第2話 海王星




 厳しい寒さが残る1781年3月13日のイングランド地方。その西方の温泉地として名高いバースでは、オクタゴン・チャペルのオルガン奏者をしていたアマチュア天文家、フリードリッヒ・ウィリアム・ハーシェルがきょうも自作の反射望遠鏡を星空に向けていた。



 ときに音楽の教師や演奏会も行っていた彼の収入は安定はしていたものの、とても市販の望遠鏡を手に入れるようなぜいたくはできなかった。天体観測の助手をつとめることもあった妹のカロラインは、家中に望遠鏡の部品や製作用の道具が置かれていることに閉口していた。あるときは、金属の鋳型が割れ、溶けた熱い金属が床に流れ出たこともあった。



 その夜、最初に作った4インチ半という口径の望遠鏡にかわり、6.2インチ口径の望遠鏡が使われていたが、その見え味は当時のグリニッジ天文台の望遠鏡を上回るという素晴らしい出来だった。



 22時をとっくにまわった頃、ニューキング街19番地の自宅庭では、望遠鏡の木製の筒が、おうし座の「かに星雲」とふたご座の散開星団M35の間に向けられていた。ハーシェルは妙な光に気づいた。わずかに大きく見える奇妙な天体だった。227倍だった倍率を460倍にするとその像は2倍に大きくなった。視野のほかの星(恒星)はすこしも大きくは見えなかった。



 おうし座ゼータ星のそばにあったその天体を「彗星」ではないかと彼は考えた。



 その後の観測から、周囲の星々に対し位置が変わっていることを確認したハーシェルは 王立学士院に報告を書いた。4月になるまで観測を続けたが彗星であることに疑いを持つことはなかった。



 王室天文官のネヴィル・マスケリンは、ハーシェルからの手紙を読むなり、尾もなく輪郭もはっきりしているその天体が彗星であるはずがないと感じ、観測位置の変化から軌道を計算したところ、なんと惑星のようにほぼ円形の軌道をまわる天体であることが判明した。



 観測が次第に蓄積され、この天体が土星の彼方をまわる「惑星」であることが明白になった。ハーシェルはイングランド王の名にちなみ「ジョージの星」 (Georgium Sidus )、あるいは「ジョージの惑星」(Georgian Planet)という名を提案したが到底そのような名が国外に通用するはずがなかった。


ドイツのヨハン・エラート・ボーデはこの新惑星を Uranus 天王星と呼ぶことを提案し、その呼び名は次第にヨーロッパ中に広まっていった。



 その年の11月、ハーシェルは王立学士院からコプリーメダルを授与され、 12月には学士院会員に推薦されたのである。



 人類の歴史上、長らく続いていた「太陽系の惑星は土星まで」という思いこみは、ここにおいて完全に覆された。




 しかし、話はまだ終わらなかった。天王星の「揺らぎ」が次第に天文学者の頭を悩ませるようになったのだ。




 ユルバン・ジャン・ジョセフ・ルベリエは1811年3月11日、フランス北西部のサン・ローに生まれた。決して裕福な家庭ではなかったが、数学の才能を見抜いた父親は、ルベリエにぜひとも高等教育をうけさせようと、家まで売り払い学費を工面した。その甲斐あって、ルベリエは国立理工科大学(Ecole Polytechnique)に入学した。冷静な眼差しが印象的な学生だったが、誰も彼の輝ける未来を予測することはできなかった。



 国立理工科大学の天文教授となったルベリエは、たちまち数学の才を発揮し、 長期にわたる惑星軌道要素を1839年9月16日、パリ科学アカデミーに提出した。その業績がパリ天文台台長フランソワ・ジャン・ドミニーク・アラゴーの眼にとまることとなる。アラゴーはルベリエに対し、その計算能力を大いに評価し、水星の運動理論に用いてはどうかと提案した。



 水星は太陽の近くにあるため位置観測は容易でなく、また惑星としては離心率が大きな軌道であったため、正確な軌道を求めることがとても難しかった。



 ルベリエは持てる時間のほとんどを費やして水星の運動理論に取り組むこととなる。彼は計算のため、 パリ天文台にあった膨大な水星の観測記録を活用した。



 それまでにも水星の軌道を正確に求めようとする試みはあったのだが、満足な結果が出たためしがなく、数時間の誤差すら珍しくなかった。



 3年間を費やし1843年に発表されたのが「水星軌道とその摂動の新しい決定」という論文だった。2年後には増補された内容が「水星の運動理論」という書物となって出版された。ルベリエはそのなかで、1845年5月8日に水星の太陽面通過、すなわち太陽の手前を水星が横切りシルエットと化した水星が観測されることを予測した。それはフランスの一部だけでなく北米からも観測できるものだった。



