第25話 溶け合う心
オリアナの病院からひとり放り出されたクラウスは、ひとまずはオリアナ国外に出なければと、市中心地から城門に向かう乗り合い馬車を見つけると迷う暇もなくそれに飛び乗った。それに足りるくらいの路銀と旅装は、解放時に警察が用意してくれていたのだ。
しかし、それは好意からではなく、とにかく厄介者に早く国を去ってほしいというオリアナ警察の意向ほかならない。
クラウスもそれは深く承知していたので、混み合った乗り合い馬車のなかでは、深くマントを被り、己の正体が周囲にばれないよう細心の注意を払う。
「黄金色の薔薇が爆発して、魔獣を出現させたっていう話じゃないか」
「フィルデルガー王国から持ち込まれた薔薇らしいな。あの国はここのところのクーデター騒ぎといい、なにかと迷惑で仕方ないね」
「なんでもその薔薇の名前がついた女が現場に列席してたそうだ」
「生きてるか死んでるかしらねえが、その女が一番怪しいんじゃねえか」
周囲の乗客たちの噂話も、マイシュベルガー邸の事件のことでもちきりだ。クラウスの耳がその話題を拾う度に、彼の身体は、びくり、と反応しそうになる。とくに話がアシュリンのことに及ぶと、彼の頭は気が狂わんばかりだ。生死すら分からない主人のことを、至近距離で面白おかしく揶揄される気分は堪ったものでなかった。
揺れる馬車のなかでクラウスはマントにさらに深く身を包み、強く唇を噛む。
忍耐に忍耐を重ね、ようやくオリアナの城壁に辿り着いたのは夜半であった。
国外に通じるオリアナの城壁の門は夜間にはその扉を閉じる。門の周辺は、開門を待つ人々があちらこちらで焚き火を囲んだり、布を地表に敷いて眠る人々であふれかえっている。
クラウスは目立たぬよう門から少し離れた場所に生えていた木の根元に座り込むと、目を軽く瞑った。そうして、オリアナを出たらどうしようか、と彼は、ぼんやり考える。
――故国に戻るしかないな。俺に課せられた責務が、あそこにはまだ、残っているからな。
四月の夜風は、マントをきつく巻き付けた身にも冷たく吹きすさぶ。開門時刻の夜明けは、まだ遠かった。
夜が白み出すと、開門を待ちきれぬ人達が少しずつ門の周りに集まり始める。
馬に乗った出国管理官がやってきて、集まった群衆を並ばせて、人々をチェックする。その審査は入国のそれに比べればそれはごく簡易的なものに過ぎない。
やがて、クラウスの番が来るが、なにやら通達が回っているのか、彼の顔を見てもなにも管理官は咎めることはなかった。彼は安堵しながら、マントから晒した顔を素早く元に戻す。
しかし、その瞬間、山の向こうから現われた朝日の一閃がクラウスの顔を鋭く照らした。右頬に走った浅黒い傷がほんの一瞬、だが、くっきりと陽のひかりに浮かび上がる。
そして運悪く、それに目を留めた者がいた。
「おい。あんた。その顔の傷は何だ。もう一回見せてみろ」
夜明けを迎え静かに城壁の門が開くなか、語気も荒くクラウスに迫る者がいる。その声を聞いて、途端にクラウスの周りに人垣が出来た。
「あんた、まさか、あの事件の犯人じゃねえだろうな!?」
「いや、間違えねえ! こいつはあの、クラウス・ダウリングだ!」
人垣の誰かが叫び、場は騒然となった。なんせ国中を騒がした大惨事の犯人とされる男が目の前にいるのだ。群衆が興奮しないわけがなかった。
捕えろ、いや、構わねえ、
――どうする? どうやってこの場を切り抜ける? ひとりやふたりなら、戦闘魔術を使えばなんとかなる。だが、この人数では……。
そう、迷ううちにも、殺気立った群衆は、城壁を背にしたクラウスにじりじりと近づいてくる。
だが、そのとき、息せき切って、その人並みを割って駆け込んできたひとつの影があった。
「やめなさい! この者は私の従者です!」
クラウスは自分の目前に立ちはだかった女に目を見張る。
振り乱したその赤髪にも、その叫び声にも、彼には覚えがあった。なにより、自分をその呼称で呼ぶ人間は、今の彼には世界にひとりしかいない。
果たして、息を弾ませながら、群衆に震える手でナイフを差し出すその人は、アシュリン・エンフィールド他ならなかった。
そして、突如現われたアシュリンに気を取られた群衆の動きが、ぴたり、止まった一瞬をクラウスは見のがさなかった。彼は大きく右手を振り上げ、意識を上空に集中する。
次の瞬間、上空に激しい虹色のひかりが迸り、その場に立つもの全員の視力を奪った。
突然の閃光に、アシュリンは悲鳴を上げながら目を覆った。その途端、ぽろり、と手からナイフがこぼれ落ちる気配がする。そして、ナイフを落したその手を強くたぐり寄せる腕がある。なおもひかりの輝きは強く、目を開けることは出来なかったが、彼女にはそれがクラウスの腕だとすぐに分かった。
