♰Chapter 3:心象の空白

――見えない。


――聞こえない。


――外界を、知覚できない。


八神零という一個体の存在がひどく曖昧に思える深淵の闇がこちらを覗き込んでいる。

目を開けているはずなのに、目を閉じているのと同じような感覚だ。

一切のささやかな光すらなく、自身の輪郭が滲み出すように気が遠くなっていく。


――まずい。


そう本能が警鐘を鳴らす。

人間という生き物は五感を完全に断たれたまま一定時間を経ると正気を保っていられなくなるものだ。


オレは強く自意識を維持しようとする。

その間もじわりとした苦痛が絶え間なく身を苛んでいる。


“あれは……糸……?”


遠近感すらも狂わされているが、恐らく遠くの方に薄く線状の何かが浮かび上がってくることを視認する。

赤糸の切れ端のようだったそれは少しずつ数を増やし、周囲は完全に包囲されてしまう。

そこで初めて正体を知った。


“鎖……? ここはどこなんだ?”


深紅の線状だったものは漆黒の鎖に蠢く紋様だった。

それらがほとんど感覚を失った全身に絡みついてくる。

瞬く間に抵抗は無力に終わり、唯一自由を許されるのは口元だけとなる。


――何が起こっている?


記憶を手繰ると水瀬がオレを魔法使いにするための『魔力回路』を活性化させたことまでは思い出せる。

だがそれ以降の記憶がない。

つまりここはオレの深層心理が創り出した夢、あるいは質の悪い悪戯か。

最悪の可能性として彼女がオレを殺そうとしている可能性も否定できない。

そこまで可能性を挙げて後者二つを否定する。

水瀬の何を知るわけでもないが、彼女が騙し討ちのような手を取るとは思えない。

結論として、この暗澹たる風景が悪夢の類だという解答に辿り着く。


すると突如として高周波音が鳴り響き始めた。

例えるならば、黒板を引っ掻き回すような不協和音だ。

それが徐々に焦点を結ぶように聞き取れる声になる。


“――君の在り方はひどく歪んでいるね”


はっきりと聞き取れた声は中性的な響きを帯びており、男にしてはやや高めで女にしてはやや低めと言える。

得られる情報が少なすぎて状況の把握が困難だ。


“お前は誰だ……?”

“――答える必要性を感じないかな。まあでも、あえて答えるなら「 」は「 」さ。そんな「 」が君に渡す言葉はただ一つ――これから君の意識はここで永遠に眠り続けるってことさ”


『意識を永遠に眠らせる』ということはすなわち、身体が植物状態になることだろうか。

仮にそれが実現すれば、それはある意味での死を表す。


声はいわれのない死の宣告を一切の気負いを感じさせず、まして名前らしきことを発するたびにノイズが割り込むあたり、最大限の警戒対象に値する。

だが身体が不自由な今、次善策は情報収集を試みることだけだ。


“夢の存在がオレと会ったことがあるのか?”

“その言葉が出るってことは楽な方へ楽な方へと逃げて行っていることに対して君自身が無意識な証拠だよ”

“どういう、意味だ?”


オレの疑問に声は答えない。

代わりに言葉を紡ぎ続ける。


“それに君は『夢』って言ったね。確かに君から見ればこれは『夢』になるんだろうね。でもさ、もう一度周りを見てみなよ”


金縛りから解放されるようにして首上だけが自由を取り戻す。

視線の先には相変わらず深紅の紋様が蠢く黒の鎖と空間を満たす深淵の闇だけがある。


“『夢』っていうのはその人自身が経験したことを記憶として整理する過程のことなんだ。そしてそれにはもう一つ、心理的状況も反映される。つまりは現実と夢は繋がっているんだよ”

“お前が言いたいことはオレがこの空間を生み出した原因ということか”


この状況下に置かれたことに不思議と違和感はない。

これが現実の自分を端的に表した環境だとしても素直に受け入れられるくらいに、オレは生きながらに死んでいる存在なのだから。


“もうお察しだね。夢と現実には密接不可分な関係があるんだ。付け加えるならここは特殊と言ってもいいからね。夢から現実への干渉もできるんだ”

“……下手な芝居は終わりにしよう。ここまで何もせず説明を聞かせたということはお前にオレを本気で眠らせる意思はない。結局のところ、お前はオレに何を求めるつもりだ”


それを聞いたであろう声は渇いた笑い声をあげる。


“はは、君って本当に「 」の天敵だよ。言うように確かに今の「 」は君を殺さない。だから、一つ賭け事をしよう”

“藪から棒だな”

