魔女の案内人

水森めい

プロローグ

降りて、来たる。

 その光は、何百年振りかのものだった。

 空に光がひとつ産まれたことを、人は知らない。本来ならば神が把握しているべき事象だが、神々ですらそれを知らなかった。

 光はゆっくりと森に落ち、形を造る。

 小さな、小さな少女の形だ。光が肢体を、髪を形作っていく。

 やがて光は消え、地面に座り込んだ少女だけが残った。年の頃は四歳か五歳というところか。体には何も纏ってはいない。

 白い肢体には亜麻色の長い髪がまとわりつき、銀色の目が周囲を見て瞬いている。


「ここ……?」


 桜色の唇からまろび出る呟きに不安な響きはない。ただ戸惑いだけがある。

 しばらく少女は辺りを見回していたが、すくと立ち上がった。ぼんやりと空を見て、何事か思い出すような表情を浮かべる。


「……そうだ」

 

 呟くと、森の奥へそのまま歩き出していく。その表情からは戸惑いが消えていた。


「あつめなくちゃ、あつめなくちゃ」


 その呟きだけを残して、少女は森の奥へ消えていった。

 


         *


 

 隊商の馬車が、土煙を立てて通過していく。埃っぽい街道を、少年が一人とぼとぼと歩いていた。

 ルベウスの街からほど近いその場所は、街から出ていく者も向かう者も多い。少年も街から出てきた。

 街を出入りする彼らには共通点があった。旅の荷物、または交易品をしこたま抱えていることだ。

 この街道は、ラピス大陸の中央を縫うように続いている。街道の途中にあるルベウスの街はラピス大陸の端、辺境の地だ。港町から運ばれた交易品は、必ずその街を通過する。

 だがルベウスの街へ落とされていく交易品はごく僅かである。

 何故ならば、街が貧しいからだ。

 周囲を荒地に囲まれたルベウスの街の平民たちの収入源は限られており、ここで商売をしても儲からない。食料や生活必需品を売る隊商以外は、ただ通過するだけの街だ。

 その代わり、通行料をせしめる者が多い。許可のない民間人が通行料を取ることも多く、治安はあまり良くない。

 その街に続く街道で、ほぼ手ぶらな少年の姿はやけに目立った。持っているものといえば小さな背嚢だけ。野盗から身を守るための短剣すら持ち合わせていない。

 怪訝そうに見遣る人々を無視して、少年は足元だけを見て歩いていた。

 ただひたすらに、街から離れようと少年は歩く。ルベウスの街から半日も歩けば、街道に跨る森へ着く。少年はそこを目指していた。

 街の貧民の間に今、まことしやかに囁かれている噂がある。

 その森には魔女が住んでいる。彼女のスープを食べれば、たちどころに病は癒え、運が巡ってくるという。

 少年の目的はその魔女にあった。

 少年の母は病に臥していた。少年は母のため、魔女のスープを欲していたのだ。よくある話である。

 少年に魔法が使えればどうと言うことはない。それで治せば良いのだから。

 だが魔法というものは、一部の貴族だけが使えるものだ。少年たちのような平民にとっては、高嶺の花なのだ。

 かと言って、病人や怪我人を治してくれる《教会》に頼むにも金がかかる。平民、しかも少年のような貧民にとっては、どちらも手の届かないものだった。

 だから本当かどうかわからない噂に縋るしか、少年には道がなかった。

 地面がならされた土から、多少大きな石の転がる悪路に変わり始める。悪路を徒歩で進む者はほとんどいない。少年は周囲から人が少なくなると、顔を上げた。

 埃除けのフードの中の顔は煤けて汚れている。

 薄い金髪に青い瞳。栄養が足りていれば、多少は見られる顔だったろう。だがぱさついた髪と窪んだ目は、その容貌を餓鬼のようなものへと変えていた。

 少年の腹が鳴る。だがその空腹を満たす食べ物は持ち合わせていない。思わず足を止めて、そっと腹を押さえながら、少年は森の方角を見た。

 

「歩けるかな……」

 

 少し弱音を吐いて、息を吸う。空っぽの腹にも空気が入った。

 空が赤くなるまでには着かなくては。

 再び、少年は足元を見ながら歩き始めた。

 


         *

 


「おきゃくさま?」

 

