第29話 ベルモント会議



 2040年12月17日アメリカ東部標準時16時30分。米宇宙医学協会の年次総会3日目にあたるその日、マサチューセッツ州ベルモントにあるエドワルド生物学研究所の会議場では火星への有人飛行に関する発表が続いていた。密なスケジュールにもかかわらず3日目もほとんど空席が見あたらず、この問題についての関心の高さがうかがわれた。


 火星への有人飛行には、乗員の生活と安全確保に予想以上に膨大な予算が必要なこと、安全基準をある程度緩和しなければ実現は到底不可能であり、どこまでなら緩和できるのかで研究者の見解が分かれていた。米国学術研究会議(NRC)は、有人火星飛行立案にあたっては安全基準を明確にするようNASAに要請していた。


 2037年にNASAが打ち上げた火星探査機「マーズ・バイオ2」では、14ヶ月にわたる火星往復飛行を通じ5種類の生物にどのような影響があらわれるのかが中心テーマとなっていたが、その成果が初めて公表されるのが今回のベルモント会議であった。


 昨日までの2日間に、人工的な低レベルの振動によって骨密度を維持する技術など、12件の有人火星飛行に関する研究発表があった。ワシントン大学とジョンソン宇宙センターが共同で火星有人飛行のための仮死状態研究を進めているが、長期にわたる仮死状態管理の難しさが課題となっていた。また、日本・ロシアの合同研究チームは、6年前から着手されたというテレプレゼンス技術を使った探査ロボット計画を発表していた。



 今日は既に、「マーズ・バイオ2」の成果に関する6件の発表と火星-地球間検疫に関する3件の発表が行われた。



 目標である有人火星往復飛行の障害は大きく2つあった。ひとつは従来から問題となっていた生物学的リスクとしての「放射線」である。太陽フレアからの高速陽子や超新星爆発によって加速された宇宙線が第一の大きな障害となっていた。2025年から建設がストップしている「スペースタワー」でも、静止軌道までの移動に要する7日間に相当量の放射線にさらされるということから、一部の技術者からは防備が十分でないと異議が出されていた。


 火星飛行では地球を周回する高度数百kmのステーション軌道のように、地球磁気圏で防護されてはいない。また、月面基地のように土壌によるバリヤーもない。火星飛行ではむき出しの宇宙空間を飛行しなければならず、重量のかさむバリヤーで宇宙船を包むこともできない。



 2032年8月23日に太陽中央部で起こったX(エックス)クラスの太陽フレアは過去12年間で最大級のものだった。あらかじめフレア予報が出ていたことや発生時の警報により、地球を周回する宇宙ステーション内の人員は放射線防壁を強化した区画に避難していた。このフレアによる紫外線上昇が電離層に与えた影響で、地球昼側の短波通信が4~5時間にわたり不能になるという通信障害も発生していた。


 フレアからはきわめて高速な陽子を主とする放射線も大量に発生し、それらはフレアが極大に達してから27分ほどで地球に達した。月面(虹の入江基地)での測定では3200ミリシーベルト(320レム)の放射線が検出された。もしも、基地隊員が宇宙服だけで月面に出ていたら、放射線障害を起こし2ヶ月以内に死亡していただろう。


 とりわけ深刻なのは銀河宇宙線(GCR)である。超新星爆発により光速近くまでに加速された鉄の原子核のエネルギーは数兆電子ボルトにも達する。太陽フレアによって加速された数億電子ボルトの陽子エネルギーの比ではない。船体を容易に貫通し宇宙飛行士のDNAを損傷し、細胞を死に到らせる。船体の金属原子核にあたれば核分裂を引き起こす。その核分裂破片も有害な放射線となる。むしろ、水素やヘリウムのような軽い元素のほうが核分裂を引き起こすことなくGCRには有効なシールドとなる。


 アポロ計画での月飛行では、宇宙ステーションでの3倍もの放射線を浴びていた。もちろん、それは数日間の飛行であり船体はある程度のシールドとして機能したため、深刻な状況にはならなかったが火星飛行では往復に1年以上を要することになる。




 戦後間もない1946年、アメリカ東部の主要大学が共同で、非営利の核科学研究施設をニューヨーク州ロングアイランドに設立したことがその歴史の開幕となったブルックヘヴン国立研究所。


 2003年10月には同研究所にNASAの宇宙放射線研究所(NSRL)が開設され、粒子加速器を使った擬似的な宇宙線粒子を発生させて哺乳類への影響などが調べられてきた。研究成果は膨大な資料として公表されてきたが、2025年以降、NSRLでは有人火星飛行を念頭に、同じくNASAのマーシャル宇宙飛行センター(MSFC)と共同でプラスチック製宇宙船の実用化研究に着手している。


 プラスチックは、核分裂による有害な二次宇宙線を発生させにくい水素原子を大量に含み、宇宙線を吸収する軽量で良好な素材である。 ゴミ袋の材料でもあるポリエチレンでさえ、アルミニウムよりも20%も多くの宇宙線を吸収し、太陽フレアに対しては50%も多くの放射線を吸収する。 MSFCでは、アルミニウムの10倍の強度を持つ超強化ポリエチレンの開発にも成功し、すでに地球周回軌道上の各ステーションで居住区画用建材として導入されている。


