中二病時代に捨てた〝黒歴史ノート〟が本物になって帰ってきた。

法螺依存

001『プロローグ』

 人々が静まり返る暗闇の時刻。足元も見えないほどの暗い裏路地に、目が眩むような一条の熱線が奔った。一瞬で地面を赤く溶解させ、視界を歪めるほどの熱波をまき散らしながら襲い掛かる先はただ一人の男。


 人に向けられたものとしては明らかな過剰と思えるその赤い熱線に対し、男は避ける素振りもなく泰然として手を前に突きだした。まるで、前からやってくる通行人を止めようとでもするかのように、何の躊躇も怯みもなく。 


「――法則改竄Alter


 直後、熱線が男に直撃し、手の平に阻まれて傘のように弾け広がった。拡散された熱の波濤がビルの壁面を焼き焦がして煙を立ち上がらせる。


 しかし、それほどの熱量を受けたはずだというのに、彼の身体はもちろん手にも一切の火傷の痕はない。オールバックの髪が熱風で乱れたことぐらいの影響しかなかった。


「……」


 男は乱れたオールバックを手櫛で整えると、窪んだ眼に嵌った冷徹な瞳を煙の向こう側へと向けた。その瞳には暗褐色の円文様が怪しく浮かび上がっている。


 不意に火煙が揺らいで中から白皙の少女が飛び出してきた。腰元で束ねた長い青灰の髪、気の強そうな切れ長の眦とやはり青灰の瞳。そして、ブラウスをまくった右手には血のように鮮やかな焔が纏わりついている。


要求Invoke位階Level第一層First〟――……代償Cost受忍Accept――権能行使Invocation――」


 右手に纏わりつくように逆巻いていた火炎が、少女の手の平に収斂していく。急速に圧縮された炎は熱量を増し、紅から明るい黄白色の炎の球体へと姿を変える。それはまるで小さな太陽のようだった。


 少女の表情が苦痛に歪む。それまで炎を纏っていてもなんともなかった白皙の右手が、真っ赤に腫れ上がっていく。それにもかかわらず少女は火球を手放すどころか、より一層強く握りしめたかと思うと、


「――火炎収斂Convergeッ!!」


 強く一歩を踏み出しながら目の前に立つ男に向けて腕を突き出した。


「……法則改竄Alter


 男が彼女の動きに合わせるように手を前に翳して再度呟いた。そうして男の手が少女の火球に触れると同時、収斂されていた炎が傘状に弾け飛んだ。


 どんなものでも焼き尽くしてしまいそうだった彼女の灼熱は、ちゃちな花火のようにビル壁に焦げ跡をつけるだけに終わってしまう。


 少女は苦々しい表情を浮かべながら男から距離を取ろうと手を引くが、しかし引ききるよりも先に男が少女の腕をがっしりと掴んだ、


「くっ……!!」


 全力で男の腕を振り払おうと藻掻く少女だったが、男はビクともしない。それならばと腕に火炎を纏わせて対抗するが――『法則改竄Alter』という言葉が彼の口から出た途端に炎は掻き消えてしまう。


 それでも少女は観念せず、それどころか自由な左手の拳を男の頬に向けて放った。


「……このっ!!」


 がしかし、彼女の悪あがきは容易に躱され、それどころか左手までも掴まれてそのまま地面に引き倒される。


「魔女〝青灰のカエシア〟……魔術機関ユニオン一等執行者の権限によりお前を逮捕する。お前には特別措置命令が下されている。裁判その他のあらゆる権利が認められないことに留意せよ」


 男は淡々と言いなれた口調でそう言うと、幾何学文様の刻まれた黒い手枷を取り出し、少女の手を腰の後ろに回して取り付けた。


 途端、少女の身体が急速に虚脱しだした。抵抗しようと歯を食いしばるものの、それも虚しく僅か数秒で体がほとんど動かなくなってしまう。まるで限界まで筋肉を酷使した直後のように、まったくといっていいほど力が入らないようだった。


 少女はもう一度手に火を灯すことを試みるが、火の勢いさえも体の状態と比例したように弱弱しいものに成り下がってしまっていた。せいぜいが蝋燭の火先ほどだろうか。先ほどの熱量でもどうにでもならなかった相手に、こんな火力でどうにかなるわけがない。


