第3話「あやまち」



(俺は、こんなに意思が弱い人間だったのか……)


 このままだとダメだと分かってる、でも、真衣の手を振り解けなくて。


「到着しましたよっ、秋仁先輩!」


「あ、ああ……」


 大学最寄りの駅から次の次の駅、その近くの住宅街にある一軒家が親友である有城の、そして真衣の実家だった。

 高校の頃から何度も来たことがある、見慣れている筈なのに今ばかりは知らない家のように思える。

 ふわふわと足下が覚束ない、もしかして、そんな浅ましい期待感と妙な緊張感。


(何だよ、これ――)


 ぎゅっと胸が締め付けられる感覚を覚え、秋仁は真衣と繋いだ手を離し胸を押さえた。

 くらくらする、まるで罪を犯してしまうような浮つき。

 玄関扉は彼女によって開かれた、けれど足は動いてくれない。


「ぁ――」


「罪悪感っすか? いいんです、だって先輩は裏切られたんです、もう恋人じゃないんです」


「真衣、ちゃん」


「悪いのは私です、弱った先輩につけこむ卑怯者。秋仁先輩は被害者なんです、だから……お持ち帰りっす」


 真衣は苦しそうに胸を押さえる秋仁の背中をそっと押して、するとどうだろうか足は前へと踏み出す。


「……お邪魔します」


「はいっ、ようこそ先輩! じゃあ私は用意してくるんで私の部屋で待っててください! あ、でも下着を漁っちゃだめっすよ~~っ」


「用意?」


「忘れたっすか先輩、今日はぱーっと呑みましょう! お酒とおつまみ用意してくるんで期待して待っててくださいっす!」


「………………ありがとう、真衣ちゃん」


 明るく振る舞う彼女に、秋仁は心が少しだけ軽くなった気がした。

 準備の為にリビングへ行った彼女の背中を、どこか鈍った心で見送って。


(真衣ちゃんの部屋は、二階の有城の隣の部屋だったな)


 階段を登り、少し緊張しながらドアノブを回す。

 彼女の部屋の中へ入った事はない、けれど扉の外からは何度か見ている。

 だが、実際に入ってみると妙な既視感があって。


(似てる……? いや、駄目だろ俺。女ってだけで重ねてるのか?)


 前と変わらず無機質さがあるも、机や棚に飾られた小物やぬいぐるみは。

 女の子が昔から使っている部屋、という印象を強く与え。

 

「――ったく、有城の部屋にしてもらえばよかったぜ。流行ってんだろうな、どれも海恋の部屋で見たことあんぞこれ」


 同じ高校に通っていたのだ、嗜好が似通っているならこうなるのかもしれない。

 秋仁は苦笑をひとつ、どかっとカーペットが敷かれた床に腰を下ろした。

 そのままボンヤリと待つこと十五分、階段を上がってくる音がして。


「はいはーーいっ、おー待たせしました先輩! 貴方の真衣が来ましたよぉ!!」


「お、やっと来たか。…………ほぅ、また妙にお洒落なツマミを作ってきたな」


「こんな事もあろうかと! 手早く作れるオツマミレシピと材料は常時ストックしてあるんです!」


「なんだよそれ、しかも着替えてやがるし」


「ふふーん、三日前に買った新品ですよ。家族にもお披露目してない新衣装っす! いやー、先輩の視線を釘付けにしちゃって申し訳ないですねぇ~~!」


「はいはい、とっとと乾杯しようぜ」


 真衣が着替えたワンピースは、どこか見覚えがあった気がしたが。

 秋仁は気のせいだと頭を振り、缶ビールを手に取る。


「――失恋記念日に、乾杯っす先輩っ」


「お前……容赦なく抉ってくるよなぁ。まあ今日はそれぐらいで丁度いいけどさ、――乾杯」


 コツンと缶をあわせて、宴が始まる。

 普段、あまり飲まない酒でむしろ苦手まであったが。

 二人っきりの酒盛りは、奇妙な安心感があって。

 心地よい酩酊感すらあり、その所為か秋仁は口数が少なかった。


(本当に……ありがたい)


 アルコールが入ったら、己の口は軽くなって。

 きっと海恋のことを大いに嘆き、泣き叫ぶと思っていた。

 聞かせて、と言われたら全てを晒けだしていたかもしれない。


 だが真衣は口に出す事も、視線で促す事もしなかった。

 秋仁が自ら言うのを待ってくれて、いつの間にか隣に座り手を握ってくれていた。

 ただ、酒を飲む音だけがして。


(こういう慰め方もあるんだな)


 きっと、理解してくれていたのだ。

 秋仁に必要だったのは、捌け口ではなく温もりだと。

 やけ酒ではなく、静かに酔う場所だったのだと。


(それはそれとして、だ……)


 思考が鈍る中、秋仁は目を反らした。

 いつの間にか視線が真衣の首筋に行っている、何度外してもまた首筋を見てしまって。

 告白されたからだろうか、親友の妹なのに。


(――ッ、考えるな。今は考えるんじゃない、そんな雰囲気じゃないだろう?)


