第56話 うつろな夜に


 先ほどまで苦しんでいたのが嘘のように楽だ。陸地にいるときと同じ呼吸ができる。全身を包んでいるのは水なのに、わたしはやっぱりもう死んでしまったの? …………とてもそうは思えないけれど。

 

 なんて落ち着く場所なのか。大気の振動を聞くより、海中のくぐもった旋律が、わたしにはちょうどいい。陸地では、すべての喧騒がダイレクトに届きすぎるから。人々の囁きも、小鳥の囀りも、得体の知れない機械の駆動音も……わたしにはすべてがよく聞こえた。煩わしかった、いつも。


 彼の声だけを聞いていたかった。ありとあらゆる生活音や雑音にさらされるなかで、あの声だけが光を纏って心に届くようだった。唯一、好ましかった。人魚であれば、彼でなくとも人間の耳に心地よく響く周波数を出せるのかもしれない。


 でも、わたしは彼がいい。彼の声がいっとう好き。あのひとの声だけが慕わしい。目覚めるときも、眠りにつくのも、いつでもあの声に導かれたかった。もっともっと聞いていたかった。


 声で思い出した事がある。わたしは出稼ぎがてら、人魚にまつわる伝承を調べ回ってみたけれど、ほとんど情報は得られなかった。他の架空の生きものについてなら、いくらでも発見できたのに、変なの。でも、おばあちゃんから仕入れたとっておきなら、ひとつだけ。――――彼らは世にも美しい声で歌うんだって。


 いつもいつも『今度会えたときに聞かせてもらおう』と思って忘れてしまっていた。本当か嘘か例外か、確かめる事ができなくて残念。微睡みのなかで聞いた優しい歌声も、たぶんあなたじゃなかったから。でも、生まれ持った音感がどうだって、あなたがとても綺麗な声を持っている事は知っている。海底では有名でも、この地上ではきっと、わたしだけが。


 ああ、どうしよう。死のうとしているのに、わたし……あなたにものすごく会いたい。いますぐに。一度くらいは、わがままを言って困らせてみればよかった。…………じゃないね。いままでずっとそれができなかったから、最期くらいはわたしから会いに行くと決めたんだった。


 そこに辿り着けない事を知っていても、行きたいから行くの。それ以上の理由なんてないし、なくていい。あなたがそのヒレでわたしの元へ通ってくれたように、わたしはこの足であなたの国を目指してみる。ずっと甘えてたね。毎回来させちゃって本当にごめんね。あなたはいつだってわたしに合わせてくれていた。足もないのに、歩み寄ってくれたのはあなたからだった。


 もう一度会いたかったけど、無理そう。死んでからなら、どうだろう。遺体を発見させるのは忍びないけれど。再会のための悪あがき。陸から少しでも離れた場所へ。


 空の星として召し上げられるより、多少は現実味があるだろう。海に沈んでいくほうが、まだ少し。力を抜いて、身を委ねる。揺り籠に揺られるって、こんな感覚? 無理に進もうとしなくても、わたしの体は勝手に運ばれていく。うまく海流に乗れたらしい。





「…………なにを、しているの。こんな時間に、こんな場所で」


 聞こえるはずのない声が聞こえる。わたしのいちばん好きな…………彼の、声。今度こそ幻聴だ。そうに決まっている。おそるおそる顔を上げると、恋い焦がれた人魚がそこにはいた。ぼんやりとした光の膜に包まれて佇む彼は神々しい。どこが違うとは言えないが、少し別人のように見えた。最近会っていなかったせいだろうか。


 感極まって喉が詰まる。『あなたに会いに来た』のだと伝えたいのに、声を奪われてしまったかのようだ。彼はそんなわたしの袖を引っ張って語りかけた。指差すのは、わたしの来た方向。