 それでも、どうにかこの状況の打開策を見つけようと思考を凝らすが、そんな都合の良いものは見つからなかった。


 少女は諦観と悔恨を表情に滲ませて舌先に歯を当てた。封印されて魔術期間のモルモットになるぐらいならば、舌を噛み切って死ぬほうがまだマシだ。


 せめて苦しまずに死ねるよう、ひと思いに噛み切ろうと大きく口を開け、


「――やめておいた方がいい。舌を噛んで死ねるのは三文小説の中だけだぜ」


 直後、不意に聞こえてきた誰とも知れない声の横槍に、思わず噛むのを止めて顔を上げた。


 時刻は街に静けさが訪れる夜中。ビルの隙間から見える僅かな星明りしか頼りのない暗闇の向こう側――そこに溶け込むように彼は立っていた。


 それは全身黒尽くめの青年。いや、少年といった方が近いだろうか。年の頃は少女と同じぐらい。中高生ほどだ。黒いロングコートに黒いズボンと靴。髪の毛も瞳も黒い。


 しかし、異様なのは出で立ちだけではない。何よりも目を引くのは彼の両手と口元を覆う黒い影だ。まるで炎のように揺らめき、暗い影を背後に落としている。


「何者だ」


 男が闇に向けて鋭く誰何する。しかし、少年は物言わずゆらりとこちらに向かって歩み寄ってくる。


「答えないというのであれば敵とみなす」


 言うやいなや、男は腰のホルダーから素早く拳銃を抜くと、一息で少年に向けて発砲した。一秒にも満たない短い間だったが、放たれた弾丸は寸分たがわず少年の額に真っ直ぐ飛び――、


「…………」


 がしかし、着弾するかに思われた瞬間、地面から噴き上がった黒い炎のベールに阻まれ、一瞬で蒸発した。


 少年は驚いて目を瞠ることさえしなかった。まるで、そうなることが当然で、全く脅威だと思っていないかのように。


 男が警戒するように立ち上がって距離を置く。


「――それを待っていた」 


 少年がそう言うのと同時に少女の身体が地面に沈みこんだ。暗い影へと落ちていく。


「何ッ!?」


 男は目を見開くと、慌てて少女に向けて手を伸ばす。しかし、その手は彼女の周囲から立ち上がった黒炎のベールに阻まれる。


法則改竄Alter!」


 慌てて唱えて黒炎のベールを弾き消すが、その僅かな間に少女の姿は完全に影の中に消えていた。

 男は眉間に深い皺を刻みながら事を為した少年に視線を戻す。


 しかし、そこにはもう少年の姿はなかった。


   ***


 少女は唖然と空を仰いでいた。


 裏路地の狭い空ではない。遮るもののない広大な夜空が広がっている。訳も分からぬまま身を起こすと、そこはどことも知れぬ高層ビルの屋上だった。眼下に広がる東京の夜景を見て、今の一瞬の間に場所を移動したのだと少女は悟った。


「――怪我は?」


 不意にザーザーと吹き荒ぶビル風に混じって少年の声が横から聞こえてきた。少女がハッとして振り向くと、そこには先ほど見た黒尽くめの少年が眼下の街並みに目を落としていた。


「……貴方……何者?」

「何者か知りたいのなら、まずは自分から名乗ったらどうだ?」


 少女の問いかけに対し、黒尽くめの少年は一瞥もせずに淡々と言い返した。


「聞かなくても知ってるでしょう?」

「自意識過剰だな。お前のことなど、俺は知らない」


 少年がそう返すと、少女は釈然としない表情を浮かべながら答える。


「……青灰せいはいのカエシア、あるいは単に青灰カエシア……魔女よ」

「そうか。俺は黑淵アギト。魔術師だ。好きに呼べ」

「……分かったわ。それで、貴方は、その……私を助けてくれたと思っていいの?」

「まぁな」

「何故? 魔女狩りは魔術機関ユニオンの至上命令――魔術師なら魔術機関に歯向かうことの恐ろしさは知っていると思うのだけれど」

「関係ないな。俺はただ、俺がしたいようにするだけだ」

「それが……私を助けることだった、と?」

「そうだ」


 アギトが何でもないことのように頷くと、カエシアは眉をひそめた。


「……けれど、まさかお人好しで魔術機関に敵対してまで私を助けたとか言わないわよね? 当然、それ相応の理由があるはず。もう一度、尋ねるわ――貴方は何故私を助けたの?」

