Ⅶ 主と執事
応接間へ続く廊下では、執事のチェスラスが警官に包囲されている。その最前列で銃口を向けているのはライザ署長だ。
「フランへの暴行容疑と、ナユの監禁容疑で先ほど踏み込んだところだ。全員無事で何よりだ」
現れたバルドとナユ、モノリ、ゾハール、そしてルゥとフランの姿に、デビッキも安堵の表情を見せる。
しかしたくさんの銃口を向けられ、デビッキには術で拘束されているにも関わらず、執事から超絶不穏な言葉が飛び出す。
「申し訳ありませんご主人様。この者たちをいかがしますか」
思わず全員身構えるが、この執事は館そのもの。いきなり天井を落とされたり壁が迫って来ようものなら、どうすることもできない。
だがゾハールは首を横に振る。
「チェスラス、もうよいのだ。それ以上やれば、おまえも命を大きく削ることになろう」
そう言ってデビッキへ視線を向けた。ひび割れた恐ろしい赤目が、その時は確かに哀願するようだったのだ。デビッキが術を解くと、執事はその場にがくりと膝をつき、床に手をついた。
「……なぜですか。よもや諦めるとは仰いますな」
かがんだ執事から、黒い声がする。それは床を伝い壁を走り、建物全体から響く声だった。
「そうではない」
「ではなぜですか。私はご主人様が完全な存在になられるのを、ずっとお待ちしておりました。ようやく、ようやくその時が訪れたのです。なぜお止めになるのですか」
めまいではない。この揺れは、建物が震えているのだ。
「止めてはいない。無論進化は手に入れるが、彼らの望みとて無下にはできぬ」
「かように低俗な者の望みなど! ご主人様の苦悩を前に述べることすら、思い上がりも
「それは——」
ゾハールが言い淀む。その瞬間、館が大きく揺れた。いや、たわんだという方がしっくりくる。
「バルドさん……っ!」
バランスを崩したナユを、バルドが引き寄せる。倒れそうなのはルゥも同じだった。ロアンヌ模様の寄木張りの足元がまるで、湿地の泥のようなのだ。斧を叩きつけてもびくともしない、硬い床だったはずなのに。
「フランさん!」
また奪われてたまるものかと、フランの腕をしっかりつかんだ。
「総員退避だ! 建物から出ろ!」
ライザが警官たちに指示するが、思うように進めない。
「私は、この私に相応しい主をずっと待っているのです。ご主人様が完璧な存在にならないのなら、私は、私はどうすれば——!」
館が大きく揺れ、吊下ったシャンデリアのガラスの装飾がシャララランと鳴る。
「くっそ! ナユちゃんとフランさんを帰さないつもりか⁉︎」
「どうかな。それならさっきみたいに僕とナユさんだけを隠すと思うけど」
フランは冷静に執事を見つめている。
「この時をどれほど待ち望んだことか! ご主人様は血の滲むような努力と研究を重ね、スヴァルト・ストーンの情報を得ては世界中を飛び回って来られたのですよ。ご主人様には願いを叶える資格がおありです。この者たちよりも遥かに!」
沼地と化した床に、壁や柱がずぶずぶ沈み始めた。バキバキベキッと嫌な音がする。悠長に構えている暇はなさそうだ。
「フランさん逃げましょう!」
「待って。話をしてみよう」
「フランさぁん⁉︎」
「なんか思いの丈をぶちまけてるみたいだし。話が通じるかもしれないよ」
「もぅ、いっつも……。っていうか黒羽! まずあんたがどうにかしろよな⁉︎」
フランの斜め前にいる黒羽だが、遠い目をしている。
「チェスラスはああなると手に負えんのだ」
「はあっ⁉︎ ご主人様だろ⁉︎ 責任もってなんとかしろよ!」
「無理だ。私は半魔であいつは純血の魔物。力で敵うはずがなかろう」
「だから力じゃねぇっての!」
「さあご主人様。必要なものはすべて私が揃えます。どうぞ手に入れてください」
ズズン……ズズン……と地鳴りのような音とともに、もう膝下まで床に埋まってきている。
警官が何名か玄関口にたどり着く。しかし「扉がびくともしません!」と聞こえた。何発か銃声が響いて耳がキーンとするが、状況は変わらないようだ。
「外へ出さないつもりなら、尚更話をつけるしかないね」
「ですね」
「チェスラスさん、聞いて。二人のゾハールさんの過去と現在が圧縮されて、一つの未来を引き寄せるんだよね。壁の中に囚われていた時に、なんとなく分かった気がするんだ。それがお二人とあなたの願いなら、僕は協力するよ」
ルゥがお願いするまでもなく、やっぱりフランはフランだった。
「お黙りなさい。協力しない選択肢など、貴殿には最初からないのですよ」
「でも僕とナユさんにも仕事や生活があるし」
「ならば進化を得るべきです。病や疲労を得ず、睡眠すら必要としない体を手に入れればよい」
「魔物になって寝ずに働いて実験に参加しろってこと? それはさ……」
「当然です」
平然と言い放つ執事に、フランもちょっと面食らう。ナユを抱え上げたバルドも「ふざけんなよ!」と声を荒げるが、まるでどこ吹く風だ。
「ご主人様、私にはあなただけなのです。どうか完璧を手に入れてください」