 やがてその日がやってきた。実際、計算とは16秒以内の誤差で、水星の黒い小さな円盤が太陽面に接触したのだった。



 アラゴーはこの成功に気をよくして、さらなる惑星の問題をルベリエに出すことにした。 天文学者の誰もがあきらめかけていた問題、天王星が、計算で予測された位置からずれるという問題だった。



 天王星の軌道を計算でさかのぼり、過去にこの天体が(天王星とは知らずに)記録されたことがないかが調査された。すると、最も古いものでは、初代グリニッジ天文台台長を勤めたイギリスのジョン・フラムスチードが1690年に「おうし座34番星」として記録していたことがわかった。



 こうした古い観測を含め、長期にわたる観測データから正確に天王星の軌道運動を算出することができるはずだった。ところがいくら工夫をこらしてもうまくいかなかった。ある時期に合っても別の時期には、計算される位置と観測された位置とが微妙にずれるのである。1792年にフランスのデランブルが完成させた天王星の計算表もたちまち正確さを欠いてきた。その修正を最新のデータで試みたパリ天文台台長のブヴァールも成功には到らなかった。



 「ずれ」は1822年には極大となった。それ以前は軌道上で計算位置よりも進んだ位置にあった天王星が、1822年以降は遅れる向きに転じたのだ。



 1841年7月3日、ケンブリッジ大学の学生だったアダムズは、天王星の運動を乱す原因と考えられる「未知の惑星」を発見するため、学位取得後、その惑星の軌道要素を計算するという計画を日記に書き留めていた。



 アラゴーがルベリエに「天王星問題」を持ちかけたのは1845年6月。


その夏が終わる頃、イギリスのジョン・カウチ・アダムズはすでに答えを出していた。




 アダムズは1819年6月5日、イングランド西端のコーンウォール州にあるリドコットという土地で、7人兄弟の長男として生まれた。家は小作農をしていた。アダムズの数学の才能が次第に周囲の目にも明らかになっていく。1835年、アダムズは夜空に現れていたハリー彗星を目撃した。何百年も昔のヨーロッパを恐怖に陥れていた彗星が、いまや出現を正確に予測できる存在となっていることにアダムズは強く心を惹かれた。16歳になったその年、彼はリドコットで将来見える日食の日時を正確に計算することができた。ほとんどすべては独学だった。



 奨学金を得てケンブリッジ大学に通うようになったアダムズは小柄なほうで、深緑色でよれよれの外套をまとう、どちらかといえば目立たぬ学生だった。



 1841年6月、そんな彼の生涯を変える出来事が起こった。トリニティ・カレッジの書店を覗いていたアダムズは、ケンブリッジ大学天文台台長であったジョージ・エアリーの論文に偶然出くわす。そこには「天王星問題」が言及されていたのである。



 1843年1月に学位を取得すると、彼は大学のセント・ジョーンズ・カレッジのフェロー(カレッジの教員)に推薦された。



 アダムズは、太陽から離れ天王星ほどの距離になると、もはやニュートンの万有引力の法則が異なる形になっているのでは、という可能性も考えたが、最終的には「天王星の外側にある未知の惑星がその重力で天王星の運動を乱す」という方向で全神経を集中することになる。



 使用する観測データを増やし仮定を減らし、次第に解を改良していくアダムズ。1845年9月に得られた楕円軌道のデータがケンブリッジ天文台台長のジェームズ・チャリスに 送られた。10月1日に「その惑星」が見えるはずの位置もそこには含まれていた。当時のケンブリッジ天文台には強力な口径11.7インチの屈折望遠鏡があり、すぐに探してくれることをアダムズは願ったのだが、多忙なチャリスはそのような行動をとらず、グリニッジ天文台台長になっていたエアリーに相談してみるようにと返事をしただけだった。