“「 」にとっては必然さ。簡単なゲームだよ。この空間が君の心象にもっとも近い像を反映したものってことはさっき伝えたね。内容はこうさ――【君がこの場所を守れるかどうか】。君の敗北条件は君がどうしようもないところまで堕ちて、この心象風景を完全な無にしてしまうこと。そしたら「 」は君を今度こそ壊すことにするよ”

“……勝利条件は”

“君が僕の正体を看破すること。そして一個の人間として成長し、ここを満たすこと。それを達成出来たなら「 」は消えてあげる”


勝利条件はおろか敗北条件ですら具体性に欠けると感じる。

そもそも【満たす】と【完全な無】の定義付けが曖昧だ。

だが鎖という強制力で縛られている以上、オレに拒否権は与えられていない。


“分かった。だがこれは誰とも知らないお前が仕掛けてきたゲームだ。少しくらいハンデをくれてもいいだろう”

“うんうん、それはそうだね。勝ちの結果はあげないけどそこに手をかけるための手段は「 」が貸してあげる――これからも君は君の贖罪のために動く。そして、そこには必然として命のやり取りがあるわけだもんね”

“性格が悪い”


オレのことはほぼお見通しと言わんばかりの声に心の奥で何かが動く気配がする。

それはすぐに消え、代わりに声が潮時を告げる。


“む……? 挨拶もこのくらいにして、そろそろ君の意識を返さないとね。君がどんな選択をして、どんな結果を得るのか――そこにあるだろう苦しみをたっぷりと堪能させてもらうよ”


残響を伴ったまま、まもなく不快な熱さと眩暈に襲われる。



――……



身体が温かい。

だが先程までの気持ちの悪い熱さではない。

ゆっくりと瞼を開けると、そこは知らない天井だった。

染み一つないそれを眺めて、置かれた状況を把握する。

どうやらふかふかな敷布団と掛布団に挟まれて寝かされているようだ。


横に視線を向ければ椅子に腰掛け、革製のブックカバーをかけた小説を読んでいる水瀬の姿があった。


「……水瀬?」

「ん、おはよう。身体の調子はどう?」


オレの声に気付いた水瀬は小説を膝に置き、薄く微笑む。


……そうか。ここは水瀬の洋館だった。


「多少のだるさはあるが問題ない、と思う」


目立った問題はないが、隠れた問題があるかもしれないと思考したオレの言葉には、若干の歯切れの悪さが含まれていた。

それを敏感に察した水瀬はゆっくりと手を伸ばすとオレの額に触れようとする。

だがオレは反射的にその手を避けてしまう。


「少し、傷つくな……。八神くんが誰かに触れられることを極端に嫌っているのは知っているし深くは踏み入らないけれど、そこまで露骨に逃げなくてもいいと思う」


行き場を失った手は膝に戻っていく。

その表情は酷く悲しそうだ。


「すまない。水瀬が心配してくれていることは分かる。本当にすまない」

「い、いえ……私の方こそごめんなさい。あまり距離感が測れなくて」


窓の外に視線を移すとちょうど東から太陽が昇っていくところだ。


「オレはどのくらい寝ていた?」

「そうね、大体八時間から九時間くらいかしら。大事がなくて安心したわ」


水瀬はほっとした様子で胸を撫で下ろす。

本当に気を使わせてしまったらしい。

それに結局は彼女の洋館に泊まってしまった。

口では『泊まる』と言いつつも、本当に泊まる気は毛頭なかったのだが。


「だいぶ寝ていたんだな。水瀬はずっと起きていたのか?」


一晩中一睡もしないことは可能だが、それだけ疲労が蓄積することになる。

こんなことで借りを作ることは不本意そのものだ。


「そうよ。ああ、でも八神くんが気にすることじゃないわ。私が好きで起きていただけだから」

「そう言ってくれるとありがたい。色々とすまないな」


水瀬はいいのに、と苦笑を浮かべる。


「それはそうと今日は貴方と行くべきところがあるの」

「〔幻影〕の本拠地とか、か?」

「みたいなものよ。厳密には〔幻影〕に本拠地はないから、拠点の一つだけどね」


水瀬は小説を机に置き直すと立ち上がる。


「どうする? もう少し身体を休めてもいいけれど」

「大丈夫だ。いつでも出掛けられる」

「なら一時間くらいで支度をお願い。少し遠くまで足を運ぶからその準備もね。八神くんの私服も含めて大体のものはこの部屋にあるから」


そう言って水瀬は部屋を出て行こうとする。


「水瀬」

「うん?」

「……いや、何でもない」

「そう? 何かあったら遠慮なく訊いてね」


オレは不思議な体験をしたことを話すべきか迷ったが、結局は言わなかった。

水瀬にどう説明するべきか考えがまとまらなかったこと、何より彼女自身をまだ完全には信用していないからだ。


彼女が出て行ったあと、オレは淡々と準備を済ませるのだった。

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