 体が重く感じる、きっと眠いのだ。

 このまま寝てしまうのもありだと、そんな気すらしてくる。

 だから、彼女のほんのり赤く染まった首筋が妙に艶めかしいなんて気づいていないのだ。


「あー、そろそろ限界っすか? じゃあ今日はそろそろ寝るっすね? じゃあ添い寝してあげるんで、ちょっと待っててください。トイレ行ってくるっす」


「…………おー、分かったぁ……」


 離れていく温もりに恋しさを覚え、しかし引き留めることなく秋仁は彼女を見送る。

 欲望のままに振る舞って、彼女に恥をかかせる訳にはいかない。

 ぼぉっとしながら待ち続けていたその瞬間であった、彼は酔いが醒めたように目を見開いて。


「――ふふっ、待たせたわねアキ君」


「………………ぇ? み、海恋?? あ、え? い、いやでも――??」


「どうしたの? そんな変な顔して、ここは“わたし”の部屋なんだから“わたし”が居るのは当たり前でしょ?」


「ま、まさか――……ッ!? うぇッ!? いや真衣ちゃん!? 真衣ちゃんだよな!? はぁッ!? どうなってんだよソレ!?」


 秋仁は勢いよく立ち上がった、酔ってなんていられない。

 けれど意志に反して頭はくらくらして、しかしアルコールの所為だけではなく。

 だってそうだ、見覚えがある筈だ、ここまでされたら誰だって理解する。


「どうっすか先輩? ――それとも、アキ君って呼んだほうがいい?」


「お前なぁ……、どうやってんだよ。胸以外は完璧に海恋じゃねぇか!? は? 髪とかどうなって? ウイッグ付けただけで海恋になるのか? いやそうじゃないッ、いったい何の為に海恋そっくりにコスプレしてんだよテメェ!?」


「あら、言わなきゃわかんないのアキ君?」


「――ッ!?」


 意味が分からない、訳が分からない。

 なんで、どうして、そんな言葉がぐるぐると堂々巡り。

 さっきまで真衣だった存在は、どうみても幼馴染みの海恋で。


(声……、確かに真衣ちゃんなのに、糞ッ、笑い方とか海恋そのものじゃねぇか!!)


 近寄ってくる彼女に対し、秋仁は何も出来ない。

 困惑もある、それと同時に愛しさが沸き上がってくる。

 好きなのだ、ずっと幼馴染みで、今も愛してるのだ。


「やめ……、やめてくれよ真衣ちゃん……何の為にこんなコトすんだよッ!!」


「何のため? 男女が二人っきりで同じ部屋でお酒を飲んで……、その後なんて一つしかないと思わない?」


「…………俺に、その気はない」


「ふふっ、残念。“わたし”にはあるの。そして、ほら――――、アキ君は抵抗できない」


 トン、と軽く突き飛ばされ、秋仁はベッドに倒れ込んだ。

 彼が起きあがるより先に、彼女はその上に馬乗りになる。


「くッ、……今なら冗談で済ませる、見なかったコトにして帰る、だから――」


「――帰りたくないって言ったのはアキ君でしょ?」


「その口調を止めろッ、なんで海恋の真似をする!! 俺はまだ真衣ちゃんとそんな関係になりたくないし、何より間違ってるッ、なんでお前が海恋になりきってるんだよ!!」


 痛い、心がズキズキと悲鳴をあげる。

 目の前にいるのは真衣なのに、秋仁には海恋にしか見えない。

 声だって、肌の感触だって違う筈なのに海恋が目の前にいると錯覚してしまう。


「駄目だ、こんなの駄目だッ、退いてくれ俺は帰るッ」


「ふふっ、――もう手遅れよアキ君」


「手遅れだって?」


 その刹那、秋仁の視界がぐにゃりと歪んだ。


「な、んだ? こんなにも俺は酔っぱらって――ッ!?」


「油断したっすね先輩、ちょっとづつアルコール度数を上げても気づかないんですから。――本当に“わたし”とお酒を飲むだけだって、そう思ったのアキ君?」


「真衣ちゃんッ!!」


「そんな顔しないで、アキ君が悪いのよ? だって本当のわたしを寝取られちゃうんだから。ずっと……ずっと気持ちに蓋をして、いつかは忘れようって思ってたのに。――あはっ、もう……我慢、できない」


