御伽術師 花咲か灰慈〈長編版〉

乙島紅

第1部 桜始開(さくらはじめてひらく)

第1章 春を告げる花

第0話 今も今もあるところに



 その日、桜庭灰慈さくらばはいじが立ち会ったのは、自分と同じ十歳の子どもの火葬だった。


 その子は生まれつき身体が弱く、長いあいだ学校にも行けなかった。それでもいつか病気が治る日を夢見て、たくさん薬を飲んで、手術を繰り返して……そしてついに、永い眠りについたという。


 棺の中に眠る血の気の無い顔は、まるで精巧に造られた人形のようだった。

 事前に伝え聞いたような闘病の苦痛など感じられない、穏やかな死に顔。

 色とりどりの花と、生前彼が好きだったであろうオモチャやマンガに囲まれる姿には、不謹慎にも「幸せ」という言葉が頭に浮かんできてしまう。


 だが、その場の空気は身体の芯まで凍てつくような冷たさをまとっていた。


 幼い子どもの死に、誰もが言葉少なに涙を浮かべていて。

 彼の命を奪った運命のいたずらを呪っていて。


 何よりいたたまれなかったのはその子の両親のことだ。

 彼らが喪主だと聞くまで、灰慈は彼らのことを故人の祖父母だと思い込んでいた。まさか自分の両親と同世代の人たちとは想像もしなかった。それほどまでに生気が感じられなかったのだ。

 泣き腫らしたまぶた、深く影を落とす目の下のくま。ほつれた髪に、不規則に入り混じる白髪。立ち姿はどこか頼りなく、目を離せばすぐにころりと後を追ってしまいそうな、止まりかけの独楽こまのような危うさがあった。


 ……怖い。

 息が苦しい。


 これが「死ぬ」ということか。


 思っていたよりずっと静かで、

 だけどいつの間にか足元から這い寄ってきて、

 そうっと「そちら」に吸い込もうとしてくる。


「灰慈」


 頭上からの声に、はっと呼び戻される。

 無意識のうちに隣に立つじいちゃんの服のすそを強く握りしめていたらしい。

 そんな灰慈の手を、じいちゃんの手が優しく包み込む。


「怖いか」


 うんとうなずくと、じいちゃんは自分と同じ灰慈の桜髪をくしゃくしゃと撫でた。


「それでええ」

「いいの?」

「ああ。人はみな『死』には逆らえん。それはわしら花咲師はなさかしだって同じじゃ。わしらにできるのはただ寄り添うことだけ……。だからな、この怖さをよく覚えておくんじゃぞ」


 忘れることなどないだろう。

 灰慈はこくこくと首を縦に振った後、普段とまったく変わらないじいちゃんの顔を見上げて、ふと尋ねた。


「じいちゃんも、怖い?」

「もちろん怖いさ」

「でも、そうは見えないよ」

「それはきっと、可愛い孫がそばにいるからじゃな」


 そう言ってじいちゃんはけらけらと笑った。

 灰慈の目にはやはり怖がっているようには見えなかった。

 指先まで冷えて震える灰慈の小さな手に比べ、手のひらにいくつもの火傷痕のあるじいちゃんの手はほんのり熱を帯びているかのように血色がいい。


「もう少し、握っていていい?」


 尋ねると、じいちゃんは「もちろんだとも」と言って再び灰慈の手を包み込んだ。

 灰慈は寄りかかるようにその手の甲に頬を寄せる。


「……じいちゃんの手、あったかい」


 そう呟くと、じいちゃんは目尻に皺を寄せて「そうかそうか」と微笑んだ。


「灰ノ助さん、間もなくお骨上こつあげのお時間です」


 しばらくして、葬儀屋のお兄さんがじいちゃんを呼びに来た。

 じいちゃんはうんと頷くと、近くの椅子に掛けてあった桜色の羽織をばさっと広げて袖を通す。背中には力強い白の筆文字で「九代目花咲師」と書かれている。白と黒しかない葬儀の場に大きな花が咲いたみたいだった。


「行くぞ、灰慈。よう見とれよ」


 じいちゃんの引き締まった顔つきに、灰慈も自然と背筋が伸びる。


(僕も、いつかこうなるんだ)


 そう思うと、どくどくと心臓の鼓動が早まる気がした。





 葬儀屋のお兄さんに案内され、向かったのは火葬炉の前。

 故人の火葬が終わり、遺族が台車に乗ったお骨を囲んでいる。

 ただ、何か様子が変だ。

 

