9 帰り道、鬼が悪い男になりにけり

その後接待は直ぐにお開きになり、渡辺部長と坂上課長をそれぞれ手配したタクシーに乗せてお見送りする。


渡辺部長は課長がとても気に入ったらしく笑顔で握手を交わした後、タクシーに乗り込んだ。


坂上課長も課長と握手をして、その後私にも握手を求めてきた。


差し出された手を強く握り返した。


「来年も君が来ることを楽しみにしているよ」


「ええ。またお会いできるように全力を尽くします」


坂上課長は手を解くと笑顔でタクシーに乗り込んだ。


2台のタクシーは順に出発し、私と課長はタクシーが見えなくなるまで頭を下げていた。


そして、タクシーが見えなくなった瞬間。


「「あーー、疲れた」」


私はその場でしゃがみ込み、課長は店先の壁面にもたれかかった。


「えー、どうして課長がそんなに疲れてるんですか。私がどんだけ大変な目にあったことか…」


「馬鹿言え。得意先の部長と話す機会なんて滅多にないんだ。どれだけ神経擦り減らしたか。オマケに川瀬とあの人が途中で消えてどれだけ俺が焦ったと思ってる」


そう言われると、申し訳ないような気分になるけど、私は自分の身を守るだけで精一杯だったんだからしょうがない。


「そんなこと、言われても私の方が――」


文句を全部言い終わる前に課長が壁から背を離し、驚いた事に私に手を差しのべてきた。


「そうだな。どう考えても今日はお前が一番大変だった。良く頑張ったな」


前に一度だけ見た普段は見せない柔らかい笑顔を向けられて、私の心臓はトクンと跳ねた。


オフの顔だ……。


「……ありがとうございます」


指し述べられた手を遠慮がちに掴んで、立ち上がる。


「さて、帰りはどうする。俺達もタクシー乗るか?」


腕時計を見るとまだ夜の9時を少し過ぎたところ。


ここから、駅までは徒歩15分くらいだったはず。


「いえ、夜風も気持ちいいし、酔い醒ましに歩いて電車で帰ります」


「そうか。じゃあ俺もそうする」


そうして、二人で駅に向かって歩き出した。


道中課長は完全にオフモードになっていて、仕事の堅苦しい話はせずに、たわいもない話ばかりをして帰った。


久々に見る気軽な雰囲気の課長はまだ私にとって新鮮で二人きりだと少し緊張したけれど、楽しい時間ではあった。


混んだ電車に二人で乗り込み、普段は有り得ない至近距離に課長がいるのにはかなりドギマギしてしまった。流石は営業マンと言うべきか、嫌味にならない程度に身だしなみに気を遣っているようで、ほんの少しだけ爽やかな香水の香りがした。それが思いの外好みの香りで疲れた体に心地良く、電車の中だからと静かにしていると立ったままうとうとしてしまった。眠気に負けて、セルフ膝カックンしそうになったのを一回だけ課長に助けられ、赤っ恥だった。


私も課長も通勤の便が良いようにと会社の近くに一人暮らしをしているので、会社の最寄り駅で降りて改札を出る。


「川瀬の家はどっち方面だ?」


私は自分のアパートの大体の位置を伝えると、「ならそんなにうちと遠くは無いな」と課長は呟いた。


遠く無いと言ったが確認してみると課長の家は私のアパートから会社を挟んで反対方向にあるらしい。


駅からは全く別の道を帰ることになるはずなのだが、


「ほら、行くぞ」


私の家方面に歩きだしてしまった。


「あの課長、私なら送っていただかなくても大丈夫ですよ。まだそんなに遅い時間でも無いですし」


「電車の中で立ちながら寝そうになっていたやつがよく言う。余計な遠慮はするな。行くぞ」


強引に言い切られていまい、渋々送ってもらうことに。


私のアパートは駅から歩いて20分。


接待での酔いが少し覚めた頭で歩いていると、自然に会話が少なくなり沈黙が訪れる。


けれど、それが思いのほか心地よく、私はのんびりとした気分で進んでいた。


すると私の歩調に合わせて歩いている課長が唐突に口を開いた。


「――しかし、今日の川瀬には本当に驚かされたよ。まさかここまで上手くいくとは思ってなかった」


「そんな。私は自分のできる事をやったまでであって、課長や上原さんのフォローがなかったらこんなに上手くは行きませんでしたよ」


「でも、坂上課長の無理難題を断ったのはお前の力だよ」


「無理難題?」


「廊下の奥で迫られてたろ? 丸聞こえだったぞ」


「ええっ!!」


課長にあのやり取りが全部聞こえていたってこと!?


