始まりの季節 ~前夜2~

「了解」

 言うと俺は自分の手に持ったスマホを操作し、表題に『ペチュニア』と書かれた楽曲の再生ボタンをタップした。


 数秒後、それに反応したスピーカーからピアノの音が流れてきた。

 なずなはピアノのリズムを足で刻みながらイントロが終わるのを待つ。

 ピアノソロのイントロが終わり、一気にドラム、ベース、ギターの音が加わる。

 曲調はアイドル曲に近いものだったが、とてもクールで格好いいと呼ぶに相応しいものだった。


 なずなも刻んでいた足を止めるや否や体全体を使ってダンスを踊り始めた。

 それまで可愛かった常葉なずなが素人目から見ても難しいと分かるフリ付けをキレキレに踊っていた。


 姿見越しに見えるなずなの表情は真剣な表情から色気のある大人っぽい雰囲気の表情になっていた。

 それが曲にとても合っていて、ついつい目が顔に行ってしまう。


 イントロが終わり、スピーカーから知り合いのボイストレーナーの歌声が聞こえてきた。

 なずなもそれに合わせて口ずさみ、ダンスを踊る。


 ギターやドラムなどの音が徐々に激しさを増していく。それのせいでフリ付けも段々難しくなっていく。しかし、なずなは表情を一切崩さずに一直線を見ながらダンスをしていた。


 Bメロが終わりいよいよサビに入る。

 この曲のサビのフリ付けが1番難しい。今なずなの課題はここである。


 次第にサビに入るとそれまで表情を崩さずに踊れていたのだが表情に焦りが見えていた。振りも間違ってはいないものの手の強弱のメリハリなどが無くなりそれまでのダンスとは比べものにならないほど見え方が変わってしまった。


 サビが終わるとすぐに2番に移るのだが、曲のキリもちょうど良いのでサビが終わったら曲を止めよう。

 俺の指はスマホの一時停止ボタンに向かっていた。


 そして、サビが終わると同時に俺の指は一時停止ボタンを押した。

 それまで大きな音が流れていた部屋の中が一気に静かになった。

 ビデオの録画ボタンも停止する。


 なずなは音が鳴り止むと張り詰めていた緊張を解き、膝に手をやりながら荒い息を整えていた。


 やっぱりサビか。そもそもダンスが難しいからな〜振りを完璧になるまでひたすらこの部分だけ踊り続けた方が良いか?

 しかし、昨日までも同じ練習をしていたが成果はあまり見えていない。サビ以外はほぼ完璧だから本当にサビだけ出来れば来週のMV撮影には十分間に合う。

 あぐらを掻き、腕を組んで手を顎に当てた。


「今日はこの部分を集中的にやろう」

 考えついた答えがこれだった。なずなの息も整いつつあったので俺もベッドから立ち上がり、隣に並んだ。

「うん」

 真剣な眼差しを俺に向けている。本人が1番分かっているよな。

「曲に合わせて踊って貰うけど、間違ったところで曲を止めるからそこで俺がアドバイスするから」

「分かった」

 言うと、姿見に向き直った。俺はそれを隣で見届ける。


 スマホの画面はペチュニアのサビの部分だけ切り取られた動画だ。

 それを親指でタップする。

 流れ出しはBメロの最後。ちょうどこれからサビが始まるぞと言っているような所だった。


 なずなはその部分から軽く振りを入れ、サビに入ってから本気で踊り始めた。

 なずなのダンスを吟味しまくる。どこがミスっているのか、どこがおかしいのかを俺の判断で決めて、違うと思ったらすぐにテコ入れに入った。


「ここはこうだ」

 時に俺自身が見本となり、振りを教え、

「違う何度言ったら分かる?」

 同じところで間違えた場合は少しきつめに言葉で責める。


 やっている事は全国を目指す部活動の連中とほとんど同じ、下手したらそれよりも厳しい練習をしていると思う。

 なずなが戦っているのはプロだから。少しでも綻びがあるとすぐにファンは気づいて離れていくし、完璧に踊れればよりファンを得られる。そう言った世界なのだ。

 俺は表現の部分は教える事が出来ないのでとにかく完璧にフリ付けが踊れるようになる手伝いをしている。


 ダンス面で俺がサポートできるのはここまで。後の部分はプロのダンスコーチに任せる。


 俺の脳内はこれで埋まっていた。


***


 このような形で練習をする事2時間。なずなのサビパートのダンスは徐々に向上していった。

「よし、最後に1回通して終わりにしよう」

 時間的に近所迷惑になりかねないのでいつもこの時間に練習を切り上げることが多い。

 ただ、今日は部分的な練習がメインだったため通して確認する時間が無かった。

「分かった」

 なずながそう言うと最初と同じく姿見の前に立った。

 それを確認し、スマホをタップする。


 今日何度も聞いた曲が流れ、なずなはそれに合わせてダンスを披露する。

 Aメロ、Bメロの出来はバッチリ。問題のサビはどうか?

 曲がサビに入った。なずなもこの曲で最難関のダンスを踊り始めた。


 先ほどは不安定だったダンスはほぼ完璧に近い出来映えになっていた。それが功を奏し、表情もAメロ、Bメロと変わらずクールな女性を演じる事が出来ている。

 サビが終わり2番が流れ始めた。2番もほとんど1番と同じ振りなので恐らく大丈夫だろう。

 案の定、2番のダンスも安定しており俺の中ではバッチリ評価に値する出来だった。

 曲が終わり、なずなは最後のポーズを決めていた。


「よし、オッケ!!」

 俺はスマホをタップしてビデオの録画ボタンを止めた。

「今日はここまでにしよう」

 この言葉を聞いたなずなはそれまで張り詰めていた緊張感を解き、崩れるように床に座った。


「はー疲れた!!!」

 天を仰ぎながら結構大きめな声で叫んだ。

「あまり大声出さないでね、近所迷惑だから」

 ま、俺にそれを注意する権利はないのだが……

「だって~今日の大輝めっちゃアドバイスくれるんだもん。普段より頭も体も使ったよ~」

 ついに床に寝転びだした。

「床で寝転ばないでね、床が汗で濡れるから」

 そう言いながら俺はなずなの腕を引っ張り無理矢理体を起こした。


「え~汗の始末は自分でするからしばらく寝かせてよ~」

 なずなが寝転んだ所には案の定Tシャツの形に添って濡れていた。

 アイドルのこういうやつはあまり見たくないな……


「じゃあ、寝転ぶならTシャツを着替えてくれ」

「着替えなんて持ってきてないよ」

「じゃあ、俺のTシャツ貸すから」

 言うと俺はクローゼットの扉を開き、半袖Tシャツが入った引き出しを開けた。

 そこから適当にTシャツ1着を取り出しなずなに向けて放り投げた


「うがッ」

 Tシャツが床の上で体育座りをしているなずなの顔面に直撃した。

「俺は外に出ているからそれ着ろ。着替え終わったら呼んでくれよ」

 そう告げると俺は部屋の扉を開け、廊下へと出た。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る