第44話 夏の朝

 時間があっという間に過ぎ去っていく。

 空の旅を満喫した日から、さらに一ヶ月が経った。

 壁画の着手から二ヶ月が経ち、作業にも慣れて、完成までの見通しも立ってきた。

 メインの壁画については割と余裕を持って完成できるのではないか、と胸をなで下ろしていたのだけれど。

 ある、夏真っ盛りの日。

 礼拝堂が、焼失した。


 は?


「……は?」


 この世界にせみはいないらしい。夏にあの賑やかさがないのはとても寂しく感じる。

 いや、そんなことはどうでもいい。ただ、燃えかすのようになった礼拝堂を見て、茫然自失してしまった。

 幸いなのか、礼拝堂の中に人はいない。ここの住まう五人は、全員無事。

 そして、燃え尽きた礼拝堂の前には、男女のペア。

 一人は、聖女リーキス。

 もう一人は、リーキスに付き従うトビーという神父らしき男。


「皆様ごきげんよう。ルキアルト教の礼拝堂にて、余所の神を奉っているという噂でしたので、こうして全て焼かせていただきました」


 リーキスが、悪意で塗り固めたような歪な笑みを浮かべる。空色の綺麗な髪が、あまりにも似つかわしくなかった。

 僕たち五人、すぐには反応することができなかった。

 この二ヶ月、毎日朝から晩まで延々と描き続けたものが、焼失した。そのショックは計り知れない。

 そんな僕たちを見て、リーキスは甲高い笑い声を上げる。


「あはははは! 何をそんなにぼんやりしているのです? 私はただ、邪神を奉る礼拝堂を焼き払っただけですよ? 喜びこそすれ、悲しむ必要も、嘆く必要もないでしょう?」


 この子は何を言っているのだろう?

 人の言葉をしゃべっていることはわかるけれど、その意味がどうにも頭に入ってこない。

 何を言えばいいのか。何を考えればいいのか。わからない。


「……なんてことを」


 最初に言葉を発したのは、スフィーリア。

 スフィーリアは怒気を滲ませる歩みで、リーキスに近づく。


「スフィーリア様、どうされましたか? そんな怖い顔をして!」


 あははは! リーキスの笑い声がうるさい。


「あなたは……なんでこんな……っ」


 スフィーリアの手にする杖が発光し始める。

 その瞬間、宙に浮いていたような意識が体に戻る。スフィーリアの元に走った。


「スフィーリア、ダメだ!」


 スフィーリアを後ろから抱き留め、その右手に僕の右手を重ねる。

 僕の力では、スフィーリアをとめることはできない。しかし、スフィーリアはふと力を抜く。光も収まった。


「アヤメ……」

「ダメだ。怒りを……人を傷つけることで解消するなんて、ダメだ……」

「でも! あれには、わたしたちが……」

「絵は、所詮ただの絵だから。描き直せばいい。問題ない」


 問題はある。絵を描き直すことはできても、礼拝堂自体を燃やされては、描き直すこともできない。

 そんなことは、スフィーリアもわかっている。

 ただ、このリーキスたちに逆らってはいけないということは、理解している。

 ここで殴れば、こいつらは圧倒的な暴力で僕たちにやり返してくるだろう。それは予想できた。そういう、くだらない奴らだ。


「描き直すにしても、邪神を奉るなんて許されることではありませんよ? 余所の神をルキアルト教の礼拝堂に描くなどありえません。なぜそんな愚かなことをしようとしたのか、理解しかねますね!」

「……あなたは、その話、どこで聞いたのでしょう?」

「ナギノアの町の人が話していました。町外れに住む聖女もどきが、人気取りのために余所の神を礼拝堂に描こうとしている、と。どうしてそうなったのかは知りませんがね」

「……実際に、礼拝堂の中を見たのですか?」

「はぁ? 見るわけないでしょう? 汚れた邪神の姿など、一目たりとも見たくありませんから!」

「そうですか……。もう、いいです。用事は済みましたか? なら、どうぞお帰りください……」


 スフィーリアがリーキスに背を向け、屋敷の方に歩いていく。

 スフィーリアは、泣いていた。

 ここに来て初めて、スフィーリアの涙を見た。

 その様を、リーキスは実に愉快そうに眺めていた。


「なんと愚かな人でしょう。こうなるのは当然の結果だというのに! トビー、帰りましょう」


 リーキスが去っていく。それを見届けることはせず、僕はスフィーリアの後を追った。

 スフィーリアは、僕の呼びかけに応じずに淡々と歩き、自室へと入った。

 スフィーリアの自室だ。この四ヶ月、スフィーリアが僕の部屋に入り浸ることはあったけれど、僕がスフィーリアの部屋に入ったことはない。

 女の子の部屋に入ってはいけないという遠慮があった。わざわざ入る必要もないという気持ちもあった。

 だけど……今日は、そんなことを言っていられない。


 僕もスフィーリアの部屋に入る。女の子の部屋だけれど、僕の部屋と内装は大きく変わらない。

 ベッドの側で崩れ落ち、突っ伏して泣くスフィーリアの傍らで、僕も腰を下ろす。その背中に手を当てる。優しく強い背中が、震えている。


「スフィーリア……」


 返事はない。

 こんなとき、どうすれば良いのだろうか。

 女の子を泣かせた経験も、泣いている女の子を慰めた経験もないから、わからない……。

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