ていうか、だったら早く助けてくれれば――


「因みに助けてくれれば良かったのに、ってのは無しだ。あそこで俺が出て行っても会社にはなんの得にもならんからな」


「ひどい…」


言っていることは尤もなんだけど、納得いかない気分。


私が頬を膨らませると、課長はそれを見て微笑んだ。


「悪かったって。ただ、本当にヤバかったら出て行く覚悟で立ち聞きしてたんだぞ」


申し訳なさそうに僅かに眉尻を下げられ、返す言葉を失った。


「それでも、お前は俺の手助けなんかなくてもあの人を言いくるめやがった。本当に大したもんだよ」


「そんなこと、ないです」


再び恥ずかしいことを聞かれていたというショックと、褒められたことによるくすぐったさで声が尻すぼみになっていく。


全部立ち聞きされていたかと思うと顔から火が出るほど恥ずかしい。


あの時は必死だったし、小細工をする余裕はなかった。


でも、それをこんな風に誉めてもらえるとは思っていなかったから、どうにも心の据わりが悪い。


二人でゆっくり歩く住宅街、再び沈黙が二人の間に出来た。


今度の沈黙はどうにも気になってしまい暗がりの中私は隣を歩く課長の顔を盗み見た。


お酒が入っているために、少し顔が赤い気がする。


そして、完全にオフモードなのか恐い雰囲気が全くない。


ここまで醸し出す空気を換えられる人は見たことがない。


見つめた顔の整った唇が動く。


「川瀬は……、いい女だよな」


「………へっ?」


私の聞き間違いか?


思わず間抜けな声を出してしまった。


今課長は何て言った?


「今回の件もそうだけど、普段から恐ろしく仕事はできるし、それでいて高飛車でもなく、明るくて周りを盛り上げる。一課の奴らはお前がいるから普通以上に頑張れてるってやつも多いんだ」


「………」


鬼課長から、恐いくらい誉められて驚き過ぎて声もでない。


「毎年どうすることも出来なかった坂上課長を1日で籠絡したんだ。はっきり言って、俺は自信を無くしそうだよ」


「何言ってるんですか! 課長らしくもない!」


課長は一課の中でも、いや社内全体でもかなり優良な社員で、出世街道まっしぐらのエリートだ。


通常31歳なんて若さでうちみたいなそこそこ大きい企業の課長になるなんてあり得ない。他の課の課長はみんな40歳以上だ。


そんな中、課長というポジションにしっかり腰を据え、誰からもその地位を疑問に思わせない実力とオーラがあり、そして努力を惜しまない人だってことは一課の人間なら誰でも知ってる。


私はそんな課長の姿を見て頑張ろうと思って働くことが何度あったことか。


何故か落ち込んでいる課長を励ますために、包み隠さず自分の尊敬の念を伝えると課長はクスクスと笑った。


「川瀬、誉めすぎ」


そしてその笑顔そのままで


「優しい奴だな。益々いい女」


そんな風に言われてしまうと、顔が赤くなってしまうではないか。


いつもと違う雰囲気の課長に自分のペースを乱されドギドキしながら歩いていると、私の住んでいるアパートが見えてきた。


すかさず、話題を逸らす。


「あっ、あれが私の住んでいるアパートです。あんまり綺麗なところじゃないですけど」


課長は視線をアパートに移して「へぇ、川瀬っぽいな」一人納得している。


川瀬っぽいってどういう意味なんだろうか…。


目の前の私の住むアパートはシンプルな白い外壁の二階建て。築8年くらいだったかな。


私の部屋は二階の角部屋。


入社してすぐに越してきたマイルーム。


こじゃれた雰囲気の欠片もない、ごく一般的なアパートだ。


そうして、私たちはアパートの前にたどり着き立ち止まる。


備え付けの駐車場で課長を振り返りお礼を言う。


「お疲れのところこんなところまで送っていただいて本当にありがとうございました」


「ああ」と課長は心ここにあらずな顔でアパートに視線を向けながら相槌をうった。


しかし、その後すぐにその視線と正面からばっちり目があう。


「川瀬」


なんだか凄く真剣な表情。


でも仕事のときのそれとは違う気がする。


「なんでしょうか?」




「俺と付き合わないか」







…ん?


