第29話

 月曜日の昼下がり。多くの人々が、週明けの疲労感と陽気に負けて眠くなる時間だ。

 智輝も例外ではなく、眠気でぼやける頭を叱咤しながら、葵宅のローテーブルに資料を広げた。


「――眠そうだねぇ。忙しいの?」

「葵さんほどではないと思う」

「僕の締め切りは、なんと二日前に終わってるんだよ! おかげさまで、たっぷり眠れて絶好調!」

「……それはいいことだな。俺は寝不足だ」


 コーヒーを渡してくれる葵に、智輝は力なく呟いた。

 智輝は今日で八連勤目である。しかも、定時で帰れたことはないという、残念な有り様だ。

 葵が淹れてくれたコーヒーは、智輝好みの濃さと味わいで、カフェインが沁みる。中毒にならないように気をつけないといけないと思いつつも、眠気覚ましといえばで活用してしまうのだ。


「なんの案件を担当しているの?」

「ああ……葵さんに相談したいのは――」


 資料を捲り、目当てのものを引き出す。

 智輝は同時進行でいくつもの案件を担当している。解決しない相談ごとに対して、怪異現象課の人員が少なすぎるのだ。たいていが怪異とは関係のない結果になるが、それを調べるのに手間がかかる。

 智輝は未だ課長の木宮以外と顔を合わせたことがなかった。他の面子には木宮が案件を割り振っているので、ほとんど警視庁内にいないらしい。

 何故、新人の智輝が案件の選択から任されているのか、木宮の采配は謎だ。


「――これだ。呪いの手紙」

「呪いの手紙? また、オーソドックスな……」

「実際に被害が出てるんだ」


 失笑する葵を軽く睨み、この数日間調査していた内容を話す。


「相談者は速水はやみ行宏ゆきひろ、二十歳。一週間前から、自宅のポストに呪いの手紙が投函されているらしい。消印はなく、おそらく誰かが直接投函しているものと思われるが、付近の監視カメラに不審な姿は見られなかった。まあ、速水の自宅付近は辺鄙で、カメラがカバーしていない範囲が広すぎるんだが」

「へぇ……」


 葵が小さな容器の蓋をぱかりと開ける。智輝が買ってきたものだ。

 いつもはそれなりの店で手土産を買ってくるのだが、怠さに負けてコンビニスイーツになった。

 それでも、甘いもの好きな葵は嬉しそうに頬張っている。昨今のコンビニスイーツの質の向上は素晴らしいのだと、コーヒーを淹れながら語っていたのを思い出した。


「被害としては、度々後ろをつけ回す気配、自宅での不自然な騒音、誰かが足や手を引っ張って、転びそうになること多数。……一度は、アパートの階段を踏み外して、救急車で運ばれる事態にもなってる」

「それはまた、なんとも言い難い被害だね」

「なんとも言い難い?」


 コーヒーを手に取った葵が片眉を上げ、皮肉っぽく呟く。その言葉を聞き咎めた智輝は、反復しながら首を傾げた。

 智輝には、怪異現象といえばと言えるような被害だと思ったのだが、葵の意見は違うらしい。


「よく考えてごらんよ――」


 人差し指を立てた葵が、推理を語り出す探偵のように勿体ぶって話し始めた。


「――後ろをつけ回す気配。そんなの、思い込めばいつだって感じられるさ。人間の感覚はひどく曖昧で、不確か。呪いの手紙なんて受け取っていたら、よほど図太い神経の持ち主で、存在を忘れていられるようでなければ、周囲を過剰に気にしても仕方ない。なにかおかしなことが起きるかもしれない。なんて思い込みで、人間はいくらでもそこに存在しない気配を感じ取るよ」

