昔馴染

 太陽も空の真上から然程傾かない時間、フェナスが酒場を出てから数刻ほど後。貴族街に彼女の姿はあった。手には片手に収まるほどの大きさの紙袋を抱えている。

 そこは貴族街と言っても貴族の姿はない。下町と壁一枚で遮られているだけの、隅も隅だ。それこそ平民が入ってこられるような。

 目の前には古ぼけた小さな建物がある。壁には蔦が伝い、打ち捨てられた物置小屋のようにも見えた。だがよく見れば蝶番や木戸は新しく、手入れがされているのがわかる。

 フェナスは粗末とも言える木戸を乱暴に叩いてみるが、中から返事はない。確かに人の気配がするのに、だ。

 深い溜息を吐くと、慣れた手つきで木戸を開けた。鍵はかけられていない。それも、


「入るよ!」


 人の気配に向かって呼びかけるが、やはり返事はない。迷わず小さな台所を抜けて、奥の小部屋の扉を勢い良く開けた。そこは魔石の火だけが灯って薄暗い。奥に置かれた文机には、長い金髪の人物が背を丸めて座っていた。周囲には乱雑に書き散らかされた紙の山と、研究材料であろう乾燥花ドライフラワーや鉢植えに埋もれて、息が詰まるような空間だ。


「スフェーン。また引き篭もりかい?」


 呆れたように丸まった背中に声をかけると、のろりと金髪の人物が振り返った。白皙に翠の瞳の美しい男だ。凛然とした出で立ちをしていれば、貴公子として女性が放っておかないだろう。だが、だらしなく前が開いた衣服と眼鏡の奥の眠たげな目がそれを台無しにしていた。

 男――スフェーンは目を瞬かせると、にこりと笑みを浮かべた。友に対する親しげな笑みだ。


「ああ……フェナスですか。珍しい、貴方から声がかかるなんて」


 ふわりと笑んで髪をかき上げるその仕草は、ただの町娘程度であれば卒倒してしまうくらいの色香に満ちている。だが、フェナスはそれが寝不足の時の仕草だとわかっていた。眉を顰めて紙の山とスフェーンを見比べる。


「今度は一体何晩寝てないんだか……そのうち死んじまうよ」


「おや、まだ二晩ですよ。もう一晩二晩くらいは……」


「二晩寝てなきゃ十分さ。ほら、どうせろくなもの食べてないんだろう?」


 言い訳を手で遮る。この男は寝ていないと妙な自慢をし出すのだ。聞いていたら日が暮れてしまう。


「ほら、食べなよ。どうせろくに食べてないんだろ?」


 持っていた紙袋をスフェーンに渡すと、フェナスは隅に置いてある丸椅子にどっかりと座った。スフェーンは顔に喜色を浮かべて紙袋を開けている。


「やあ、いつも助かります」


 そう言いながら中から肉と野菜を挟んだ麵麭パンを取り出すと、何の躊躇もなくかぶりつく。空腹ぶりがわかるようだ。見た目からは想像のつかない食べっぷりである。

 文机をちらりと見ると、齧りかけの干し肉が転がっていた。まさか、あれで空腹を誤魔化していたのだろうか。呆れるほどの怠惰ぶりだ。

 これでも彼は、貴族の三男坊だ。

 だが社交に興味を持たず、日がな一日研究に明け暮れている。彼に甘い父親はこの街の片隅の倉庫を改装して、彼の研究室として与えた。結果、引き篭もりの完成というわけだ。

 彼の研究というのは、古い神々の研究だ。古い神々とその眷属についての研究。それは《教会》が台頭し始めてからは没落した学問だった。

 スフェーン曰く「神の研究ほど奥深いものはない、《教会》はわかっていない」とのことだが、果たしてどれだけの人にそれが通用するのか。

 そんなことを考えながらスフェーンが麵麭パンを胃袋に全て納めたのを確認する。名残惜しげに指を舐めているのを見るに、腹八分目と言ったところか。空腹で頭が回らない状態よりはマシだろう。