えっ?


ええ!?


課長の発言の意図が読めず、私は混乱した頭で聞き返す。


「なっ何にお付き合いすれば良いのでしょうか?」


私の問いに、課長は怪訝な表情で見下ろしてくる。


「バカか?」


バカ!?


いやいや、何をおっしゃいますか!


おかしな事を言っているのはどう考えても課長のほうだ。


「バカじゃないです! 課長が意味のわからないこと言ってるから――」


「わからないなら、もっと分かりやすく言ってやるよ」


言って課長は私の腕を掴むとぐっと引き寄せた。


また電車の中と同じ距離。またあの香水の香りが鼻先をくすぐってきた。


けれども今は正面から見つめられて、金縛りにあったかのように目を逸らすことすらできない。


「俺の女にならないか?」


甘過ぎる囁きに脳内が沸騰した。


「そっそんな、いきなり言われても…」


「いきなりもなにもあるか、こういうのは普通いきなり言うもんだろ」


それでも、課長からそんなこと言われるなんて、地球のこの場に隕石が今落ちてくることくらい有り得ない。


掴まれた腕から体温の高い課長の熱が伝わってくる。そしてその熱よりも何倍も高く自らの体温が上昇する。


課長の掌の熱さと、私が放つ熱とが混ざって触れ合った部分がどんどん高温になっていく。


そんなイメージが湧くのに、それ以外のことが何もわからない。


「なんとか、言えよ」


低くてまた甘い声。


強い瞳に促されても、しどろもどろになるだけだ。


「いっ今まで課長をそういった対象に見たことがありません。おっお付き合いするなんて想像もできません」


思ったことを口にするしか出来なかった。


「YesかNoかと言えば?」


聞かれて戸惑ってしまう自分がいる。


良也のことはもう大分ふっきれているけど、まだ、誰かと恋愛する余裕がない。


だから、今の答えは――


「…Noです」


悲しい顔をさせてしまうのではないかと、思って見上げた顔には獣のような男の笑顔があった。


「生意気」


えっ?


課長の唇が動いたのを確認したすぐあと、掴まれていた腕がさらに引き寄せられた。


無防備だった私の体は難なく課長との間にあった少ない隙間をなくし、気がついたときには――


――私は課長の腕の中にいた。


一瞬本当に何が起こったのかわからなくなって停止した思考と体だったが、直ぐに従来の機能を取り戻した。


出来る限りの力を腕に入れて、課長の胸を押し返そうとすると、ぱっと腕はほどけた。


再び私と課長との間に空間ができる。


一瞬拍子抜けしたけれど、すぐに今一番すべきことをしろと脳内から命令が出た。


「なっ何するんですか!!」


夜だというのに声を大にして抗議した。


何故、告白をされてNoと答えたのにこんなことをしたのか。


意味がわからない。


「何ってわからないのか?」


課長はまだ獣のような鋭い目のまま意地悪な笑みを浮かべる。


「そうじゃなくって、なんでこんな事するんですか!?」


「さっき言ったろ。俺はお前を自分の女にしたいって」


「でも、私はNoって――」


「それは問題ない」


私が言い切る前に遮られる。


課長は余裕のある表情で私の頬に手を伸ばした。熱を持った指先が触れる。


「簡単に落ちる女より断然イイ。時間をかけるのも悪くない。お前は――」


――お前は必ず俺の女になる。


きっぱりと言い切られた言葉は異様なほどに頭に響いた。


いっ意味がわからない!


頭が混乱して何をどうしたらよいのかがさっぱりわからない。


ただ、これだけは言える


「ぜっ、絶対課長の女になんかになりません!!」


私は課長の腕を思いっきり振り払い、全力で自分の部屋に走った。


外国人じゃあるまいし、いきなり抱き付いてくる男なんて願い下げだ!


背中に視線を感じたけれど、絶対に振り返らない。


不適に笑ってこちらを見ている課長を見たところで、今の私にできることなんてないのだ。

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