「俺がお前を助けたのは、ただ――……」


 アギトはそこまで言い掛けて言い淀んだ。


「『お前を助けたのは、ただ』何? 何が目的なの?」


 もったいぶるなとばかりに、カエシアが目に力を入れながら続きを促した。

 そこで初めてアギトは彼女に目を向けた。少年の表情は葛藤に歪んでいるようにカエシアには見えた。

 数秒の沈黙。そして、カエシアが緊張の汗を流して唾を飲み込んだのと同時――ついに少年はどこか諦観を思わせる顔でぶっきらぼうに答えた。


「俺は世界が欲しい。そのためにお前という駒が欲しかった。ただ……それだけのことだ」


   ***

 

 静寂の漂う夜の公園。その一角にある公衆トイレの一室で一人の少年が頭を抱えている。


(……何でこうなった?)


 黒い外套を羽織り、ジャラジャラと用途も分からない金具やら金属筒やらを腰にぶら下げた出で立ち。


 、痛々しくて直視できないようなその格好の主は、もちろん黑淵アギトその人――だが、つい先ほどまでのニヒリスティックな表情もハードボイルドな雰囲気もそこにはない。


 顔を真っ赤にし、目をぐるぐるさせ、口を戦慄かせて便器に座り、ただただ声なき嘆きを叫び続けるただの十六歳の少年の姿がそこにはあった。


(僕は黒地明人くろちあきひとだろうが! 何が『黑淵アギト。魔術師だ』だよ!? なーにが『俺は世界が欲しい。そのためにお前という駒が欲しかった。ただ……それだけのことだ』だよぉおお! キメ顔で何言っちゃってんだ!? 恥ずかしい、恥ずかしい、恥ずかしぃぃ! うわぁぁああああ!)


 頭の中はつい先ほどまで自分が行っていた言動について、後悔と羞恥が浮かんでは消えていく。


 そうかと思えば、今度は恐怖を思い出して身が竦む。


(け、拳銃……マジもんだった。弾見えなかったけど、多分頭に直撃コースだった。死んだと思った……ありえねぇ、ありえねぇよ。何で僕がこんなヤバイことに首突っ込まなくちゃならないんだよ。止めたい……もう、こんなこと止めたい……)


 そんなことを思うアギト――もとい、明人だったが、それは叶わないことだとも理解している。あくまでこれは心を守るための愚痴に過ぎなかった。


 本当は思いっきり大声で愚痴りたいぐらいだが、口に出すことは出来ない。そんなことをすれば、から。


「はぁぁぁー……」


 深々と嘆息を漏らした明人は外套の内側に手を挿し入れ、中から一冊の本を取り出すと、忌々しそうにそれを見下ろす。


 古めかしい革の表紙で綴じられた大きな本だ。全体にファンタジーチックな幾何学文様が描かれている。


 この何の変哲もない痛々しい中二病溢れる本こそが、明人が今このような状況に置かれることになった元凶――中学時代に作成した魔導書〝深淵ノ理アルシエル〟だ。


 内容は深淵魔術と呼称する魔術体系が記載されているが、当然全くのでたらめ。中二病に罹患した思春期脳が紡ぎ出した妄想の産物に過ぎない。使われている本もネットで購入したただのアンティーク風ノートだ。


 いわば、思春期の青少年の多くが作りがちな〝黒歴史ノート〟でしかない――はず、だった。


 不意に表紙に描かれた文様がぐにゃりと歪み、シンボリックなデザインの目とギザギザの口が浮かび上がった。


『楽しかったデスね、ご主人! あの女、間違いなくご主人に惚れましたデスよ! デススススッ!』


 奇怪な笑い声をあげる、かつてはただの痛々しい黒歴史ノートだったモノ。

 しかし、今やそれは〝本物〟だった。


(あぁ……マジで……何でこうなったんだ)


 明人は本日何度目かになる嘆きを心の中でリフレインさせながら溜息まじりに目を瞑った。

 この非日常が始まることになった数日前のことを思い出しながら――。

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