「お願い、返して……! あの子を返してよっ……!」


 吠えるような声が静寂を破る。

 亡くなった子のお母さんだった。

 先ほどまでの放心状態とは打って変わって、血走ったまなこで台車の傍に立つお姉さんに掴みかかる。彼女は火葬師、亡くなった子の火葬を担当した人だ。


「この、人殺し……! どうしてあの子を焼いたのっ……! あの子はまだ、まだっ……!」


 それ以上言葉は続かなかったが、お母さんは火葬師のお姉さんに掴みかかった手を離さなかった。

 この場にいる誰もが理屈では分かっている。

 あの子は死んだ。

 それでも、骨と灰になった姿を突きつけられて初めて思い知る。

 ……もう、この世にはいないのだと。


 火葬師のお姉さんは抵抗することなく、ただ揺さぶられるがまま。

 亡くなった子のお父さんはお母さんを抑えようとするものの、悲しみが勝っているのかその手には力がこもっていなかった。


 灰慈は再び震えて立ちすくむ。

 無意識に手を伸ばすも、じいちゃんはもう隣にはいなかった。


「……奥さん、それくらいにしときましょうや」


 じいちゃんは揉める二人の間に割って入り、落ち着いた声音で言った。


「息子さんが寂しがっとります」


 はっと息を飲む音とともに、台車に向けられる視線。

 そこにあるのは物言わぬ小さな遺骨。

 それでも、確かに彼女の息子の形を作っていたものであり、この世に唯一取り残されたもの。まだ、側に在るもの。

 形なきものに魂が宿るかどうかは分からない。

 それでもたぶん、じいちゃんはこう言いたかったのだ。

 今は他者に対する怒りではなく、彼のことだけに想いを馳せて欲しいと。


「うう……あああ…………」


 力が抜けたように、お母さんは台車の傍らで膝をつく。

 じいちゃんは丸まったその背をそっとさすり、穏やかに微笑んだ。


「改めまして、わしは九代目花咲師・桜庭灰ノ助はいのすけです。これより、息子さんの遺灰をとむら花葬はなはぶりを務めさせていただきます」


 しなやかにお辞儀をすると、じいちゃんは台車をぐるりと回ってお母さんの向かい側に立った。


(始まる……!)


 台車を囲む遺族の輪から少し離れた場所で、灰慈はごくりと唾を飲み込んだ。


 じいちゃんは遺灰の上に手をかざし、ゆっくりと瞼を閉じる。

 空気が変わる。呼吸の音すら立ててはいけないような、神聖な空気がその場を支配する。

 静寂が澄み渡る中、じいちゃんは静かに唄った。

 いや、それは本当は唄ではない。

 花葬りの儀式で述べる、お決まりの口上こうじょうだ。

 ただ、あまりにも心地良い響きのせいで唄のように聞こえるのだ。


 やがて口上を終え、じいちゃんは深く息を吸った。

 それからカッと目を見開くと、まだ熱の残る灰の中へ右手を突っ込む。

 「あっ」と声をあげる人がいる。

 信じられないという風にぎょっとする人がいる。

 だが、じいちゃんは迷うことなくただただその遺灰とそこにあった命を見つめ――そして放った。

 送る人々の頭上へ、空へ。

 灰はやがて花へと形を変える。

 淡くて白い、無数の桜の花だ。

 軽やかな花弁は風に乗せられてひらひらと舞い、母親の元へ還ろうとするように彼女の掌の上にそっと収まった。

 

 ――お母さん、お父さん。

 ――短いあいだでも、ぼく……二人の子どもに生まれて幸せだったよ。

 

 声が聞こえた。

 風の音にかき消されてしまいそうなくらいかすかな声。

 だが、どこか満ち足りた響きを持った声だった。


 お母さんの瞳の端からつうと涙が線を引く。


「私たちも、あなたに会えて幸せだった…………」


 桜の花びらが舞い落ちる中、その場にいた人たちが皆さめざめと泣き始めた。

 灰慈も泣いた。

 だが、決して重苦しい空気ではなかった。

 優しくて、温かくて。

 深く沈んだ悲しみが花びらと一緒に少しずつ風にさらわれていくような、不思議な空気だった。


(じいちゃんは、すごい)


 空を見上げるじいちゃんの背中が、いつもよりもひと回り大きく、そして遠く感じる。

 灰慈は涙を拭い、じいちゃんの元へ駆け寄ると、その背中にぎゅっとしがみついた。

 

「……じいちゃん。僕、大きくなったらじいちゃんみたいな花咲師になりたい」


 じいちゃんはからからと笑い、くるりと向きを変えて灰慈の目線の高さにしゃがんだ。

 そして灰慈の手を取ると、両手でそっと包み込む。

 次にじいちゃんがふわっと手を開いた時、灰慈の手のひらの上には可憐な桜の花びらがあった。


「心配しなくともなれるさ。灰慈ならきっと、わし以上の花咲師に」


 春風が吹き、花弁が空へとさらわれていく。

 手を伸ばそうとしたら、花びらは踊るようにくるりと回転し、陽光にきらめいたかと思うと、すっとどこかへ消えてしまった。






 ***






(……うん、大丈夫だ。ちゃんと覚えてる)


 あれから五年。


 灰慈はひと回り大きくなった手のひらを開き、その中にある桜の花びらにふっと息を吹きかける。

 花びらはくるくると舞いながら、花吹雪の中へ溶け込んでいった。

 その様子を見届けて、灰慈は両膝をつき目の前の墓石に向かって両手を合わせた。


 墓石には「桜庭家之墓」とある。


 一年前に亡くなったじいちゃんが眠っている場所だ。


「じいちゃん。僕、高校生になったよ」


 四月一日。

 入学式はまだだが、定義上は今日から進学だ。


「今日、初めて花葬りをやるんだ。本当はじいちゃんの時にやってあげたかったけど……言いつけがあったからね」


 去年のことを思い出し、灰慈は苦々しい表情を浮かべる。


 花葬りは高校生になってから。

 じいちゃんは灰慈にそう言いつけていた。

 ゆえにじいちゃんの葬儀には何もできなかったのだ。

 その時の後悔は今もずっと胸の底にくすぶり続けている。


 だからこそ、解禁されたら一日でも早く花葬りを始める。

 そう決めて今日という日を待っていた。


「じゃ、行ってくるよ。じいちゃん、見守っててね」


 墓石に載った桜の花びらを払ってやると、灰慈はくるりと背を向け立ち上がり、受け継いだ桜色の羽織に袖を通す。




 今も今もあるところに。

 灰を花に変える能力ちからを持つ少年が一人。


 十代目花咲師・桜庭灰慈。


 彼の物語が、幕を開ける――



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