4−3「亡霊」

(ごめん、ママ。帰ってきちゃ…ダメだよね)


 干し草と雨の湿った匂い。

 甘いシナモンの香りが混じる家の中で、戸口に立つ女性。


(子供も日本から連れて来ちゃった。アイツがどうしても許せなくって)


 そう言って亮の横を通り過ぎ、女性は靴のまま家の中へと入っていく。


 …マットが敷かれた玄関。

 キッチンには沸騰したケトルとテーブルの上の英字新聞が見える。


 彼女の話す言語は理解はできるものの耳慣れない音を含み、亮は今自分がいる場所は海外の家ではないかと推察した。


 女性の手にひかれるのは幼い少年。みれば、女性は前と後ろにそれぞれ幼児を背負い、全身に疲れた雰囲気をまとわせて母親に子供を預ける。


(日本ではさ、母親は一人で子供の世話をするのが当たり前なんだって)


 結んでいた髪をほどき、深いため息をつく女性。


(ましてや育児をする身で仕事をするなんてナンセンス。あげく、家事はすべて妻が行って、食事は夫の残り物を食べるのが当たり前なんだって)


 ソファに腰掛け、うつむく女性…その目には涙が浮かぶ。


(こんなの一人の女性に、人にすることじゃあないよ)


 ついに堪えきれなくなったのか、母親に抱きつき大声で泣く女性。


(ねえ、ママ。私のしていること間違ってる?『郷に入れば郷に従え』って言うけどさ。ことわざにだって限度ってものがあるじゃない。夫もリストラにあってから四六時中家で私に当たり散らすし…もう、どうしようもなくて)


 ぐすっ、と鼻を鳴らす女性。


 みれば彼女の首や腕には青あざが見え、亮は彼女が日常的に夫に暴力を振るわれていることがわかった。


(ママ、言っていたじゃない。日本は良いところだって。水もご飯も美味しくて。何より、向こうの人たちは誰も彼もが優しいって。ママの生まれ故郷とも聞いていたのに、どうして…!)


 言葉を続けながらもしゃくりあげる女性に、母親は(そうね、私の可愛い子)とつぶやき、そっと彼女を抱きしめる。


(そこは、もう私の知っている故郷じゃないのかもしれない)


 女性の頭を撫でながらも、どこか悲しそうな顔をする彼女の母親。


(私があの土地を離れてからずいぶん年月が経つからね。その間にも、いくどか社会情勢も変わって…月日が経つうちに、いつしか大切なものを失ってしまったのかもしれない)


 それに女性は(…じゃあ、もう戻らなくてもいい?)と顔をあげる。


(ママの故郷だけれど。夫を置いてきたけど。そんな私を許してくれる?)


(そうね、でも…)


 そして、女性の母親は何かを口にする。

 だが、それ以上の言葉を亮は耳にすることができない。


 亮の視線の先。

 そこには先ほどまで女性の腹に抱かれ、今はソファに置かれた幼児がいた。


(お前は、俺たちと似ている)


 幼児の口元が動くと、ソファの背後に黒い二つの影がのびていく。

 それはいつしか言い争う男女に変化し、二人の声が亮の鼓膜こまくを揺らす。


(やめて、ぶたないで!)


(日本人の血が混じっているのなら、俺の言うことぐらい聞けるだろ!)


 …それは、幼児おさなごの視点。

 世の中の分別もついていないような子供が目撃した光景。


 女性に暴力をふるう男性。

 男の目は不意に幼児へと向けられ…そして。


「…どうしたの、涙なんか流して。そんなに贈り物がすごかった?」


 気がつけば、亮の前でマーゴがはにかむように笑っている。


 手には小さな細工の入った箱。

 上には穴の空いた看板の時計。


 彼女が、無事に贈り物を取り出せたことが亮にも分かる。


「ねえ、どうし…」


 同時に、亮は見た。


 モールの中。

 空中に広がる粒子の集まり。


 亮の肉体に被さり、神経を動かすそれらこそが、拡張された【ラム】の肉体の一部の正体であることに。


 そして床に溜まる【方舟】の記憶により出た水。

 そのあいだに見える、細やかなヒビ。


 ヒビは空間の中にはびこる根にも見え、空中にまで張り出したそれは【ラム】の粒子を蜘蛛の巣のように絡め取り、亮の体内に入っていこうとする粒子も今やほんのわずかとなっていた。


(これは…)


 そのときに感じた背後の懐かしい香り。

 振り向けば空間の根のあいだにほころびが生じ、見慣れた風景の一部が覗く。


 一連の光景。

 不意に気づいた出来事の数々。


 …そのとき、どうしてそんなことをしたのか。未だに亮はわからない。


 ともかく、この場所から逃れようと。

 今すぐ安全な場所に移ろうと。


 その一心で亮は【ラム】の影響力が弱っている体を動かし、マーゴの手を取ると一番近い綻びの中へと一気に飛び込む。


「…え、ここは?」


 気がつけば、亮たちの足元に膝丈までの雪が積もっていた。


 しんしんと雪が降る中。

 亮とマーゴは雪道の真ん中に立っている。


「緯度がずれた…ううん、私たちが瞬間移動したのかしら?」


 驚くマーゴの声に(あーあ、やっぱり【根】のある土地の人間は厄介だな)と声がする。


 それは、かすかに亮と空間で繋がる【ラム】の中心にいた男の声。

 しかし、距離が離れているためか、声はどこか遠くに感じられる。


(距離は声で分かるからな。待っていろよ、迎えにいくぞ…!)


 男の声にはどこか焦りが混じり、この場所がモールから離れた位置にあることを亮は思い出す。


「着いてきて!」


 ついで、マーゴの腕を取るとそのまま雪をかきわけつつ前に進む亮。


「ちょっと、ここがどこかもわからないのに!」


 降りしきる雪に足をとられるマーゴに亮は「わかってる!」と叫んだ。


「この道の先にある土手は夏には花火を見れるところだ。季節こそ、今とは違うけれど、俺はこの道を毎日のように歩いていた!」


 ついで、たどり着いた家。

 一軒の家の前で亮は足を止める。


「帰って来たんだ。俺の家に…!」


 目の前に見えるのは雪こそ積もってはいるが、まごうことなき亮の家。

 マーゴはその様子に「そっか、ここが…」と言ってブルリと震える。

 

「それにしても寒いわ、早く中に入りましょう」


 亮はそれに「ああ」と答え、二人は一時、亮の家へと身を寄せる事になった。

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