第42話 不満

 壁画の制作に取りかかると、時間はあっという間に過ぎていく。

 朝から晩まで延々と絵を描いて、休憩は食事、トイレ、風呂、睡眠くらい。

 予想はしていたことだけれど、壁画の制作は非常に時間がかかる。

 画面が大きすぎてきちんとバランスを整えるのも大変だし、色を塗るのも大変だし、陰影の付け方も勝手が違うし、デジタルほど融通は利かないし……。何度も書き直したり、微修正したりする必要もあり、なかなか先に進めない。


 それでも、どうにかこうにか、ほぼ休みなしで一ヶ月描き続けた。

 僕としては、絵を描き続けることに大きなストレスはない。大変だし、辛いと思うこともあるけれど、精神的に大きな負担はないのだ。

 ただ、それはやはり、僕が絵を描くことに取り憑かれたような人間だからであって、他の面子は僕のような精神構造を有していなかった。


「アヤメ様。今日は作業をお休みして、皆でお出かけでもしませんか?」


 早朝。朝食を摂る前にも作業を少し進めようと礼拝堂で準備をしていたら、少し遅れてやってきたスフィーリアに提案された。


「あー、そういえば、毎日ほぼ休みなく描き続けてたね……。ごめん、人の扱い方はあまり考えてなかった……。僕は続きを描くから、他の皆は休んでくれて構わないよ」

「アヤメ様!」

「あ、え、うん?」


 スフィーリアが大きい声を出すので、驚いてしまう。


「アヤメ様も、休んでください!」

「え、でも……僕は平気だし……」

「アヤメ様が平気だとか、そういう問題ではありません。アヤメ様が描き続けていると、他の皆は落ち着いて休めないんです! 上に立つ者が率先して休むのも大切なことですよ!」

「あ……そっか」


 こっちに来て、気づけば三ヶ月。

 スフィーリアからはっきりと怒られたのは、初めてだ。


「アヤメ様は頑張りすぎです。ご自身では頑張っている自覚もないのかもしれませんが、毎日毎日、ろくに休みもせずに描き続けるのはやりすぎです。ちゃんと休憩をしましょう。絵を描くだけの自動人形じゃあるまいし」

「……そうだね。うん。わかった。僕も今日は休むよ」


 僕が承諾すると、スフィーリアがふぅと息を吐く。

 しかし、また少し不機嫌そうになって。


「休みも大切ですけど……もっとわたしに構ってください。

 お願いした身で言うのもなんですけど、毎日毎日絵を描いてばっかり、ゆっくり一緒にお風呂に入ることもできないし、夜はさっさと寝ちゃうし……わたしのこと、ないがしろにしすぎです。

 恋人同士なんですから、わたしのことも考えてください。ずっと側にいるのに、寂しいじゃないですか……」


 仕事とわたし、どっちが大事なの?

 みたいな雰囲気を感じる。確かに、この一ヶ月は絵のことばかりで、スフィーリアとの時間をあまり取っていなかった。

 

「……ごめん。与えられた仕事を完遂しなきゃって、そればっかり考えてた。スフィーリアのこと、どうでも良かったわけじゃ、ないんだけど……」

「それは知ってます。ただ、日頃から、意識の一割くらいは、わたしに向けてください」

「うん……。そうする」

「反省する気持ちがあるのでしたら……ちゃんとしたキスをください。いつまで経ってもセックスはしてくれませんし、ここのところキスもいい加減。ゆっくり落ち着いて、キスをしましょう」

「そうだね。本当、ごめん」


 スフィーリアに近づく。出会った当初から変わらない、美しい金髪。サファイアの瞳に、白磁の肌。

 綺麗すぎて、愛しすぎて。

 この人が僕の恋人だなんて、未だに信じがたい。

 スフィーリアが目を閉じる。僕のキスを待つ。

 なんとなく、だけれど。

 キスをする前に、僕はその体をぎゅっと抱きしめる。

 聖女という立場ながら、僕にとっては一人の女の子。

 優しくて、意地悪で、強くて、脆くて。

 笑って、怒って……要するに、ただの人。


「……僕はきっと、スフィーリアがただの人だから、こんなにも好きなんだな」


 姿を見つめるだけで心が満たされる。

 抱きしめていると、ふわふわと宙に浮いている気分になる。

 スフィーリアから抱きしめ返してもらえれば、心も体も、溶けてなくなってしまいそう。


「わたしも、アヤメ様のこと、好きです。あなたが神様ではなく、ただの人だからこそ、好きです。わたしは神様に憧れますが、恋をしたいと思うのは、あなたです」

「……うん」


 大きく息を吸うと、スフィーリアの香りが肺に満ちる。

 とても心地良い。好きだなぁー、って思う。

 知らずに張りつめていた心が、すっと解れていく。

 しばらく抱き合って、腕の力を弱める。

 それから、改めてキスをした。

 唇を触れ合わせて、お互いの輪郭を知る。

 舌を絡ませて、お互いの内側に宿る熱を感じ合う。

 スフィーリアとのキスで、初めて知った。キスは、とても生々しくて、動物的な行為だということ。

 聖女には似つかわしくない行為。だけど、今のスフィーリアはただの女の子だから、何も問題ない。

 スフィーリアの舌の感触が、気持ちいい。

 五分くらいの長いキスをして、唾液を落としながら、僕たちは離れる。

 スフィーリアは、頬を赤くし、うっとりした顔で微笑んだ。


「やればできるじゃないですか。いつもこういうキスをくださいよ」

「……うん。ごめん。これからはそうする。絵も、少し控えるよ」

「お願いしますね。じゃないと……アヤメ様の意志を無視して、寝込みを襲ってしまいますよ?」

「……そういうのは、絵が完成してからにしよう」

「ん? ということは、絵が完成したら、してくれるんですか?」


 スフィーリアの目がきらりと輝く。


「あ、えっと……いつまでも待たせるのも、悪いし。ただ、どういうタイミングがいいのかとか、よくわからないし……いいタイミングなのかな、って」

「なるほどなるほど? わかりました。アヤメ様。今日のお休みはなしです。一日でも早く壁画を完成させてしまいましょう!」

「ええ!? さっきと言ってることが違くない!?」


 にしし、とスフィーリアが楽しそうに笑う。


「冗談です。今日は休んでください。皆にもお休みが必要です。さ、まずは朝食です!」

「うん。だね」


 手を繋ぎ、食堂に向かう。

 この手は離してはいけないと、今更ながらに、反省しながら。

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