その手に引かれるまま、無我夢中で足を前に動かしていると、彼女の身体は唐突に宙に浮いた。激しい馬の嘶きが聞こえ、ついで、身体がぐるりと反転する。
思わず目を開けてみれば、アシュリンはクラウスに抱きかかえられたまま、馬上の人となっていた。
「しっかり捕まっていてください! このまま城門を突破します!」
アシュリンはあまりの事態の急展開に返事をすることも出来ず、とにかく落馬しないようにと、クラウスの胴に強くしがみついた。クラウスは城門目がけて群衆を蹴散らしながら、一気に馬を走らせる。やがて風を切って疾走する馬の馬蹄が、城門の石畳を激しく叩きつける気配がする。突然飛び出てきた馬に驚いて、怒号を投げる人の声が交差する。アシュリンはクラウスに身体を押しつけたまま、固く目を瞑りつづけた。
そのうちに馬は国境の門を走り出て、オリアナ国外に躍り出た。やがて人々の怒鳴り声が遠くなる。それでも馬は止まらず走り続け、気が付けば、ふたりはオリアナの城壁を遥か遠くに見交わす丘の上まで辿り着いていた。
そして、ようやく止まった馬の上でクラウスがしたことといえば、アシュリンに向かって開口一番、怒声をぶつけることだった。
「なんて無茶をするんですか! あんなナイフ一本で!」
「クラウス……」
「せっかく助かった命を無駄にするつもりですか!」
アシュリンは驚いた。クラウスの怒鳴り声から、微かな涙の気配を感じ取ったからだ。
だが、それは気のせいではなかった。馬の上で、クラウスはその目を滲ませていた。自分を見つめる焦茶色の瞳から、一筋、二筋と涙が溢れ出すのをアシュリンは見た。
「良かった……生きていてくださって、本当に、良かった……、本当に……」
クラウスは嗚咽しながら、ただそうとだけ、言葉を紡いだ。涙を見せるなど情けないことだ、と意識の向こう側で声がするが、それでも彼は涙を堪えることが出来なかった。
そして自らの腕がアシュリンの細い肩にいつしか伸び、その手が彼女を強く抱きとめることも止められなかった。己の理性が、なんと不敬な、とどこか遠くで言っているのが聞こえたが、それでもなお、クラウスはアシュリンを抱きしめたままでいた。
どれくらいそうしていたのだろうか。やがて、クラウスの腕に抱かれながら、アシュリンが、ぽつり、と言葉を零した。
「クラウス……あなたはやっぱり、あの時の人だったのね……」
「……アシュリンお嬢様」
「ずっと、ずっと、夢に見ていた人は、やはり、あなただった……」
クラウスがアシュリンの身体から、そっ、と離れて、そのアメジスト色の瞳を覗きこんでみれば、そこもまた、濡れていた。その瞳のままで、アシュリンは静かに語を継ぐ。
「私は、いえ、私たちエンフィールド家は、恐ろしい罪の上に成り立っていた。それを私、いまのいままで、何も知らないで、のうのうと、生きていて」
丘の上を渡る風が、アシュリンの微かな声を攫っていく。
「私は、あなたにどんなに憎まれても、それは当たり前のことなのよね……」
「お嬢様……」
いまにも消え失せそうなアシュリンの声があまりにも痛々しくて、クラウスは思わず声を詰らせた。そして深く息を吐くと、今一度アシュリンの顔を覗き込んで、彼はちいさく囁いた。
「私はお嬢様に、感謝しているのです」
あまりにも意外なクラウスの声にアシュリンは驚き、彼の顔を見上げる。そして声を震わせながらその真意を問う。
「どうして……?」
「私は、ずっと、胸の奥で燃えさかる復讐心から、解放されたかった」
クラウスはそう言いながら、アシュリンの赤い髪のなかに頭を埋める。そして、彼もこう声を震わせながら、彼女をもう一度弱々しくも静かに抱き寄せた。
「どす黒い闇に己を託す生き方は、もう、嫌なのです。もう、戻りたくないのです……どうか、私を二度とあのなかに、戻さないでいただきたい……」
「……クラウス」
アシュリンは己の身体に頼りなく縋るクラウスの手を握る。クラウスには、アシュリンのその手の感触が、何よりもあたたかく、そして心強かった。
大丈夫、もう戻さない。
彼女がそう言ってくれているような気がしたのだ。
馬上のふたりを、春の風がやさしく包んでいく。
頑なだったふたつの心を、朝のひかりがやわらかく溶かしていく。
それが抗いがたいまでに心地よくて、アシュリンとクラウスは、そのひととき、主人と従者という己の立場を忘れ、ただその穏やかな空気のなかに、お互いを溶かし合った。
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