 NSRLのブライアン・フィリップスは、火星飛行の安全性を高めるため、宇宙船の居住区画の周囲を液体水素タンクで覆うアイデアについて発表を行ったこともある。液体水素の宇宙線遮断率はアルミニウムの2.5倍であるという。問題は、タンクの厚みが50~100cmもあることだった。今回フィリップスは、解決策としてカーボンナノチューブの船体を提案していた。同じ重量なら鋼鉄の600倍の強度を持ち、しかも水素原子を大量に含む。周回ステーション往復機で近く実験を始めるという。


 放射線が電子回路に与える影響も重大であり、特に生命維持システムなど人命にかかわる重要度の高いものについては、同じ3つのCPUを搭載することが原則となっている。仮にひとつのCPUにエラーが発生しても多数決原理で正常な機能が保たれる設計である。


 前日の発表のなかで、ジェット推進研究所のポール・コーエンは、ソフトウェア的に対処する方法を考案していた。エラーの評価をソフトウェアが行い、それが論理的にあり得そうな数値なのかどうかを監視するというものである。重要度がそれほど高くない機器については、費用や電力消費を押さえる効率的な方法として注目されていた。



 有人火星往復飛行の最大の障害のもうひとつは、シーマ・シャハクのいう「心理の壁」であった。


 人間社会からの隔離が人間の行動にどのような影響を及ぼすかについて、神経系疾患をもつ患者74の例と、災害や事故により長期にわたり孤立した環境に置かれた16の例、さらに 虹の入江基地建設時における臨床心理記録などを詳細に分析し、宇宙空間、とりわけ月以遠で長期飛行・滞在をする技術者・科学者の心理をいかに正常に維持するかを提言した論文が「閉鎖空間における心理過程」であった。(2033年、ベルリン心理学研究所発行の論文集第22巻に集録。同年のアクシュータ賞を受賞)外部からの助けが全く望めない状況になると、正常な知的活動をもはや維持できなくなる、というのが彼女の出した結論のひとつであった。有人火星飛行では、事故や故障で地球との通信がとれなくなる事態も想定しなければならなかった。


 対策としてシャハクが挙げたのは、薬物投与によって強い孤独感、不安感を抑制するというものであったが、連続長期投与による副作用などの課題が残っていた。火星近くでは、地球との電波の往復に6分以上はかかるため「会話」は不可能となり、飛行中、新鮮な野菜や果物などを食することも叶わない。単調な生活の中で高まる精神的ストレスが火星飛行の大きな脅威となり「心理の壁」となることをシャハクは予想したのである。



 火星への往復飛行時間をもっと短くすることで「放射線の脅威」と「心理の壁」を軽減しようという研究もいくつか発表された。その中で最も注目されたのがNASAゴダード宇宙飛行センターのウィリアム・ステイガワルドの陽電子エンジン開発計画であった。


 火星への飛行を化学燃料エンジンで行うにはたとえ一人の宇宙飛行士であっても何トンもの燃料を必要とする。ところが、反物質エンジンなら10ミリグラムで足りてしまうのだ。ステイガワルドらが取り組んでいる新設計の陽電子エンジンならば火星まで45日で到達できる。


 従来研究されてきた反物質エンジンでは反陽子を想定していたのに対し、陽電子エンジンなら構造も単純で400倍も効率が良い。反陽子エンジンでは高エネルギーガンマ線でエンジン物質そのものの核分裂を引き起こし、エンジンを放射能汚染してしまうが陽電子エンジンではその心配もない。帰還時に地球大気圏に突入しても安全である。地球上の粒子加速器ではなく、宇宙船の上で陽電子を効率的に作り出す設備や、陽電子を安全に保存するための電磁場制御技術など解決すべき大きな課題が残されていた。


 火星の砂塵の危険性も「マーズ・バイオ2」で初めて確認された。月面同様、細かい塵が呼吸器や眼に与える影響は火星でも同じであったが、さらに深刻なのは、土壌の酸性度が強く、砒素や六価クロムなどの有害金属も含まれていることだった。




 本日の発表も終わりに近づいていた。


 「マーズ・バイオ2」の生物学実験の責任者である美濃幸衣子は、結論に入るまえに窓の外の広大な敷地に目をやった。この数年、12月になっても雪が降らない日々が続くようになった。裸になった木々の向こうには紅色に染まった空が広がり、金星が次第に輝きを増していくところだった。


 眼を空からそらすと、今は止まったままの噴水の向こうからこちらに走ってくる人影が見えた。彼女は室内の大型スクリーンに目を戻した。


 太陽活動期の各段階において、6つの火星探査機から得られた環境放射線測定の結果が示されていた。


 場内に通じる奧の扉が乱暴に開く音がしたかと思うと、先ほどの人物(身分証を下げており、この研究所の職員らしかった)が人垣をかき分けるように進んできた。場内がざわつき中、彼は議事進行役と何やらささやき会うと、進行役のパット・ローリングス博士があわてて幸衣子に近づいてきた。


「どうか、落ち着いて聞いてほしい。息子さんが月で事故にあったらしい」


 後ろほうで誰かの声がした。


「テレビのラインをつないでくれ! 月から中継がはいってる」


 そのとき、幸衣子は机上においてあった無音モードにしたエニグマ(携帯端末)が「緊急通信」の文字を点滅させていることにまだ気づいていなかった。





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