 アダムズは直接データを持参しエアリーのところへ出かけるのだが、運の悪いことに エアリーはフランスに出かけていた。アダムズはチャリスの紹介状を残して帰宅した。10月21日、2度目にエアリーの家を訪ねたときもまた予告なしの訪問だった。仕事上、妙な時間帯に食事をしなければならないエアリーは午後3時半に夕食をとっていた。ちょうど食事どきにあたっていたため、執事が取り合わなかった。アダムズは計算の要旨を書いた紙を残し、エアリー邸をあとにした。彼は冷たくあしらわれたことに落胆を隠せなかった。



 エアリーは、アダムズの訪問から2週間たたぬ間に彼に手紙を送ったが、その内容は「推論としては興味深い」というもので、さらなる検討を要求していた。アダムズは、もうそれに返事を書く気はなかった。



 アダムズはさらに計算を改良していった。発表されることのない「未知の惑星の位置」は彼の手中に握られたまま、発見の栄誉は永遠に葬り去られようとしていた。




 フランスのルベリエは、計算に取りかかるのには出遅れたが、発表では間違いなく先んじた。1846年6月1日に公表された「天王星の運動の研究」という論文はエアリーのもとにも6月23日頃には届いた。彼は、ルベリエの計算結果と7ヶ月前に読んだアダムズの計算結果とがほとんど一致していたことにとても驚いた。それまではアダムズの計算に不十分なところがあると見なしていたエアリーだったが、もはや何の疑いをはさむ理由がなかった。



 6月29日には、チャリスやジョン・ハーシェル(ウィリアムの息子)もメンバーである王立天文台管理委員会の席上、エアリーは「天文台の力を傾注すれば、新惑星を短時間で発見できる可能性は非常に高い」とまで発言していた。



 グリニッジ天文台のエアリーは、口径11.75インチ(30cm)という大きい望遠鏡をもつケンブリッジ天文台での捜索が有利と考え、ケンブリッジ天文台のチャリスに要請の手紙を書いた。 当時のグリニッジ天文台では、口径6.7インチ望遠鏡が最大であったのである。



 こうして、ついに7月29日、ケンブリッジ天文台のチャリスが捜索を開始した。アダムズは新惑星の明るさを9等以上と見ていたにもかかわらず、チャリスはもっと暗い可能性(10等か11等)を想定していた。 エアリーが捜索を指示した捜索域内には11等までの星が3000個をこえていたのだ。



 恒星とは異なる、小さな円盤上に見える天体を探せば、もっと能率的だったが、実際にとられた観測方法は、各星の位置を3度プロットして位置の変化を比較する、というたいへん手間のかかるものだった。あとでわかったことだが、チャリスは8月4日と12日の2度も新惑星を記録していたのだ。チャリスはたいへん悔しい思いをすることになる。偉大な発見が彼の目と鼻の先にぶら下がっていたのだ。



 一方、6月1日パリ科学アカデミーに提出されたルベリエの論文は、大西洋を越え、アメリカ海軍天文台のシアーズ・クック・ウォーカーという若い天文学者の手にも渡っていた。ウォーカーは、新惑星の捜索を上司に提案した。そんなことで新惑星が見つかるとは思いもよらない彼の上司は、観測スケジュールが立て込んでいるとして、新惑星の捜索を認めなかった。




 8月31日、ルベリエは新惑星の軌道要素を示した新論文をアカデミーに提出した。彼は、問題の天体が8月19日頃には「衝」の位置(地球から見て太陽と反対の方向)に来ること、3等のやぎ座デルタ星の約5度東の位置を探せば見つかること、恒星とはっきり区別できる3.3秒角の大きさと予測されること、などを付け加えていた。望遠鏡をそこに向ければ新惑星が見つかる!という論文であるにもかかわらず、こうした方法で本当に新惑星が見つかると考えた天文台は、フランス国内にひとつもなかった。



 ルベリエのこの新論文は、9月下旬になるまでイギリスには到着しなかった。



 一方、アダムズはグリニッジ天文台から最近の天王星の観測位置を取り寄せ、計算の改良を進めた。



 彼は英国科学振興協会で天王星問題の短い説明をするつもりだったが、不運はさらに続いていた。 アダムズが到着した9月15日は1日違いで、発表すべき分科会はすでに終わっていたのだ。



