煙草、煙、そして人生

坂原 光

 一本目 空色のゴロワーズ・レジェール

 僕が煙草を吸い始めたのは二回目の大学の夏休みで、その年の六月に二十歳になったばかりのころだった。話を聞くと、大体みんな高校生くらいから吸っていて、二十を超えてから始めた、なんて言うと珍しがられた。


 そもそも、僕は煙草なんて吸う気は全くなかったんだ。ただ(ろくでもないことは承知しているからこそ、ここで余計なことは言わないで欲しい。言わばこれは懺悔のようなものだ。誰も聞く人なんていない、日記帳の中で語られるようなそれ)、僕は単純に、今までの自分を変えたかったのだ。今まで自分が選んできたであろう選択を。そのなかで一番簡単だと思えたこれを選択した、というだけのことである。


 後悔しているかって? そりゃあしているさ。もし、煙草なんて吸わなければひと財産築けたはずだ。今まで何箱吸ったのかなんて、全く覚えていないが相当数になるだろう。あと、いくら金を出しても得ることができない健康も。


 でも、僕は一応納得しているんだ。だってこれは僕の人生だからね。でも、こんなことももう終わりだ。だって、僕の吸っている銘柄はなくなってしまうんだから。他の銘柄を手にしている自分なんて想像できないし、出来なくていいことだと思っている。単純に、これはメーカーに対しての文句でしかない。



 その十五年前の夏の日、僕は何かの用事で大学に行くことになっていた。当時、高校時代から付き合っていた彼女とは、違う大学になってしまったということもあって、なんだかパッとしない付き合いが続いていた。長く続いた故の倦怠感、というか停滞感があったことは確かだけれど、僕は彼女のことが好きだったし、彼女もおそらく、僕のことが好きだったはずだ。


 しかし、僕は別の誰かのことが気になっていて、彼女も(後で聞いたことだけれど)別の誰かのことが気になっていた。そんな救いようのない事実に気付きつつあるという夏だった。


「透」

 大きな声が聞こえたので振り向くと、大学に入って仲良くなった亮二という男が立っていた。彼はバイクが好きで、実家のある埼玉県から二十三区にある大学までバイク通学をしていた。しかし、その日、彼はバイクに乗っていなかった。


「亮二か……。よう、元気だね」

「俺はどんなときだって、元気がないって状況を作らないようにしているんだ。一度そういうことをすると、元気がないって状況から元気になるまで無駄なエネルギーを使わなければならなくなる。そんなのは人生にとって無駄なことだ」


 合理的なのか、非効率的なのかわからないが、亮二はこういう奴だった。僕は僕で、決して非社交的というわけではないのだが、引っ越しを繰り返していた過去のトラウマから、誰かと仲良くなるという行為に対して、一歩を踏み出せない状態が続いてしまい、いざ仲良くなろうと心を開こうとしても、相手の方が委縮してしまう、という悪循環を抱え続ける人生を送っていたから、亮二と仲良くなれたことはある意味奇跡のようなものだと思っていた。


「今日バイクは?」

「ああ……実はもう、降りようと思ってさ。で、物は試しで電車で来てみたってわけ。電車ってすげーのな。乗ってれば着いちゃうんだからさ」


「確かに画期的ではあるよな。歴史が証明している。でもどうして? バイク好きなんだろ?」

「透、一つ聞きたいことがある。もし、自分が本当に好きなものが、目の前に二つあったとして、どちらか一つしか選べないとしたら、どっちを選ぶ?」


 亮二は真剣な目で僕にそう言う。駅から大学までの数分、街路樹以外、樹木なんてない気がしているのに、頭上ではずっと蝉が鳴き続けている。亮二が着ている水色のシャツから、彼の体格の良さが滲み出ていて、彼はいつも僕の隣にいるのに、今日はやけに僕自身が彼より一回り小さくなったように感じていた。背だって、似たような高さだってのに。


「迷うってことは同じくらい好きってことだろう」

「そういうことだ」


「……心の針が選ぶ方だろうな、それしか選択基準がない」

 亮二は僕の回答を聞いて笑った。


「つまりそういうことだ」

 彼は『同じくらい好きなもの』と言ったが、多分『バイクよりも好きなもの』ってことなんだろう。大学の正門をくぐると、彼は手を挙げてどこかへ行ってしまった。僕は僕で、その何なのか思い出せない用事を済ませに何号館かへと入った。


 暫くしてその建物を出たとき、中庭のベンチに亮二と女の子が座っていた。僕は決して勘の良い方ではないのだけれど、その二人がただの友人ではないことは明らかだった。そして、その亮二の相手というのが僕が気になっていた女の子だったのだ。


 僕は見なかったふりをして、急いで駅まで行き、東京駅に向かった。何をしたかったのでもない、ただ人がたくさんいる場所へ行きたかっただけ。改札前で誰かを待っているふりをしながら、夕方になるまでそこにいた。


 そして帰り道、たまたま煙草屋へと入った。そこには信じられないくらいのカラフルな、そして色々な銘柄があり、僕は一番綺麗な青を持っていた、ゴロワーズ・レジェールという銘柄と、ビックの青い使い捨てライターを買った。家に帰り、二階のベランダで煙草を開けて火をつけた。


 半分くらい吸ったときに、彼女から電話があって、一度どこかで話がしたい、と言われた。うん、と答えるより他はない。電話を切って、僕は煙草を吸い続けた。隣の家のベランダからも、煙草の匂いが漂っていた。こんなことしても、何の解決にもならない。そう思いつつ、僕はなかなかそれをやめることができなかった。


 そして呆れちゃう話だけれど、今に至っている。



 ちなみに、亮二と彼女は結婚し、今は彼女の故郷である北海道で暮らしている。子供は何歳だっけな……。


 僕の彼女だった人は、今はどこで何をしているのやら。


 僕は就職して会社の近くに引っ越し、会社とアパートとの往復。だけど、いつもこの煙草があった。でもこの間、煙草屋に行ったら今年で無くなってしまうと言われた。


 ショックだったけれど、そこまでのショックでもなかったのかもしれない。習慣にはなっていたのだけれど、正直、煙草に対してウンザリしていた、というのも本音なんだ。これの感覚、喫煙者ならわかってもらえると思うんだ。


 まだ、買えるんだけれど、今手元にある、この箱が無くなったら、もう買わないつもりなんだ。警告文で台無しになってしまったけれど、綺麗な空色のパッケージのソフトパック。


 人生にはいつだって、どんなものだって、さよならを言うタイミングってのがある。十五年煙草を吸ってきて、得たものはそれだけ。煙草からは煙が上がる。それは僕にとってのさよならの証なんだ。

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