もっと切りたくて

 わたしは黙って、先生の目を見つめた。


「言いたいんでしたら、そうぞ」


 努めて冷たい声を意識して、そう発する。


「うーん、そうだねえ……」


 先生はどこか面白そうに、顔を綻ばせた。


「でもさあ、具体的に、なんなんですか、って訊いたのは、あなたじゃないか」

「それは、なんとなくです。正直、さして興味はありません」


 先生は、へえ、とどこか楽しそうな顔をする。


「まあ、興味がないなら、僕が自分語りしても仕方ないか」


 たしかにわたしはどうして「具体的になんなのか」なんて、訊いたんだろう。改めて考えると、自分がそんな言葉を発したのが、少し不思議だった。


「とりあえず、お話はそれだけですか? つまり……、病院に行け、と」

「強制する気はないけれど……。ただ、僕はあたなを、心配しているよ、って伝えたかったんだ」

「大学の教員がそんなくだらないことに時間費やさないで、もうちょっとマシなことしたらどうですか?」


 先生は、あはは、とわざとらしく笑った。


「なかなか手厳しいねえ」


 どこか愉快そうに、微笑みながら先生はそう言った。

 わたしは床に置いていた鞄を手に取る。


「わたし、もう帰ります。」


 先生はまた、右手をひらひらと振った。


「ごめんね、くだらないことに時間を費やししゃって。じゃあ……、また次の講義で」


 わたしは椅子を引いて立ち上がり、研究室の扉を開ける。失礼しました、と呟いて廊下へと出た。


 ——自傷してしまう理由を、つまり、あなたがなにかしらの精神疾患にかかっているとしたら……、

 ふっと脳裏に、霧品先生の言葉が蘇る。


 精神疾患……。先生は「精神が健康な人は、自傷はしないんじゃないかな……、って、思うんだ」とも、言っていた。


 わたしの精神は、不健康、なのだろうか? もしも病院に行けば、その不健康さを暴いてもらえるのだろうか。

 けれど、わたしは自傷を悪ことだとは思っていない。悪いこと、というより……、ただの癖、だから。


 それはきっと……、ああ、そうだ。先生は少し困ったような仕草を見せるとき、自分の右手を首にあてていた。きっと、それとなんら変わらないはずだ。


 先生は……、わたしの自傷を知って「僕も……、似たような経験が、あるから」と、言っていた。

 わたしは「気になるの?」と訊かれて、「さして興味はありません」と、答えた。


 それなのに。


 なぜだか今更になって、先生は一体どんな自傷行為をしているのだろう、と気になってきている自分に、気付いた。

 そしてそんな自分の思いが、さっぱりわからなかった。


 精神科、心療内科……。なぜだか急に、行ってみる価値がひょっとしたらあるのかもしれない、という気がした。


 いや……、「わたしは自傷行為をしています。けれど、さして苦しいわけでもなく、ただの癖であって、始めたきっかけだってわからないんです」なんて医者に行っても、いったいどうなるんだろうか。


  病院……。精神科か、心療内科。さして苦しみを背負っているわけでもないわたしが、そういった病院に行ったところで、いったいなんになるっていうのだろう。


 それとも……。

 わたしにもわかっていないだけで、なにか……、苦しみ、を背負っているのだろうか。


 いや……。わたしはかぶりを振った。自傷はただの癖だ。初めて自傷をしたときのことはあまり覚えていないけれど、それでも……、苦しみから逃れたくて自傷したわけでは、ないと思う。


 ……、覚えてないや。そんな昔のこと。


 ただ、先生にも言ったように、家庭環境はごくごく普通——かは、わからないけれど——虐待もネグレクトも受けていないし、両親とひどく喧嘩をしたこともない。


 イジメにだって遭ったことはないし、中学高校を不登校になったわけでもなく、今だって大学に毎日通って、取っている講義はすべて出ている。


 誰かにひどく傷つけられた覚えだってない。


 わたしのように、さして苦しみもなく、ただの癖として自傷行為をしている人も、きっと……、いる、よね……?


 そもそも体に、自分でつけた傷があるからって、なんだって言うの?


 わたしは研究室のあった建物を出て、キャンパスの出口へと歩いていった。まだ春とは言え、随分と暗くなっている。


 一人暮らしのマンションへ向かいながら、ふと通りかかったドラッグストアに立ち寄っった。今日使った包帯は血が染みてしまったから、新しい包帯を買おう。


 いつもこのドラッグストアで包帯を買っているから、どこにあるかはしっかり覚えている。ひとつだけ包帯を手に取って、レジへと向かう。

 包帯を店員に渡して、財布を取り出し小銭を渡す。釣り銭と包帯を受け取って、鞄に仕舞い込んだ。


 ドラッグストアを出て、またマンションへの道を歩く。


 マンションの扉の鍵を開けて部屋の奥へ行き、ベッドの脇の床に鞄を置き、そしてベッドの端に腰をかける。それからさっき買ったばかりの包帯と、鞄の奥にあるティッシュを取り出し、ポケットからカッターナイフを取り出した。


 腕に巻いていた包帯をほどこうかと一瞬思って、けれどやっぱりほどかずに、包帯を巻いていないところにカッターナイフの芯を出してあてがった。


 すうっ。

 思ったより、血が出ない。まあ、血が出なくてもいいのだけれど……。それでもたまに血が流れると、それに見惚れてしまう。


 しばらくわたしは夢中で何本も何本も新しい傷をつくった。たまに思いがけず深く切れて、血がだらりと垂れる。ふとベッドの端を見ると、シーツにはところどころ赤い染みがついていた。


 もっと、もっと、もっと……。

 深く、切りたい。


 高校生のときに一度だけ、随分と深く切ってしまって、だらだらだらだら血が流れて、なかなか止まらなかった。

 あれをまたやりたい、とは思うのだけれど、今のところはあの一回だけだ。


 痛くない……。そういえば、一体どうして痛くないのだろう。自分の意志で切っているから? それとも……、何か別の理由なのだろうか。


 精神科か、心療内科に、予約を取ってみようか……。病院に行ってみました、と伝えたら、先生はほっとしてくれるかもしれない。


 いや……、どうして先生をほっとさせなきゃいけないんだ? ただの大学教員。そして先生にとっては、わたしはただの学生。それもたくさんいる学生の一人にすぎない。


 わたしは携帯電話を取り出して、近くの精神科や心療内科を調べてみた。さすがにこの時間はもう開いていないだろうし、もしも、もしも……、予約を入れるとしても明日以降にはなるけれど……。


 さて……、どうしたものだろうか。

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