「頭はハッキリしたかい?」


「どうでしょうね?」


 ぼんやりとした返事が返ってくる。本当にこの男は、自分の興味がそそられないと真面目な話をしない。何年も付き合いがあるが、そういうところは昔から変わらない。普段は諦めているが、話を聞きたいときには苛立ちが増すばかりだ。

 貧乏揺すりをしながら腕組みをして、スフェーンを睨んだ。


「ふざけんな。あんたの大好きな神様の話だっていうのに」


 神様。その言葉を出した途端に、スフェーンは目をぎらぎらと輝かせる。先程のぼんやりとした雰囲気は取っ払われて、ずいと身を乗り出してフェナスに詰め寄った。


「神々の何の話です!? 媒体の話ですか、それとも塔の話ですか!?」


 鼻息も荒く迫ってくる男に少したじろぐ。寝不足で自制が効いていないせいか、顔が近い。手のひらで彼を押し退け、元の椅子に追いやった。


「ちょっと落ち着きな!」


 ここで押されている場合ではない。聞き出したい話はそれではないのだ。咳払いして気を取り直すと、足を組み替えて話を続ける。


「どっちも違う。魔女の話さ」


「魔女とはまた……珍しい話を持ってきましたね」


 魔女。その言葉にスフェーンが不思議そうに首を傾げる。こういう反応をするのは珍しい。意外だとその表情が物語っていた。

 彼は立ち上がると、文机の横にある書棚の背表紙を辿り始める。細い指が一冊の本の背表紙で止まり、それを本棚から取り出した。ぱらぱらと本を捲り、一つの頁で指を止める。その本をくるりと回してフェナスに見せた。


「これですね、魔女の伝承」


 文章を指で辿りながらスフェーンが語る。


 魔女とは、魔力マナが尽きて尚魔法を使い、魂の存在が薄くなった者が神の加護を得てなるもの。


 それだけが、そこには記されている。

 実際のところはその瞬間が誰かに観測されたわけではないので憶測だ。普通なら魔力マナが尽きた時点で倒れ、運が悪ければ死ぬ。良くて一生魔法は使えない。魔力マナを供給する体内の生命機関が壊れてしまうらしい。

 何より、魔女は目撃例そのものがほぼないのだ。伝説として有名ではあるが、それだけだ。


「……つまり、魔女の存在そのものが架空のものである可能性すらあるんです」


 資料が少なく実例もない。研究対象としては面白いが、深堀ができないのだ。自然と研究も頭打ちとなり、全くと言っていいほど進んでいない分野だ。

 スフェーンはぱたりと本を閉じる。目の前に難しい顔で座っているフェナスを、話の先を促すように見つめた。

 その翠の瞳と金の瞳が交錯する。興味深そうに輝く翠に苦笑すると、ジャスパーから手に入れたばかりの情報をスフェーンに話した。例の、魔女の噂だ。

 話が進むにつれ、スフェーンの目がぎらついていく。これは、大変そそられている顔だ。これは、その知的好奇心を満たさないといつまでも縋り付いてくると経験則で悟る。


「……とても、とても興味深いですね」


 ゆっくりと、噛み締めるように呟くその口元は、笑みの形に歪んでいた。その笑みを眺めながら、フェナスは立ち上がる。


「ひとまず、今は何もわからないってことだね。

 邪魔したねそれじゃ」


 さっさと立ち去ろうとすると、がしりと腕を掴まれた。寝不足でも、男の力だ。咄嗟に振り切れずに振り向くと、満面の笑みで腕を握っているスフェーンがいた。

 この笑顔はまずい。ひくりとフェナスの口角がひくつく。


「私も、もちろん連れて行ってくれるんですよね?」


 やはりこうなったか。

 うんざりした表情を隠そうともせず、フェナスは今度こそ力の限りスフェーンの手を振り払った。

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