 にこにこと少年を迎えてくれたのは、まだ年端も行かない少女だ。

 長い三つ編みに、草色の服。目は珍しい銀色だ。街の商店の娘と言われても違和感のない、小綺麗な少女だった。

 それに相対した少年は、見窄らしい自分の服と比べてしまう。

 こんなところで、何故そんな裕福な暮らしができるのだろうか。疑問が浮かんだが、それは空腹感で鈍る少年の頭の中で消えていく。何故なら、鼻をくすぐる香ばしい匂いが少年の縮んでいた食欲をそそったからだ。

 それを必死に押し留めて、少女を見遣る。にこにこと人好きのする笑顔を浮かべた彼女は魔女には見えない。他に人がいるのだろうか。

 

「ここ、魔女の家だって聞いたんだけど……」

 

 森の奥の、苔むした家。それはルベウスの街で語られる外観と同じだ。ここ以外に思い当たる場所もない。

 だが目の前の少女は、少年の問いにこてりと首を傾げた。その表情が魔女なんて知らない、と語っている。

 心の中に絶望が頭をもたげるのがわかった。俯いて、歯を噛み締める。ここまでの苦労が水の泡だ。

 だがその絶望とは裏腹に、大きな音で腹が鳴った。

 少女は銀色の目を瞬かせた後、きゃらきゃらとその音に笑った。少年を招くように手を舞わせる。

 

「すーぷ、たべる?」

 

 その言葉に思わず頷いた。余りにも良い匂いに、空腹が抑えきれなかったのだ。招かれるままに、ふらふらと少年は中に入る。

 外観と違い中は暖かく、思ったより乾いていた。

 飾り気はないが丈夫そうな家具が並び、そこには大小様々な皿が飾られている。天井からは香草の類なのだろう植物の束がいくつも吊るされていた。

 貧民の自分よりずっと良い暮らしをしていそうだ。驚きに少年の目が見開く。

 薪の燃える暖炉には、大きな鍋が火にかけられていた。ぱちぱちと爆ぜる薪の音が心地よい。

 少女は慣れた手つきで鍋から中身を掬い、木の椀に注ぐ。とろとろとした中身は、実に美味しそうな匂いがしていた。

 ごくり喉が鳴る。魅惑的な匂いに更に空腹が刺激される。

 

「すわっていいよ?」

 

 促されるままに少年は部屋の中央にあるテーブルに座る。少女はにこにこと笑いながら、その前にスープの入った椀を置いた。恐る恐る、目の前に出されたスープに口をつける。

 

「うま、い……」

 

 それは、今まで食べたことのないほどの極上の味だった。肉が口の中でホロホロと溶け、香草の香りがスープの味を引き立てている。一口食べるごとに、幸福感が少年を満たしていく。

 少女はそれをにこにこと眺めるだけだ。他にすることといえばおかわりを要求されればスープを注ぐことだけ。

 一体どれだけ食べただろうか。満腹になった少年は病の母のことも忘れ、そのまま寝入ってしまった。

 


          *


 

「わたしのおなべは、まほうのおなべ」


 少女はひたすらに鍋を混ぜる。桜色の唇からは、少し調子外れな歌が紡がれている。その表情は実に楽しそうだ。

 テーブルには、ぶつ切りにされた肉が置かれていた。肉の横には肉の持ち主の頭が置かれていた。薄い金髪が血に濡れて、暖炉の火の灯りを反射していた。

 肉も血抜きが不十分だったのか、周囲が赤い血で染められている。むせ返るような血の匂いだ。

 だがその匂いも少女は気にした様子もない。楽しそうに鍋をかき混ぜ、歌を歌う。


「おにく、おやさい、おしお、なんでもぐつぐつにこんじゃう」


 歌いながらテーブルに置いてある肉も首も何もかも、鍋に放り込む。重たい音と共に、鍋が赤く染まった。

 草色の服は血で黒く染め上げられている。少女の風体はまるで魔女だ。その表情も相俟って、酷く恐ろしげだ。


「しあげに、まほうをひとつまみ! さあさできたよまほうのすーぷ」


 歌い切ると、片方の手で杖を持った。それを鍋の上で振ると、銀色の光が舞う。途端に鍋の血は消え、美味しそうなスープの匂いが立ち込める。

 鍋からお玉を引き抜くと同時に、少女の服の色も草色に戻った。まるで、何事もなかったかのように。


「つぎのおきゃくさま、はやくこないかなー」


 少女は誰にともなく呟くと、にこにこと部屋の掃除を始めた。

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