「ッ!?」


 海恋/真衣の指先が秋仁の首筋を撫でた、潤んだ瞳はカラーコンタクトをつけているのだろうか海恋と同じダークブラウンで。

 本来の色は吸い込まれそうな黒なのに、声のトーンだって一段低く落ち着いた感じが。

 どうしようもなく錯覚させる、愛する人だと訴えかけてくるように。


(動け!! 動けよぉッ!!)


 ふふ、と彼女が笑う、服のボタンが外されていく。

 抵抗できない、脱がされるのを、脱いでいくのを見ているしかできない。


(――――怖、い。なんで、なんでこんなに怖いんだ)


 犯される、恋人の姿をした恋人でない存在に。

 親友の妹だった筈だ、密かに慕ってくれていた女性だった。

 こんな事をする人には見えなかった、予想すらしてなかった。


(俺の目の前にいるのは……誰だ?)


「怯えないでアキ君“わたし”が悪いの、貴方を逃げれなくして襲ってしまう私が悪いから――……安心して“わたし”の温もりだけを感じて?」


(違う、違うのに)


「呼んで、海恋って、愛してるって、……ね?」


 分からなくなる、本物より本物のように感じる。

 考えてしまう、あんな事がなければ海恋は今みたく秋仁を愛おしそうに見て、触れて、囁いて。


「俺は、俺、俺は……ッ」


「アキ君は何も悪くない、悪いのは全部わたし、アキ君を裏切って、寝取られて、ずっと側にいたのに」


「言うなッ、言わないでくれ!! これ以上俺を惑わすなッ」


「――――秋仁先輩を愛してるんです、お願いです、今夜だけでもいいから、海恋先輩の身代わりでいいから……抱いて、愛してください。先輩の悲しそうな顔は見たくないんです、だからお願いします……“わたし”の名前を呼んで、ね?」


「~~~~~~~~~ッ、ぁ、い、俺は、俺はぁッ」


 その名前を呼んだら、秋仁の愛は堕ちてしまう。

 もう二度と本物の海恋を愛する資格を失ってしまう。


(アイツはもう、俺を異性として愛さないのに?)


 ぐらりと心が揺れる音がした。

 はぁ、はぁ、と呼吸する音がうるさい、きーんと耳鳴りがする、うるさくてしかたがない。

 今すぐ手を延ばして抱きしめたかった、そうしていい理由ができてしまった。


「お願い、アキ君……。名前を呼んで? 今の“わたし”は貴方だけを好きな“わたし”」


「――――――卑怯者め」


 はたしてそれは、本当に真衣に向けた言葉だったのだろうか。

 辛い、苦しい、秋仁は喪ったのだ。

 でも名前を呼ぶだけで、例え偽りでも、今夜だけなら。


「…………海恋」


「ふふっ、そうよ。“わたし”こそアナタだけの海恋」


「海恋」


「嗚呼――、もっと、もっと名前を呼んで、抱きしめて欲しいのアキ君」


「海恋、海恋、海恋…………ッ!!」


 違うのに、声色が。

 違うのに、その匂いが。

 違うにに、体温の高さが。

 違うのに、違うのに、違うのに。


 重なってしまう、偽物だと分かってるのに、心も体も本物だって思ってしまう。

 名前を呼んでしまったから、もっと分からなくなる。

 否、もうそんな事はどうでもいいのかもしれない。


「ううッ、海恋! 俺は、俺はお前を、お前が――」


 秋仁の腕が海恋/真衣の体に延びる、強く抱きしめる。

 彼女はベッドに倒れながら、彼の頭を大切に、優しく抱きしめ返して。

 だから彼は、彼女の口元が歪んだのを知らなかった。


(本物より本物らしいっすよね秋仁先輩、嗚呼。嗚呼。嗚呼。、ずっと、ずぅーーっと見てきた甲斐があったっす、この日を夢見ていっぱい練習したんですよ?)


