夜のあさがお

おきな

第1部 エピソード0

 風菜は泣いていた。怖かった。さみしかった。どこに行っているのか分からなかった。ただ、知らないお兄さんの車に乗っていることだけは確かだった。何も言えないまま、ずっと静かに泣いているしかなかった。しかし、車が停まったときにはもう、深い眠りに落ちていた。お兄さんは優しく、風菜をそっと家へ運んだ。

 風菜はようやく目覚めた。ここがどこだか分からない。ママはどこ?また泣きそうになるのをぐっとこらえる。周りを見渡してみる。ピンクのうさぎのぬいぐるみがあった。慎重に起きてみる。

「お!起きた。おはよう。」

いきなり声が聞こえる。風菜の体が固くなる。何か聞きたい。でも無理だ。心が二つに分かれてくる。

「僕は大智っていうんだ。お兄さんって呼んでね。ふうちゃんだよね。よろしく。」

お兄さんの声は優しそうだった。なんで名前を知ってるんだろう。

「お母さんから聞いてない?もう、お母さん…まあいいや、今日からふうちゃんには、僕と一緒に、ここで暮らしてもらうんだ。不安だろうけど、大丈夫。たくさん遊ぼうね。」

風菜は黙って聞いていた。でも、うなずきもしなかった。初めての人となんか遊べないよ!しかし緊張しているのは相手も同じらしく、なかなか近づいてこない。

「うさぎさん、かわいいでしょ。プレゼントだよ。」

「そうだ、起きたらトイレだね。」

風菜は初めてこの人をいい人だと思った。トイレに連れていってくれる。

 幼稚園では、風菜はトイレに行けなかった。目の前にトイレがあっても、体が動かないのだ。実際、何度もおもらしをしてしまった。この人は、ふうちゃんのこと、ぜーんぶ、知ってるのかな?風菜は思った。もう、自分のことについて説明ができない、と説明ができないことを説明しようとしなくていいんだ。

「…」

お兄さん、遊ぼう、って言いたい。言いたいのに、声が出ない。2つ目の心が、風菜を止めている。お兄さんは、分かったようにうなずいた。

「じゃあ、ふうちゃん、あやとりしよう。」

やっぱり分かってるんだ。風菜は初めてうなずいた。

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