「君はここでは生きられない。早く戻ろう。僕が送っていくから」


 初めてされた提案に感動をおぼえる。立場を弁えるべきなのはわかっていても、嬉しさが抑えられなかった。恋人に家まで送ってもらうなんて、普通の恋人同士みたいで。王族に庶民を送らせるわけにはいかないし、陸上を歩けない彼には、わたしをあの岩の前から家まで送り届ける事ができない。でも、いまなら『いつもの場所』までの道程を一緒に泳いで行ける。あんな出来事がある前だったら、迷わず飛びついていた。


 遅れて、昔の一人称に鼻の奥がつんとした。立場を自覚していくにつれ、彼の口調は格式ばったものに、一人称は僕から私へと変化した。伝えたことはなかったけれど、彼がさらに遠い存在に感じられて寂しかった。口調まで元どおりとはいかないけれど、そんなのは些細な事。身分の差を知る前のあなたにまた会えたみたい。わたしだって、あれからきっといろんなところが変わっているくせに。勝手だよね。


「……会いたかったの。どうしても、あなたに会いたくて…………聞こえるはずのない声まで聞こえて、それで……」


 どうしたら、ここにいる説明がつく? この身に起きた出来事を並べてみるけれど、話せば話すほど嘘のように響いて、四苦八苦。いまのわたしは年を取らないが、不老は不老で苦しみのひとつに数えられる場合もあるのだという事を痛感している。そうだ、ここにいる理由よりも帰らないという意志を伝えなきゃ。


「でも、わたし……帰りたくない。生きていたくないよ……。疲れちゃった……。これ以上人生が続いていくなんて無理。なにもない場所であなたを待つだけになりそうで…………。そんなの、生きてるとは言えないでしょ……?」 

 

 と、ここではたと気付く。おかしいな。わたしが海中で声を発する事なんてできないはずなのに。息ができている事に気付いたときにも思ったけれど、やっぱりもう死んでしまっているの? 死んでいく最中、なのかな……。でもいいや。幻影でも最期にあなたに会えたなら、思い残す事なく逝ける。単純な脳みそに感謝しよう。彼はなにも言わずにわたしを見つめたまま。


「せっかく、あなたから貰った時間なのに……。全部使い切る前に挫けて、ごめんなさい」


 突如、脳内にイメージがなだれ込んできた。見えているのとは違う風景。そこには沢山の人魚がいた。それぞれ色も形状も異なる鱗を、鰭を、持っている。思い思いの事をして生きている。合間を縫って泳ぐのは魚たち。美しい光景だけれど、口論しているひとたちも何組かいる。


 …………ああ、もしかして。彼らは海で亡くなった者たちか。それとも、海に生きた者たちか。こんなものを見せて、一体なんのつもりだろう。いま見ている場所が彼の故郷だったらいいのに、わたしには確かめる術もない。


「でも、自分で決めた事なの。わたしが選んだ事……。ここで終わるいま死ぬのが、選べるなかでいちばん幸せだと思うから」


 一方的に話し続けていると、また別のイメージが浮かんできた。今度は海の上。天気は快晴、波は穏やか。だが、前触れもなく、船は海中に吸い込まれるように沈んでいく。沢山の泡、泡、泡。バラバラの船体に、乗組員たちの屍。……そんな地獄絵図が、わたしに気付きを与えてくれた。


 先ほどの仮説は、ものだったらしい。二つのイメージは、おそらく別人の記憶。ひとつめは人魚のもので、ふたつめは船乗りと呼ばれる人間のもの。それらは、海に生き、海に死んだ者の記憶を蓄えておく何者かの存在を暗に告げていた。目の前の存在がわたしに伝えたかったことは、きっと――――……。


 ぐにゃりと歪む世界。タイムリミットか、堪えきれなかった涙のせいか。どちらでもいい。ここが終着点ではない限り、進まなきゃ。


「…………もう行くね。大好きなひとに似た優しい誰か。たぶんあなたは彼じゃないから、それ以上の事は言えないけど……。わたしをここまで送ってくれて、ありがとう」


 湧き上がってくる『愛してる』の感情は心の奥に隠し、意識をぱっと手放す。彼は最後まで微笑を湛えたまま、ひと言も発する事はなかった。





 NEXT:『絶海の人魚』

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