執事は主人へ懇願しているようであり、命令しているようでもあった。
その時、ずっと黙っていたモノリが口を開く。
「あなた、主人の顔に泥を塗っていると自覚していますか?」
「……今、なんと?」
「ゾハール殿は決して進化を諦めてはいない。少し遠回りしても構わないと、そして何よりあなたのことを
館全体から殺意がほとばしったように感じて、ルゥは思わずフランにしがみつく。だがモノリは執事の方へ一歩踏み出していた。
「主人が信じようとしているものを壊すのが執事の仕事ですか」
「そういう発言は、思っていてもお控えになるべきでしょう。貴殿に何が分かるというのですか」
「あなたは主人の願いのために長い間、スヴァルト・ストーンを探し、解読し、白き炎の使い手を待っていた。その間に会いたかった人は皆、先に逝ってしまったのではありませんか? さっきオーナーを探していた時に見たゲストルームは、どの部屋もいつでも使えるように整えられていました。あなたがしているのでしょう?」
「貴殿には関係ない!」
「いいえ。あなたはこの館を我々に見せてくれた」
モノリはきっぱりと言い切る。
そうか、ゾハールが招きたかった人はもう——。
「チェスラス殿、まだ実験中ということは、完全に魔物化する方法は未完成なのですよね」
「……ええ。ですから、そこの二名の半魔がサンプルとして必要なのですよ。今すぐに!」
「人間を魔物化する実験をしたいとも、ゾハール殿が応接間で仰っていましたね。それ、私がやりますよ」
「モノリ⁉」
真っ先に目を剥いたのはフランだ。
「わずかな魔物の血と装置と、スヴァルト・ストーンのレシピで私を魔物に進化させられれば、次の段階でお二人を一つにする研究もより進むでしょう。私にも研究を手伝わせてください。昼間は火葬場で働いて、夜と休日はここで勉強します。どうせ暇ですから」
「ちょっ、一体なに言ってるの⁉」
フランはルゥを離すと、腹に力を入れ、足を上げながらモノリへ近づいていく。
「貴殿こそ、そちらのオーナーを差し置いて何を言っているのか分かってますか」
「もちろん。私はオーナーより早く死ぬわけにいかないんですよ。魔物の体になれば鉄肺病にも罹らないでしょう? もう三十五歳なので、明日にでも発症してもおかしくないですし。それにルゥは料理はできますが、火葬はできない。調子が悪い時のオーナーの炎に合わせられるのは、私だけなので」
「でもっ、魔物化がうまくいく保証はないんだよ? 誰もしたことないんだよ? 体に相当負担がかかるだろうし、失敗して命を落とすかもしれないじゃないか!」
転びそうになってやって来たフランの体を、モノリが支える。
「いつも私やルゥがどれほど心配し、どんな気持ちでいるか、少しは分かってくれましたか? オーナーこそ、無茶ばかりされているんですよ」
「それとこれとじゃ……」
「オーナーは安易に協力すると仰いましたけど、実際何をされるか分からないでしょう。でも私も内容を知っていれば、オーナーの安全は確保できます。あなたが逃げも隠れもしないというなら、私も共に乗り込みますよ」
「もぅ、敏腕運転手らしいこと言って」
不服そうなフランに、普段無表情なモノリが笑いかける。
「それに万が一またあなたが暴走したら、今度は私が止めます。見ているだけはもう嫌なんですよ。ほら、私が魔物化するのは決して悪くないでしょう?」
モノリの言う事すべてに、ルゥは首がもげるまで頷きたい。また先に言われてしまった。ちょっと悔しいけどさすがだ。
揺れていたフランの目が、ふっと和らぐ。
「そこまで言うならいいけどさ。ねぇモノリ……、好きになりそう」
「絶対ダメです。そんなことしたら私はデビッキ司教に
即答され、フランは噴き出した。
「いかがでしょうかゾハール殿。私では力不足ですか」
「共に進化を手にするというなら歓迎しよう」
「ご主人様……」
「チェスラス、主として告げる。私はもう一度だけ人を頼ってみようと思う。だからもうよせ」
幾ばくかの迷い。だがその後、沈み込みたわんだ壁やアーチが、床から生えるように元の姿をなしていく。ぐにゃりと歪んだ床の模様もギュン! と元に戻り、埋もれていた膝下が解放され、いきなり軽くなった。最後に執事が右肩の辺りをパンパンとはたくと、ナユに壊された応接間の壁と扉も元通りだ。
「これ現実か……?」
デビッキが漏らすが、パラパラ漫画を見せられた気になったのはルゥも同じだ。
それにしてもあの執事、顔は不満顔だがやっぱりフランの言う通り、この道二十年どころじゃない大ベテランだったか。主人に命じられて矛は収めたものの、いかにも消化できてませんと言いたげな表情をしている。
すると、ライザが無機質な銃口を再度向けた。
「話は済んだか。黒羽の主ことゾハールと執事チェスラス。お前たちを逮捕するぞ」
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