「やだ。ああ、やっぱり陸の方が落ち着く気がする」


「馬鹿なこと言うな!」


出来る限りの抵抗をするが、なかなか振りほどくことが出来ずに悪戦苦闘していると、より強い力が肩にかかり良也から引き剥がされた。


「別れた男が気安く触るんじゃねぇよ」


はっとして見上げれば、これでもかというくらい不機嫌な顔で課長が良也を睨んでいる。しかも、言葉遣いがオフモード。


マズイ。


何がマズイって色々マズイ。


私が本能的にそう感じたとき、今度は右腕が引っ張られる。木野さんが私の腕に絡みついてきたのだ。


「川瀬先輩ばっかり榊課長に構われてずるいです」


「えっ、いや、同じ部署だからさ」


適当な事を言って誤魔化して、それより良也が私に構うことの方を気にしろと心で突っ込みを入れたが、木野さんは完全に課長のことしか考えてないご様子。


「同じ部署だったら榊課長は私のことも可愛がってくれるんですか?」


木野さんは私越しに課長を可愛らしく見上げる。課長はその顔を見ようともしない。


「馬鹿なことを言うな。そもそも川瀬以外の女子はうちの課には入れない」


「どうしてですか?」


「川瀬と同等のレベルで営業が出来る女性社員は現状うちの会社にはいない」


「川瀬先輩と同等に仕事が出来たら課長は他の女子も構ってくれるんですか?」


「あのなぁ……」


まるで子どものような木野さんに課長がほとほと呆れたように脱力する。けれども、おかしな方向に流れた話はそのままおかしな方向に流れ続ける。


「……そっかぁ。榊課長は真面目だし相手になる女は仕事が出来てなんぼよね」


「川瀬さん以外の女子が課長の近くにいたところとか見たことないし――」


「一課で働くってやっぱりポイント高いんだ」


周囲に集まっていた女性社員達が口ぐちに呟く声に私は完全に冷や汗状態だ。


オカシイ。流れが。確実に。


そしてこの流れは確実に――。


「今から一課で働けるように全力で頑張るんで、一課の一員になれたら課長は私のこと見てくれますか!?」


グッと私の左肩を掴んだままだった課長の手に力が籠るのが分かった。


痛い……。けれどそれ以上に――。


私は恐る恐る課長を振り返る。


――ぎゃあ!


私は心の中で悲鳴を上げた。


けれども、課長の雰囲気の変化が分からない周囲の女子は勝手に盛り上がりだす。


頑張って一課に入れば自分にもチャンスがあるんじゃないかと。


私はあまりの状況に黙っていることに耐え兼ね、恐る恐る課長に声を掛ける。


「かっ、課長?」


私の声は届いたようで、課長はゆっくりと口を開いた。


「舐められたもんだな。ここまで馬鹿ばかりだと、呆れてものも言えない」


「あ、あの」


課長の呟きは私の耳にしか届かなかったのか、それとも信じられないくらい物怖じしないタイプなのか、木野さんは未だに課長の返事を待っている。


けれども課長は何も言わず、私の肩を強引に引っ張てその場を去ろうとした。


「どうなんですか、榊課長」


木野さんは食い下がった。


すると課長は軽く振り返り、付き合っていられないと言わんばかりに私には恐ろしいとしか思えない言葉を放った。


「そういうのは自分で結果を出した上で実力で確認しろ」


何てことを言うんだ!


私が慌てて振り返り、背後の女性社員の顔を確認した。そして、その場で頭を抱えてしゃがみ込みたくなった。


木野さんを中心にした数名の顔が本気のそれだった。





その後の旅行中、課長は拍車をかけて不機嫌だった。


さらに、休みが明けての初日。


エントランスロビーで課長の出社を待ち伏せしていた木野さんが公衆の面前で再び「本気で営業一課を目指しますので、見ててくださいね」と他の複数のライバルと並んで宣言までしてしまったもんだから、課長を巡った女性社員の転属バトルはあっという間に社内に噂として巡り巡って周囲の知れ渡るところになった。


勿論そんな状況を課長が快く思うわけがなく、ここ1週間というもの、ものすごくご機嫌が悪い状態が続いているのだ。


「恋愛は人の自由だけどさ。一課に入れば課長がなびくっていう謳い文句はかなり逆鱗モノだよね」


上原さんは肩を落とす。


「課長のとことん仕事に真面目でストイックなところって何だかんだで一課の人間しか身を持って知らなかったってことですよね」


「あんなにオンとオフの激しい人が仕事と色恋沙汰を交えるわけがないのに」


「けど宣言に参加した社員はかなり本気みたいですよ。木野さん以外は2課か3課で元々営業畑みたいですし。ここ一週間かなり集中して仕事しているみたいでぐんぐん成績伸びてるらしいです」


「知ってる。2課3課の人はやる気が出て営業成績が上がるならウェルカムだって喜んでる人もいるみたい。まあ、我らが課長様はそんなに簡単に成績が上がるなら、なんで今まで低かったんだってお怒りになるところだろうけど」


「そうですよねぇ」


私と上原さんは同時にため息をついた。


そのタイミングで昼休みが終わり皆が一斉に動き出したので、私達も鬼に捕まらないように自らの仕事に頭を切り替えた。

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