 9月18日、しびれを切らしたルベリエはついに国外に応援を頼むことになる。以前、論文を受け取ったこともある王立ベルリン天文台のゴットフリート・ガレに手紙を送った。ガレは23日にそれを受け取る。ガレは直ちに台長であるヨハン・エンケの許可を求めた。エンケは「新惑星探し」の話をいぶかしく思ったが、パリの紳士の要請を渋々受けることにした。



 若き学生ハインリッヒ・ルートヴィヒ・ダレストも観測への参加を望んだ。その夜、天文台の主力望遠鏡である口径9インチ屈折望遠鏡を収めたドームのスリットがゆっくりと開かれた。それは輝かしい新惑星発見の栄光への扉でもあった。



 できあがったばかりの最新の星図がこの天文台にあったことも幸いした。ガレが望遠鏡を覗き、ダレストが星図との照合を行っていった。星図に載っていない8等級の星が難なく発見されたのである。興奮したダレストは台長のエンケのもとへ走った。3人は夜中を過ぎて2時半頃まで新惑星を観測し、次の夜も確認観測が行われた。星像の大きさを測ると3.2秒角だった。距離から計算するとそれは地球の5倍もある天体であった。詳細な観測から1時間に3秒ほど西へ位置が変わっていることもわかった。発見位置はルベリエの予想位置から55分角しかずれていなかった。空に輝く満月2個分ほどの角度である。



 9月25日、ガレはルベリエに手紙を書き、「あなたが示した位置に惑星が本当に存在していました」 と知らせるとともに、ヤヌスという名前を提案した。ルベリエもその返事で感謝を述べるとともに、 追伸として「フランス経度局は Neptune (海王星)という名を決定した」と書いた。



 フランス経度局が Neptune という名を与えたなどという記録は何も残っていない。もちろん、経度局にそのような権限もなかった。 ガレの提案を快く思わなかったルベリエの作り話と思われるが、いずれにせよ、Neptune の名はその後広く使われるようになった。




 エンケはドイツの天文専門誌「アストロノミシェ・ナハリヒテン」に新惑星発見の公式報告を送るとともに、ゴータの天文学者 ペーター・アンドレアス・ハンセンにも手紙を送った。エアリーは当時そこに滞在中であった。9月29日に手紙が着くと初めてエアリーも新惑星発見を知ったのである。



 翌朝にはニュースが海峡をわたりイギリスに届いた。




 一方チャリスは、9月29日にルベリエの新論文を受け取った。そこには探すべき位置と新惑星が小さな円盤上に見えるはずであることが書かれていた。そのことは以前にもアダムズが指摘していたことだったがチャリスはずっと無視していた。しかし、さすがに今度は円盤状に見える天体を探すことにした。



 そして、早くもその夜、円盤状に見える天体がルベリエの示した位置に見つかったのだが、 なんということか、 チャリスは倍率を上げて確認するということを怠っていた。



 9月30日の晩餐で、チャリスは昨夜見た天体のことをキングズレー牧師に話した。牧師は大いに驚いたようすで、はやく高倍率で確認をするようチャリスをせかした。食事のあとに確認するつもりだったのが、チャリス夫人がしつこくお茶を勧めたため、観測は後回しとなった。さあいよいよ観測となったとき、さきほどまで快晴だった空はいつのまにかすっかり雲っていた。翌日には、望遠鏡を向ける辺りに月があり、チャリスは観測をあきらめてしまった。



 10月1日、ロンドン・タイムズは新惑星の発見を伝えると同時に、口径7インチ 望遠鏡でもロンドンから見えたと報じた。しかも、月明かりと霧空のもとで。 チャリスは観測記録を調べ、捜索を始めてそれほど時間がたっていない8月4日と12日の2度も新惑星を記録していたことに気づくのであった。



 ジョン・ハーシェルは10月1日、ロンドンの新聞へ送った手紙でルベリエの功績をたたえると ともに、同じような研究を独立に行い、ほとんど同じ結論を導いていた若きアダムズのことにも言及していた。



 エアリーもルベリエへの手紙で心からの祝いのことばと、ルベリエと同じ結果を導いていた研究者 がイギリスにいたことを書いた。それを読んだルベリエは驚き、さらに激怒した。なぜそのことを今までずっと黙っていたのかと。