 最初は、どうやって秋仁の好みの女性になれるかと海恋の真似をした事だった。

 それはすぐに、海恋の真似をしている時だけ愛されている様な錯覚に変わり。

 研究に研究を重ね秋仁の嗜好を調べ上げ、本物より本物らしく魅力的な“海恋”へと昇華された。


(だから――わかってても抗えないっすよね)


 真衣は、海恋より海恋らしく微笑んで。


「やり直さないアキ君? 貴方を男して拒絶しない“わたし”の初めて、貰ってくれる?」


「それ、は――」


 まるで悪魔の囁きのようだった、それは秋仁が何より求めていた言葉で。

 くらくらする、下腹が焦燥感に似た快楽で疼く。

 言葉が出てこない、言葉にしてしまえば後戻りできない、取り返しのつかない何かが起こる。

 ――でも、もう彼女の名前を呼んでしまったのだ。


「アキ君が抱いてくれないなら――、葵ちゃんにまた“わたし”を取られちゃうかもしれないわ、それでもいいの?」


 柔らかく笑う顔も、その物言いも、本物の海恋そのもので。

 とうとう秋仁は、考えるのを止めてしまった。


「ふざけんな!! 俺がどれだけお前の事を愛してると思ってんだッ、渡さないッ、誰にもだッ」


「なら……証明してよ。“わたし”がアナタの恋人だって、好きな女の処女をもう一度奪って、今度こそ自分の物にする勇気があるなら」


「言ったな? もう止まらないぞ――――」


「ぁ、…………んっ、は、ぁ」


 秋仁は乱暴に唇を奪った、その瞬間が真衣は何より嬉しくて。

 深く、深く、淫らに恋人のキスをする。


(今夜だけで終わらない、終わらせない。これから沢山、想い出を上書きするっすよ先輩、本物との想い出が、偽物の私との想い出で上書きされて思い出せなくなっても、ずっと――)


 ずっと秋仁に恋人として抱かれるのを待ち望んでいたのだ、今、真衣は幸福なのだ。

 だから胸の奥の痛みは、きっと気のせいで。

 彼女は、愛の営みに没頭しはじめた。


 揺れて揺れて、体は繋がって。

 愛してる、愛してると囁きあい。

 心は繋がらない、埋まらない、どれだけ求めても底の抜けたバケツみたいに満たされない。


(嗚呼、――これは悪い夢だ)


 海恋と初めて躯を重ねた日、彼女は嫌悪感と悲壮感に満ちて。

 こんなに淫らじゃなかった、乱れなかった、愛おしそうな顔をしなかった。

 思い描いていた初体験を、本物の彼女と夢見ていた初体験が今。


(これが嘘でも……俺は――――)


 心のどこかが冷え切っていって、しかし一方で熱く燃え上がる。

 感情がぐちゃぐちゃで、間違っているのに幸せで。


「愛してる、海恋」


「わたしもよ、アキ君。もう二度と離さないで――」



 歪すぎる行為、だが確かに救いだったのだ。

 空が白むまで、秋仁は真衣に溺れて。

 そして翌朝である。


(ぬおおおおおおおおおお、やあああああああああああっちまったぁッ!!)


 気だるさに満ちた体を起こし、冷静になった頭を盛大に抱えた。


(どーすんだ、どうするんだよこれマジでさぁッ!!)


 隣には幸せそうに全裸で寝る海恋、周囲を見渡せば散らばった服、そして一個も見当たらない避妊具。


(詰んだんじゃね?? これもう人生詰んだろ??)


 後悔後にも先に立たず、公園にでも野宿すればよかったのだ。

 彼が青ざめ震える一方、起き出した真衣は後ろから抱きついて。


「おはよ~っす先輩、昨日は素敵でした、まるで天国みたいな一夜で……」


「俺は今、地獄の底にいるんだが?? 昨日は何してくれてんだてめぇッ!?」


「あー、痛むっす、お股が痛いなぁ、処女膜奪われちゃったからかもしれないですねっ」


「それ言われると何も言えないんだが!! 手加減してくれねぇかなぁ!!」


「おおー、いつもの先輩に戻ったっすね?」


 にこにこと屈託なく笑う真衣はベッドから降りると、己の鞄から財布を取り出して1万円を差し出す。

 行動の意味が理解できない秋仁に、彼女は楽しそうに言った。


「はい、処女代っす、家出中で色々困ってるっすよね? 出世払いでいいんで受け取ってください」


「…………は?? なんぞ??」


 脳が理解を拒む言葉に、秋仁は硬直したのだった。


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