「……葵さんが、それを言うのか」


 普段、誰よりも曖昧な感覚を口にする葵が、他者の感覚を否定することが少々面白く思えた。

 葵が感じ取るものと、葵以外が感じ取るものにどれほどの差があるのか、智輝には分からない。その言葉の真実性も。


「僕の場合は実績が違うから」

「それは違いない」


 当然のように言いきる葵に苦笑しながら頷く。

 葵が言う通り、警視庁には葵が関わった案件の報告書が山積みされている。地道にそれを確認している作業中の智輝が、うんざりしてしまうほどの数だ。

 それのほとんどにおいて、葵の能力の有用性が示され、最も重要な協力者として確固とした存在になっていた。

 塵も積もれば山となる。どれほど真偽不確かな印象の能力であろうと、実績が葵の能力を証明しているといえた。


「――じゃあ、騒音は?」

「家の軋み音とか、隣人が立てた音とか」

「まあ、そうだろうな」


 葵の返事に、智輝も頷く。

 騒音については、気にしすぎではないかと、相談者の速水の自宅をチェックした段階で智輝も判断していた。


「――足や手を引っ張られるというのは?」


 一番気になっていたのが、これである。一度は大怪我まで負った原因で、これがなければ智輝が調査しようとは思えなかっただろう。

 八連勤している現状の通り、智輝は余計なことに関わっていられるほど暇ではないのだ。


「うーん、それに関しては、身体的な異常とかかな」

「身体的な異常……」


 資料の端にメモをとる。その姿を葵が興味深げに見ていた。


「例えば、智輝は金縛りって知っている?」

「……ああ、幽霊が出たら、体が強張って動けなくなる現象だろ?」

「チッチッチッ、考えが甘いよ」

「……なんでだ」


 解答が不十分だと言いたげに指を振る葵を、智輝は半眼で見据えた。

 今日の葵は、自己申告通り絶好調のようだ。動きが軽快で無駄が多い。その仕草に僅かな苛立ちを抱いてしまうのは、智輝の心が狭いからなのか。


「金縛りは霊が起こすのではなく、金縛りという現象が存在しない霊を想起させるんだ」

「意味が分からない……」


 智輝が眉を顰めると、葵が説明を考えるように視線を上に向けた。そして呟くように説明を続ける。


「あまり心霊現象に興味がない智輝でも、金縛りと霊に関係があるというイメージを持っている。それはテレビや怪談なんかで語られて付けられたイメージなんだろう。そうしたマスメディアを通して、怪異現象は共通化される。人の意識の根底に存在することになるんだ」

「……なるほど。確かにそうかもしれない」


 頷く智輝を見ながら、葵が満足げにコーヒーを飲む。


「金縛りの多くは、覚醒間際の状態でのパニックだ。頭は起きていても、その信号が体に届かない、つまり体が起きていない状態のとき、パニックを起こし、金縛りだと判断する。パニック状態だから、冷静に体の状態を把握できず、体の強張りが持続する。そして、人は金縛りが起きたとき、その原因を自身ではなく、霊にあると思い込みがちだ。意識の根底にあるイメージが顕現するんだね。思い込みは、そこに存在しない霊を生み出してしまう。――背後の気配と同じだよ」

「……思い込み、か。だが、金縛りと速水の手足が引っ張られたという現象には、どう繋がりがあるんだ?」


 理解を示した智輝が、改めて問題提起すると、葵がパチリと指を鳴らした。


「金縛りは体がつっている状態とも言える。人の体は常日頃滑らかに動いているように思えても、ふとしたときに誤作動を起こす。足がつったり、なにもないところで転んだり。そういう現象が起きたとき、人は金縛りにあったときのように、原因を自身ではなく外部に求めることがある。――今回の場合は、それが呪い。手紙に恐怖を感じていたからこそ、なによりも先に、それが原因として思い浮かんだんだろうね。つまりは、やっぱり思い込みだ」

「……そうか。じゃあ、葵さんは、今回の件は調べるに値しないと思っているのか? ただの迷惑行為あるいは脅迫であって、怪異現象対策課以外で捜査すべきだと?」


 葵の話を聞いていて、智輝もその結論に傾いていた。

 元々、怪異現象に懐疑的なたちなのだ。その結論に導く方が、智輝としては自然に感じられる。

 だが、散々現象を否定したはずの葵が首を横に振ったのを見て、思わずペンを握りしめ眉を顰めてしまった。


「僕は被害が智輝たちの常識の範囲で理屈がつけられると言っただけだよ。その速水って人が、呪いを受けていないとは断言できない」

「……結局、どっちなんだ」


 徒労感を感じてしまっても仕方ない返事に思えた。

 項垂れた智輝の頭頂部を、葵の手がつつく。智輝はその手を振り払って、ため息とともに気合いを入れ直した。

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