♰Chapter 20:愛憐の鳩
遡ること数日前、水魔法の修練後――……
「――僕だよ。今は忙しいんだけどね」
「タイミングが悪かったか。なら手短に終わらせるからよく聞け」
伊波は背後から視線を向けられていることに気付いているので、決して振り返らない。
暗殺者の鏡とも呼ぶべき八神に下手は打てない。
あくまで『盟主』と話しているように自然な態度を心掛け、向こう側にいる仲間の声を聞く。
「〔約定〕は五日後の夜『心喰の夜魔』を第十二区と第十九区に解放する。貴様は第五区で〔幻影〕を攪乱しろ」
「それは全然いいんだけどさ、第一区には攻め込まないの?」
「明確過ぎるほどに第一区への侵攻を匂わせているが、それは囮だ。……まあ、本音を言えばそこまで行きたいが、そこへの大規模侵攻には私だけでは荷が勝ちすぎる。最悪、失敗する可能性もあるからな」
「了解だよ」
伊波は通信を切ると何食わぬ顔で息を吐く。
そして振り返る頃にはいつもの朗らかな笑顔を浮かべていた。
「それは?」
「ああ、八神くんはまだ貰ってないんだよね」
伊波は穏やかな声音でイヤーカフ型アーティファクト――『EA』の説明をするのだった。
――……
「あはは……下手を打っちゃった」
伊波は病院の裏手で缶コーヒーを飲む医師と一本の柱を挟んで会話していた。
彼は結月という少女の担当医師でもあり、〔約定〕の第二位階魔法使いでもある。
「数年前から〔幻影〕に潜伏していた貴様の正体が暴かれた、か。まあ、貴様にしては珍しいミスだ。何かあったのか?」
「ああ、うん。僕の予想は悪い意味で的中しちゃったんだよ。そのことに心を乱されたのかも」
「ほう? どんな予想だ?」
「……僕のライバルが〔幻影〕に取り込まれちゃったことさ。いつもクールで淡々と物事をこなす彼は僕の憧憬なんだよ。君も知っての通り、僕は暗殺者だからね。同じ穴の
医師は黙ったまま、遠くを見ている。
その様子からは関心が半分といった様子が見て取れる。
伊波はそれくらいがちょうどいい、と言葉を続ける。
「あれは僕が魔法使いになる前――生粋の暗殺者としての失敗を初めて経験した時だった。暗殺者にとって一度の失敗は永劫の無価値を意味する。それが上層部に知られれば僕はきっと生きてはいられない。だから、訳もなく第二十一区の排他的な地下道で時間を持て余していたんだ。やがて定時報告を怠った僕を殺すための暗殺者が来るのを怯えながらね」
「……貴様の腕は知っているが。それでも任務に失敗し、あまつさえその刺客さえも殺せなかったのか?」
「任務は相手方が一枚上手だっただけさ。刺客の方はその当時の僕じゃ絶対に敵わない相手が来ると思っていたよ」
思い出せば思い出すほどに胸の中にわだかまりが募っていく。
「それが貴様の言う奴か」
「うん、少し彼とのやり取りを話そうかな」
――忘れもしない。あの日あの夜あの時に。
伊波は今の自分を生かしてくれた一人の暗殺者との邂逅を再生する。
――……
煙草の吸殻や空き缶が散乱する掃き溜めのような地下道で僕はただ死に怯えていた。
暗殺組織内での序列は一位――だった。
――ほんの半年前までは。
ある日、突然やってきた少年はめきめきと力を付け、僕のプライドはそれと比例するように傷ついていった。
最高の師、最高の才能。
誰もが羨んで、誰もが手に入れられるとは限らないもの。
そんな八神零という少年が足音もなく、月明かりが差し込む位置から僕を眺めていた。
「……やっぱり、君なんだね。僕を殺しに来るのは」
感情が出ないということが八神零の人間的特性だった。
ただ人を騙すときにはこちらが見惚れるほど完璧な表情に化ける。
違和感がなさ過ぎて違和感があるという矛盾が生じるほどだ。
「僕は最後の最後まで抵抗するよ。命が……惜しいからね」
――違う。本当は違うんだ。
生きることに固執するわけでも、死ぬことに恐怖するわけでもない。
ただ自分の生きた意味をどこにも残せないことが悔しかった。
だってこのまま終わるなら、僕の生は無価値だって言われるのと変わらないから。
様々な感情が渦巻くなか、僕はもっとも得意とする短刀を構える。
奇しくも八神と同じ武器を得物としていた。
「シッ!」
鋭い気合と共に無防備に佇む八神に向けて、僕の人生で最速の斬撃が喉元を目指す。
だがそれは八神がわずかに半歩下がったことで無様に空ぶってしまう。
彼は隙だらけな僕の首元を掴み、苔に塗れた壁に叩きつけた。
「ぐうッ‼」
あまりの痛みに涙が出るほどだ。
同じ年、ほぼ同じ体格。
そうであるのに軽々とすべてを凌駕する。
次の瞬間には頬の皮一枚を切り裂いて、短刀が突き立っていた。
「俺はお前を殺しに来た。でもそれは今終わった」
「……どういうこと?」
「死人に口なし。お前はもう自由だ」
――……
「あははっ、うん。今思い出しても最後のセリフは笑っちゃうほどに気障だと思うね。これが組織内で一位と二位だった彼と僕との最初の対面だったんだ。同じ組織にいたっていうのに会ったのはあれが本当に初めてだったんだ。どうして組織に逆らってまで僕を見逃したのかは分からないけど、あの頃の彼はまだ仲間っていうくくりを信じていたように思う。そんな彼にはもう二度と会うことなんてないって思ってたのに、僕は噂を聞いちゃったんだ」
いつの間にか医師は聞き入っているようだった。
それを見た伊波は言葉を紡ぎ直す。
「彼が帰属していた暗殺組織を壊滅させたってね。ただ、僕はのちに知ったよ。組織が金銭に汚いことは知ってたつもりだったけど、彼をとことん利用しようとしていたことをね。彼はどこまでも利用されやすい人だ。〔幻影〕だって信の置ける場所じゃないことを僕は知ってる。だからこそ、彼には〔幻影〕を離反してほしいんだよ。っと、これ以上長く話してもあんまり意味はないね。退屈だったでしょ?」
「いいや、退屈な話ではなかった。私は腐っても医者だ。人に寄り添う心は持ち合わせている。これから貴様はどうするつもりだ?」
医師の男は遠回しに伊波の意思を確かめる。
そこには戦いづらいのであれば来なくてもいいという不器用な慈悲が込められていた。
そんな気遣いを敏感に察した伊波は当然とばかりにいつもの人当たりのいい笑みを浮かべる。
「作戦決行は明後日の夜でしょ? 作戦通り、僕は陽動のために動くよ」
「そうか。なら明後日は頼んだぞ――貴様の働き次第では貴様のいう“彼”を取り戻せる可能性はあるのだから」
医師は院内へ戻り、伊波はしばらく呆然と空を見上げていた。
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