 すでに1845年10月には、チャリスとエアリーのもとにアダムズの計算結果があったことや ベルリンで発見されたとき、チャリスも惑星を捜索していたこと、またチャリスがオケアヌスという 名前まで考えていたことなどが、10月17日の新聞紙上に載ったチャリスの弁明の中で明らかとなった。いまや、エアリーとチャリスはイギリス中の非難の矢面に立たされる事態となった。



 1846年10月19日のパリ科学アカデミーで行われたアラゴーの熱情的な演説は「公表されなかったアダムズの研究」に海王星発見への先取権は認めがたい、という内容であり、その長い演説は会場の圧倒的な拍手で締めくくられたのである。フランスの10月21日の新聞には「惑星泥棒」という見出しが載った。



 海王星問題は科学の問題だけでなくイギリスへの政治的な敵対意識を刺激することとなった。当時の両国はエジプトをめぐる外交で対立していたからである。



 1846年10月5日、ルベリエは海王星発見を導いた功績からレジオンドヌール勲章を授与され、 その後パリ大学の天体力学教授に任命された。イギリスも王立学士院がルベリエに対しコプリーメダルを送っている。




 11月13日、イギリス王立学士院が海王星問題に関する審問会を開いた。この席でまず最初にエアリーは「天王星の外側の惑星の発見についての歴史的状況の考察」という発表を行った。それはありのままを伝える内容ではけっしてなかった。その中でエアリーは、「もしアダムズが1845年10月の時点で発表を行っていたら新惑星は直ちに発見されたかもしれない」という、自らの責任を回避するような発言も行っていた。



 続けてチャリスも「天王星の外側の惑星の検出についてケンブリッジ天文台が行った観測の考察」という発表を行ったが、それはただ彼を惨めにするだけだった。



 最後に演壇に立ったアダムズは「天王星の運動に見られる不規則性の説明」という発表を行った。そして彼は、海王星発見について少しも不満を述べることはなく、ルベリエへの賞賛を以下のように述べた。



「... 疑いもなく、彼の研究が最初に世界に発表され、それが実際の発見を導いたのです。ルベリエ氏による海王星発見への功績は、いささかなりとも損なわれるものではありません」 こうしたアダムズの紳士的な態度は、賞賛をもって迎えられた。




 1847年6月、オックスフォードで開かれたイギリス科学振興協会の会場で、アダムズとルベリエは初めて顔を合わせた。周囲にいた人々は一瞬息をのんだが、すぐに2人は心からの固い握手を交わしたのだった。数日後、ジョン・ハーシェルは2人を自分の屋敷に招き、親しくなっていた2人のようすにすっかり満足していた。



 1848年にはアダムズも王立学士院からコプリーメダルが送られ、1851年には王立天文学会会長に就任する。1858年にはセント・アンドリューズ大学の数学教授となった。1861年にはケンブリッジ天文台台長をチャリスから引き継ぎ、死去するまでその職にあった。



 1863年、44歳のアダムズはエリザ・ブルースと結婚するが生涯を通じ子供はいなかった。 女性のための高等教育促進協会の初代会長にも就任し、ケンブリッジで初めての女性カレッジである ニューナム・カレッジ設立にも尽力した。



 海王星発見後もアダムズは月の運動や、しし座流星群の軌道の研究など、天体力学の分野で大いなる貢献を果たしていく。長い病との闘いに疲れたアダムズは、1892年1月21日、ケンブリッジ天文台にて72歳の生涯を閉じた。




 いっぽうのルベリエは、1853年のアラゴー死去のあと、パリ天文台台長の職に就いた。当時のパリ天文台は停滞気味で、ルベリエはその建て直しをはかるため、ときに強攻策を とった。それがもとでリコール運動が起き、1870年にいったん台長を退くが、後任者が 1873年に死去すると再びルベリエが台長に復帰する。今度は理事会による厳格な管理が 行われ、ルベリエの自由にはならなかった。1877年9月23日、66歳の生涯をパリで 閉じることとなった。自ら望遠鏡で観測することに関心のなかったルベリエは、どうやら生涯を 通じて海王星を望遠鏡で見たことがなかったようだ。




 ところで、 ルベリエの新惑星の探究は、海王星発見後、今度は太陽系の内側にも向けられていた。 水星の奇妙な軌道運動が発見され、新惑星の存在が疑われだしたのである。



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